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満月の贈り物
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「おい、ゆみ……」
龍之介は、ゆみの顔を見た。
両目は完全に閉じられていて、呼吸もしていない。
「おい、聞こえるか? 死ぬな、ゆみ。返事しろ」
龍之介は震える声で何度も呼びかけたが、やはりゆみからは返事は無かった。
何の音も反応もしない、小さな猫の身体が両手の中にあるだけであった。
龍之介は、力が抜けたかのように、その場に両ひざをついた。
「ゆみ……折角おめえの仇を討てたってのに……」
龍之介は大粒の涙をこぼした。
何が起きたのか察した与四郎、忠兵衛たちは、声をかけられずに黙っていた。
先程まで激しい斬り合いがあったとは思えないほどの静寂。
その中に、悲痛な嗚咽が響いた。
「ゆみ……!」
龍之介は号泣した。
両腕の中で動かないゆみの白猫の身体の上に、涙がとめどなく落ちた。
誰も声をかけられずに沈黙して見守るしかない中、龍之介は一人で泣き続けた。
しかししばらくして――
不思議なことに、庭の夜闇が少し明るくなった。
夜空に煌々と輝いていた白い満月が、その光を強くしたように見えた。
そして、満月の白い光が龍之介とその両腕の中のゆみを包んだかと思うと、
「え……?」
龍之介は驚きの目を瞠った。
両腕の中の猫のゆみが、少女のゆみの姿に戻った上に、目を開いたのだ。
「おい……どういうことだ?」
龍之介は呆気に取られる。
与四郎、忠兵衛、伝吉たち、周囲の人間たちも驚いて唖然としている。
当のゆみ本人も、龍之介の両腕から降りると、目をぱちぱちさせて驚いた顔をしている。
「わたし……生きてる?」
ゆみは、猫の時に斬られた腹を触ったが、斬られた痕は消えていた。
「なんで……」
龍之介は言葉が出ない。
「あの時と同じ感じだった……うちが襲われて、火事の中でシロと一緒に倒れたと思ったら、シロになってたあの時と同じ感じ」
ゆみが思い出しながら言うと、龍之介は夜空を見上げた。
満月は先程より、一際強い光を発しているように見える。
「よくわかんねえが、とにかく生きてるわけだな……よかった、心配させやがって……生きててくれてよかったぜ、ゆみ」
龍之介は指で涙を拭うと笑みを見せ、ゆみの頭を撫でた。
するとゆみの方が逆に、見る見る目を潤ませたかと思うと大きな声で泣き始めた。
「よかった……父上、ありがとう」
ゆみは龍之介に抱き着き、子供らしい泣き声を上げ続けた。
「よし、よし……」
龍之介はゆみの頭を撫で続ける。
そんな二人に、満月は更に柔らかい光を注ぎ続けた。
「と、言うことで不思議なものでな……どうしたものかと困っていたところ、上から今回の件は一切無かったことにせよ、とのお達しだ」
紺屋町の裏長屋。
龍之介の家の上がり框に座る勝田与四郎が、番茶をすすりながら言った。
あれだけの斬り合いである。横田家で何か騒動が起きたらしいと言うのは、翌日の本所ですぐに噂になった。
そこで、勝田与四郎が奉行所の御用部屋で、これはどう処理するかと頭を抱えていたところ、今回の件は化け猫娘のことも含めて無かったこととせよ、との命が上から来て驚いた、と言うわけである。
「不思議だな、横田の親父が何かしたかな?」
龍之介が総髪を結わき直しながら言うと、
「いや、横田殿とは言え、そこまでの力は無いだろう。寧ろ追及される側だしな」
「だよな……なら何でだろうなあ?」
土間の流し場で龍之介の代わりに片付けを手伝ってやっていた"るい"は、そんな二人の会話を聞きながら密かに意味深な笑みを浮かべていた。
「それにしてもお前、そんなかしこまった服装でどこへ行くんだ?」
