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第3話:雪のベンチと、伝えられなかった贈りもの
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そのマフラーには、ほんのりと甘い香りが染みついていた。
バターとミルクの香り。けれど、それだけではない。どこか懐かしくて、安心するような……まるで“誰かのやさしさ”そのもののようだった。
柚葉がそれを初めて見つけたのは、去年の冬の終わり。雪解けの午後、店の前のベンチに、それはぽつんと置かれていた。
誰の姿もなく、雪だけがちらちらと降っていたその日。黄色いマフラーだけが、まるでずっとそこに座っていたかのように、ベンチを温めていた。
「お客さんの忘れ物かもって思ってたんですけど、どれだけ聞いても誰のものか分からなくて……なんだか、手放せなくなってしまって」
柚葉は、ふわりとそのマフラーを手にとって、やさしく撫でた。
「私、このマフラーを見るたびに、誰かに“あたたかさ”をもらってるような気がするんです。……だから、これ、勝手なんですけど、返ってこなくてよかったのかもって、思うこともあって」
森村さんはしばらく黙っていたが、やがてにっこりと笑った。
「きっと、届けたかった誰かは、もう届けていたのかもしれないね。自分の手じゃなくても、君がそれを感じ取ってくれたのなら、それで十分だったんだよ」
そう言って、雪に足を取られながら、自転車をこぎ出す。
柚葉は店先で、小さく手を振った。
•
雪のベンチは、今もそこにある。
こもれびベーカリーの入り口に近い木のそばに置かれた、古い木製のベンチ。町の人がふと腰を下ろし、パンの香りに包まれながら、空を見上げる場所。
マフラーが見つかった日、柚葉はなぜか涙が止まらなかった。
それは悲しい涙ではなく、何かを受け取ったような、胸がぽかぽかとあたたまるような涙だった。
そのときから、彼女はお店の前に、そのベンチを残すことに決めた。
「……もしかしたら、このマフラーを忘れた人、また来てくれるかもしれないし」
そう言って笑ったあの日の自分を、柚葉はよく覚えている。
•
その夜、ベーカリーの閉店後。
柚葉は、母の古い日記帳を読み返していた。亡くなる前、母がこっそりと残していたもの。ページの隅には、あの頃の記憶が綴られていた。
「ゆずが、わたしの笑顔が減ったって言った夜。あの子の前では笑おうと決めた。
クリスマスの夜、ゆずがこっそりどこかに手紙を書いていたのを見た。
きっとサンタさんへのお願いだ。……叶えてあげたいけど、わたしにはできないこともある。
だから、もし神さまがいるなら——この