与四郎は不審がる。
出掛ける準備をしている龍之介は、髪こそまだ総髪だが、きちんと袴をつけ、羽織も真新しい物を用意していた。
「横田家だよ」
龍之介は答えた。
「何? その格好でってことは、まさか戻るのか?」
「そのまさかだ。これまでのことは全て謝り、心も入れ替えるので、良ければまた戻って来て源之介の父になってやってくれないか、だとさ」
「おいおい、それに乗るのか? あまりにも虫が良すぎるだろう」
与四郎は腹立たし気だ。
「俺もそう思うけど、源之介のことを考えるとなあ」
龍之介は頭をかいた。
「おゆみちゃんはどうするんだ?」
与四郎が、龍之介の隣に座っているゆみを心配げに見ると、
「おるいさんにお世話になるの」
ゆみは、にこにこしながら言った。
「へえ、そうか……」
与四郎は、土間に立つるいの背を見た。
「おゆみちゃんみたいな可愛い子がわたしの娘になるなんて、こんな嬉しいことはないわ」
るいは振り返り、前垂れで手を拭きながら笑顔を見せた。
「と、言うことで今から行って来る」
龍之介は二刀を差すと、土間に降りた。
ゆみも共に降り、与四郎とるいも合わせて四人は家を出た。
「では、俺は先に行く」
与四郎は陣笠をかぶり、廻り同心に戻って先に路地を歩いて行った。
それを見送ると、龍之介はゆみとるいを見た。
「ゆみ、じゃあ元気でな」
「うん、おじさんも。色々ありがとう」
「寂しくはねえか……?」
と、訊いた龍之介の方が、逆に寂しそうな表情を浮かべたが、
「おるいさんと一緒だから、大丈夫だよ」
ゆみはにこりと笑って見せた。
「そうか。お前は俺の親戚だ。三日に一回ぐらいは来るからよ」
「うん、待ってる」
「じゃあ、な」
龍之介は背を返し、路地を木戸の方へ歩いた。
時折振り返り、手を振る龍之介を、ゆみとるいは手を振って見送った。
やがて龍之介が木戸から表通りに出て、その姿は完全に見えなくなった。
ゆみは、龍之介がいなくなった路地を、じっと見つめていた。
龍之介にとっては久しぶりの横田家。
どこか冷えたような空気を感じるのは、まだ慣れないからなのか、以前の記憶が残っているからなのか。
しかしともかく、横田半三郎も園江も、今や大恩人となった龍之介に対する態度は変わっていた。
以前のような棘のある言葉や態度は消え、丁寧な言葉遣いで接してくれる。
だが、屋敷内にはやはり、どこか冷えたものを感じる。
そんな中で、実子の源之介とまた共に暮らせると言うことだけが、龍之介の心を暖かくしていた。
「父上とまた一緒に暮らせるなんて、夢のようです」
夕食時、源之介は食べながらはしゃぎ、行儀が悪いですよ、と園枝にたしなめられた。
「俺も、源之介とまた暮せると思うとこんなに嬉しいことはねえよ」
龍之介はすっかりしみついてしまった粗野な言葉遣いで言うと、それに気付いて慌てた。
「いや、えっと……源之介、こう言う言葉遣いはしてはならんぞ」
龍之介は苦笑いで言った。
「はは、わかっております」
源之介はにこにこしながら答える。
「婚姻のことは近々届け出るとして、とりあえずは慣れるまでゆっくりしていただきたい」
半三郎も、龍之介を気遣う言葉をかけてくれた。
「はっ……」
龍之介は頭を下げて礼を言った。
もう、はぐれの龍ではない。
実家の勘当はまだ解けていないが、とりあえず横田家に戻ることはできた。
園枝との再婚には少し思うところはあるが、食事の心配も住まいの心配も無くなった上に、息子の源之介とまた暮せる。
何も言うことはない。万々歳である。
しかし、
――何か違う。
龍之介は、そう感じていた。
時間が経てば、何日か経てば、きっとこの生活にも慣れるはずだろう。
家族との、安定したこの暮らしに。
――だけど……。
夕餉を食べ終えた龍之介は、源之介を見た。
そして源之介が食べ終わるのを待って、声をかけた。
「源之介、竹刀を持って庭へ出ないか?」
「え?」
「少し稽古をしようか」
「父上が稽古をつけてくださるのですか?」
源之介は舞い上がりそうに喜び、立ち上がった。
親子は、竹刀を持って薄暗い庭に立った。
先日、凄まじい斬り合いがあった庭だが、すでに綺麗に掃除されている。
その庭の中央で、龍之介と源之介は竹刀を持って向き合った。
「打って来い、源之介」
「え? 防具は?」
「いらねえよ。俺からは打たねえから、お前だけ打って来い。道場での形式とは違うぞ。一度でも俺の身体に当てられたらそこで終わりだ」
「わかりました……では」
源之介は気合いを発して打ちかかった。
「お、いいぞ」
龍之介は笑顔で受け止め、撥ね返す。
源之介は何度も打ちかかる。だが、一度も龍之介の身体に当てることができない。
やがて、源之介は息を乱して動きを止めた。
「よし、ここまでだ」
「一度も当てられなかった……流石父上です」
「仕方ねえ、まだ子供だ」
「でも少し悔しいです」
「お、いいぞ。その悔しいと言う気持ち、忘れるな。そしてどうしたらいいか、考えろ」
「はい」
「じゃあ、また三日後に来てやる」
「え?」
源之介はぽかんとした顔をした。
その頭を、龍之介は笑顔で優しく撫でた。
るいは、用事が遅くなってしまい、紺屋町の家に帰って来た時にはすでに暮六つ半を過ぎていた。
「ごめんね。遅くなっちゃった」
土間から板の間に上がると、そこにはゆみが囲炉裏の前に座っていたのだが、何をするでもなくぼーっとして座っていた。
「おゆみちゃん、どうしたの?」
「え? あ、おるいさん、お帰りなさい」
ゆみは、取り繕ったような笑顔を見せた。
「何かあった?」
様子が変だと思ったるいがたずねたが、
「ううん、何も」
「そう。ならいいけど……夕餉、すっかり遅くなっちゃったわね。外に食べに行きましょうか」
「やったあ」
ゆみは喜んで立ち上がり、二人は共に紺屋町を出た。
「何食べたい?」
通りを歩きながら、るいはゆみに訊く。
「う~んとね、そうだなあ」
「何でもいいわよ」
「本当? じゃあやっぱり天……」
と言いかけた時、ゆみは気付いた。
この辻を右に行けば、緑橋に着く。
「本当にここでいいの?」
「うん、美味しいんだよ」
ゆみはにこにこしながら答えた。
そこは、龍之介と何度も食べに来た、緑橋たもとの蕎麦屋台だった。
るいは、ぶっかけ蕎麦二杯を受け取って床几に座った。
そしてゆみは、いつもと同じように二つ隣の天ぷら屋台でハゼと穴子の天ぷらを買って戻って来た。
ハゼはゆみの蕎麦に、穴子はるいの蕎麦に乗せた。
「あら、本当に美味しい」
一口食べて、るいは目を瞠った。
「いいわねえ。こんなに美味しいなら龍さんも通うわけだわ」
と、るいは隣のゆみを見たが、ゆみは一口食べたきり、箸を動かしていなかった。
無言で、天ぷらの衣がふやけかけた蕎麦を見つめている。
「どうしたの? お蕎麦冷めちゃうわよ。天ぷらもしなしなになっちゃうし」
るいは言ったが、ゆみは心ここにあらずと言った感じで返事をしない。
「そうよね……」
るいは、ゆみの気持ちを察した。
「でも、三日に一回ぐらいは会いに来る、って言ってたじゃない」
「…………」
「約束はちゃんと守る人よ、龍さんは」
るいが慰めるように言うと、ゆみは一筋の涙を流した。
かと思うと、涙がぽろぽろと溢れて止まらなかった。
るいは、丼を傍らに置き、ゆみの肩を抱き寄せて背中をぽんぽんと優しく叩いた。
その間も、ゆみの涙は止まらず、ついには声を上げて泣き始めた。
すると、不意に後ろから声がした。
「何泣いてるんだ、天ぷら足りねえのか?」
ゆみは、ばっと振り返って驚いた。
そこには、龍之介が立っていた。袴はつけておらず、小袖着流しに羽織だけの姿である。
「おじさん……!」
「おい、おじさん、じゃねえだろ。父上、だろ」
龍之介が笑いながら言ったその言葉を聞いて、ゆみは泣き顔をぱっと明るくした。
「龍さん……あなた、どうして……」
るいは呆気に取られている。
「俺は完全にはぐれの龍になっちまったらしい。あの屋敷はやっぱりどうにも合わねえ。源之介には、三日に一回稽古をつけに行ってやると約束して、飛び出して来たよ」
龍之介は言いながら、ゆみの隣に座った。
「ゆみ、食べねえなら分けてくれよ。飯は食ったがもう小腹が空いちまった」
と言って、龍之介はゆみの箸を奪って一束すすった。
「あ、ずるい。わたし、まだ食べるよ!」
ゆみは泣き笑い顔で、龍之介の箸を取り返した。
「じゃあ、俺も蕎麦もらって来るかな。ついでにお前の天ぷらももう一本買って来てやるぜ」
「本当?」
「ああ。で、食べ終わったら帰ろうぜ。俺たちの家に」
龍之介は微笑みながら立ち上がった。
「うん!」
ゆみも、眩いばかりの少女の笑顔で答える。
今宵も、空は雲一つ無く澄み渡り、月が輝いている。
月は優しい白い光を、二人に注ぎ続けていた。
ー完ー
龍之介は、ゆみの顔を見た。
両目は完全に閉じられていて、呼吸もしていない。
「おい、聞こえるか? 死ぬな、ゆみ。返事しろ」
龍之介は震える声で何度も呼びかけたが、やはりゆみからは返事は無かった。
何の音も反応もしない、小さな猫の身体が両手の中にあるだけであった。
龍之介は、力が抜けたかのように、その場に両ひざをついた。
「ゆみ……折角おめえの仇を討てたってのに……」
龍之介は大粒の涙をこぼした。
何が起きたのか察した与四郎、忠兵衛たちは、声をかけられずに黙っていた。
先程まで激しい斬り合いがあったとは思えないほどの静寂。
その中に、悲痛な嗚咽が響いた。
「ゆみ……!」
龍之介は号泣した。
両腕の中で動かないゆみの白猫の身体の上に、涙がとめどなく落ちた。
誰も声をかけられずに沈黙して見守るしかない中、龍之介は一人で泣き続けた。
しかししばらくして――
不思議なことに、庭の夜闇が少し明るくなった。
夜空に煌々と輝いていた白い満月が、その光を強くしたように見えた。
そして、満月の白い光が龍之介とその両腕の中のゆみを包んだかと思うと、
「え……?」
龍之介は驚きの目を瞠った。
両腕の中の猫のゆみが、少女のゆみの姿に戻った上に、目を開いたのだ。
「おい……どういうことだ?」
龍之介は呆気に取られる。
与四郎、忠兵衛、伝吉たち、周囲の人間たちも驚いて唖然としている。
当のゆみ本人も、龍之介の両腕から降りると、目をぱちぱちさせて驚いた顔をしている。
「わたし……生きてる?」
ゆみは、猫の時に斬られた腹を触ったが、斬られた痕は消えていた。
「なんで……」
龍之介は言葉が出ない。
「あの時と同じ感じだった……うちが襲われて、火事の中でシロと一緒に倒れたと思ったら、シロになってたあの時と同じ感じ」
ゆみが思い出しながら言うと、龍之介は夜空を見上げた。
満月は先程より、一際強い光を発しているように見える。
「よくわかんねえが、とにかく生きてるわけだな……よかった、心配させやがって……生きててくれてよかったぜ、ゆみ」
龍之介は指で涙を拭うと笑みを見せ、ゆみの頭を撫でた。
するとゆみの方が逆に、見る見る目を潤ませたかと思うと大きな声で泣き始めた。
「よかった……父上、ありがとう」
ゆみは龍之介に抱き着き、子供らしい泣き声を上げ続けた。
「よし、よし……」
龍之介はゆみの頭を撫で続ける。
そんな二人に、満月は更に柔らかい光を注ぎ続けた。
「と、言うことで不思議なものでな……どうしたものかと困っていたところ、上から今回の件は一切無かったことにせよ、とのお達しだ」
紺屋町の裏長屋。
龍之介の家の上がり框に座る勝田与四郎が、番茶をすすりながら言った。
あれだけの斬り合いである。横田家で何か騒動が起きたらしいと言うのは、翌日の本所ですぐに噂になった。
そこで、勝田与四郎が奉行所の御用部屋で、これはどう処理するかと頭を抱えていたところ、今回の件は化け猫娘のことも含めて無かったこととせよ、との命が上から来て驚いた、と言うわけである。
「不思議だな、横田の親父が何かしたかな?」
龍之介が総髪を結わき直しながら言うと、
「いや、横田殿とは言え、そこまでの力は無いだろう。寧ろ追及される側だしな」
「だよな……なら何でだろうなあ?」
土間の流し場で龍之介の代わりに片付けを手伝ってやっていた"るい"は、そんな二人の会話を聞きながら密かに意味深な笑みを浮かべていた。
「それにしてもお前、そんなかしこまった服装でどこへ行くんだ?」
与四郎は不審がる。
出掛ける準備をしている龍之介は、髪こそまだ総髪だが、きちんと袴をつけ、羽織も真新しい物を用意していた。
「横田家だよ」
龍之介は答えた。
「何? その格好でってことは、まさか戻るのか?」
「そのまさかだ。これまでのことは全て謝り、心も入れ替えるので、良ければまた戻って来て源之介の父になってやってくれないか、だとさ」
「おいおい、それに乗るのか? あまりにも虫が良すぎるだろう」
与四郎は腹立たし気だ。
「俺もそう思うけど、源之介のことを考えるとなあ」
龍之介は頭をかいた。
「おゆみちゃんはどうするんだ?」
与四郎が、龍之介の隣に座っているゆみを心配げに見ると、
「おるいさんにお世話になるの」
ゆみは、にこにこしながら言った。
「へえ、そうか……」
与四郎は、土間に立つるいの背を見た。
「おゆみちゃんみたいな可愛い子がわたしの娘になるなんて、こんな嬉しいことはないわ」
るいは振り返り、前垂れで手を拭きながら笑顔を見せた。
「と、言うことで今から行って来る」
龍之介は二刀を差すと、土間に降りた。
ゆみも共に降り、与四郎とるいも合わせて四人は家を出た。
「では、俺は先に行く」
与四郎は陣笠をかぶり、廻り同心に戻って先に路地を歩いて行った。
それを見送ると、龍之介はゆみとるいを見た。
「ゆみ、じゃあ元気でな」
「うん、おじさんも。色々ありがとう」
「寂しくはねえか……?」
と、訊いた龍之介の方が、逆に寂しそうな表情を浮かべたが、
「おるいさんと一緒だから、大丈夫だよ」
ゆみはにこりと笑って見せた。
「そうか。お前は俺の親戚だ。三日に一回ぐらいは来るからよ」
「うん、待ってる」
「じゃあ、な」
龍之介は背を返し、路地を木戸の方へ歩いた。
時折振り返り、手を振る龍之介を、ゆみとるいは手を振って見送った。
やがて龍之介が木戸から表通りに出て、その姿は完全に見えなくなった。
ゆみは、龍之介がいなくなった路地を、じっと見つめていた。
龍之介にとっては久しぶりの横田家。
どこか冷えたような空気を感じるのは、まだ慣れないからなのか、以前の記憶が残っているからなのか。
しかしともかく、横田半三郎も園江も、今や大恩人となった龍之介に対する態度は変わっていた。
以前のような棘のある言葉や態度は消え、丁寧な言葉遣いで接してくれる。
だが、屋敷内にはやはり、どこか冷えたものを感じる。
そんな中で、実子の源之介とまた共に暮らせると言うことだけが、龍之介の心を暖かくしていた。
「父上とまた一緒に暮らせるなんて、夢のようです」
夕食時、源之介は食べながらはしゃぎ、行儀が悪いですよ、と園枝にたしなめられた。
「俺も、源之介とまた暮せると思うとこんなに嬉しいことはねえよ」
龍之介はすっかりしみついてしまった粗野な言葉遣いで言うと、それに気付いて慌てた。
「いや、えっと……源之介、こう言う言葉遣いはしてはならんぞ」
龍之介は苦笑いで言った。
「はは、わかっております」
源之介はにこにこしながら答える。
「婚姻のことは近々届け出るとして、とりあえずは慣れるまでゆっくりしていただきたい」
半三郎も、龍之介を気遣う言葉をかけてくれた。
「はっ……」
龍之介は頭を下げて礼を言った。
もう、はぐれの龍ではない。
実家の勘当はまだ解けていないが、とりあえず横田家に戻ることはできた。
園枝との再婚には少し思うところはあるが、食事の心配も住まいの心配も無くなった上に、息子の源之介とまた暮せる。
何も言うことはない。万々歳である。
しかし、
――何か違う。
龍之介は、そう感じていた。
時間が経てば、何日か経てば、きっとこの生活にも慣れるはずだろう。
家族との、安定したこの暮らしに。
――だけど……。
夕餉を食べ終えた龍之介は、源之介を見た。
そして源之介が食べ終わるのを待って、声をかけた。
「源之介、竹刀を持って庭へ出ないか?」
「え?」
「少し稽古をしようか」
「父上が稽古をつけてくださるのですか?」
源之介は舞い上がりそうに喜び、立ち上がった。
親子は、竹刀を持って薄暗い庭に立った。
先日、凄まじい斬り合いがあった庭だが、すでに綺麗に掃除されている。
その庭の中央で、龍之介と源之介は竹刀を持って向き合った。
「打って来い、源之介」
「え? 防具は?」
「いらねえよ。俺からは打たねえから、お前だけ打って来い。道場での形式とは違うぞ。一度でも俺の身体に当てられたらそこで終わりだ」
「わかりました……では」
源之介は気合いを発して打ちかかった。
「お、いいぞ」
龍之介は笑顔で受け止め、撥ね返す。
源之介は何度も打ちかかる。だが、一度も龍之介の身体に当てることができない。
やがて、源之介は息を乱して動きを止めた。
「よし、ここまでだ」
「一度も当てられなかった……流石父上です」
「仕方ねえ、まだ子供だ」
「でも少し悔しいです」
「お、いいぞ。その悔しいと言う気持ち、忘れるな。そしてどうしたらいいか、考えろ」
「はい」
「じゃあ、また三日後に来てやる」
「え?」
源之介はぽかんとした顔をした。
その頭を、龍之介は笑顔で優しく撫でた。
るいは、用事が遅くなってしまい、紺屋町の家に帰って来た時にはすでに暮六つ半を過ぎていた。
「ごめんね。遅くなっちゃった」
土間から板の間に上がると、そこにはゆみが囲炉裏の前に座っていたのだが、何をするでもなくぼーっとして座っていた。
「おゆみちゃん、どうしたの?」
「え? あ、おるいさん、お帰りなさい」
ゆみは、取り繕ったような笑顔を見せた。
「何かあった?」
様子が変だと思ったるいがたずねたが、
「ううん、何も」
「そう。ならいいけど……夕餉、すっかり遅くなっちゃったわね。外に食べに行きましょうか」
「やったあ」
ゆみは喜んで立ち上がり、二人は共に紺屋町を出た。
「何食べたい?」
通りを歩きながら、るいはゆみに訊く。
「う~んとね、そうだなあ」
「何でもいいわよ」
「本当? じゃあやっぱり天……」
と言いかけた時、ゆみは気付いた。
この辻を右に行けば、緑橋に着く。
「本当にここでいいの?」
「うん、美味しいんだよ」
ゆみはにこにこしながら答えた。
そこは、龍之介と何度も食べに来た、緑橋たもとの蕎麦屋台だった。
るいは、ぶっかけ蕎麦二杯を受け取って床几に座った。
そしてゆみは、いつもと同じように二つ隣の天ぷら屋台でハゼと穴子の天ぷらを買って戻って来た。
ハゼはゆみの蕎麦に、穴子はるいの蕎麦に乗せた。
「あら、本当に美味しい」
一口食べて、るいは目を瞠った。
「いいわねえ。こんなに美味しいなら龍さんも通うわけだわ」
と、るいは隣のゆみを見たが、ゆみは一口食べたきり、箸を動かしていなかった。
無言で、天ぷらの衣がふやけかけた蕎麦を見つめている。
「どうしたの? お蕎麦冷めちゃうわよ。天ぷらもしなしなになっちゃうし」
るいは言ったが、ゆみは心ここにあらずと言った感じで返事をしない。
「そうよね……」
るいは、ゆみの気持ちを察した。
「でも、三日に一回ぐらいは会いに来る、って言ってたじゃない」
「…………」
「約束はちゃんと守る人よ、龍さんは」
るいが慰めるように言うと、ゆみは一筋の涙を流した。
かと思うと、涙がぽろぽろと溢れて止まらなかった。
るいは、丼を傍らに置き、ゆみの肩を抱き寄せて背中をぽんぽんと優しく叩いた。
その間も、ゆみの涙は止まらず、ついには声を上げて泣き始めた。
すると、不意に後ろから声がした。
「何泣いてるんだ、天ぷら足りねえのか?」
ゆみは、ばっと振り返って驚いた。
そこには、龍之介が立っていた。袴はつけておらず、小袖着流しに羽織だけの姿である。
「おじさん……!」
「おい、おじさん、じゃねえだろ。父上、だろ」
龍之介が笑いながら言ったその言葉を聞いて、ゆみは泣き顔をぱっと明るくした。
「龍さん……あなた、どうして……」
るいは呆気に取られている。
「俺は完全にはぐれの龍になっちまったらしい。あの屋敷はやっぱりどうにも合わねえ。源之介には、三日に一回稽古をつけに行ってやると約束して、飛び出して来たよ」
龍之介は言いながら、ゆみの隣に座った。
「ゆみ、食べねえなら分けてくれよ。飯は食ったがもう小腹が空いちまった」
と言って、龍之介はゆみの箸を奪って一束すすった。
「あ、ずるい。わたし、まだ食べるよ!」
ゆみは泣き笑い顔で、龍之介の箸を取り返した。
「じゃあ、俺も蕎麦もらって来るかな。ついでにお前の天ぷらももう一本買って来てやるぜ」
「本当?」
「ああ。で、食べ終わったら帰ろうぜ。俺たちの家に」
龍之介は微笑みながら立ち上がった。
「うん!」
ゆみも、眩いばかりの少女の笑顔で答える。
今宵も、空は雲一つ無く澄み渡り、月が輝いている。
月は優しい白い光を、二人に注ぎ続けていた。
ー完ー
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頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
【完結】二つに一つ。 ~豊臣家最後の姫君
おーぷにんぐ☆あうと
歴史・時代
大阪夏の陣で生き延びた豊臣秀頼の遺児、天秀尼(奈阿姫)の半生を描きます。
彼女は何を想い、どう生きて、何を成したのか。
入寺からすぐに出家せずに在家で仏門に帰依したという設定で、その間、寺に駆け込んでくる人々との人間ドラマや奈阿姫の成長を描きたいと思っています。
ですので、その間は、ほぼフィクションになると思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
本作品は、カクヨムさまにも掲載しています。
※2023.9.21 編集しました。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
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ゆみと龍之介の出会い
絶体絶命を救ってくれた幼い女の子の
不思議な能力が、此れからどの様に
悪に挑んで行くのか楽しみです。
続きが待たれます。
返信遅くなりまして申し訳ございません。最近あまりに忙しかったもので……。
序盤からハードな展開ですが、明るい要素も入れて楽しくスリリングな話にするつもりです。
来月までには完結しますのでよろしくお願いします(^_^)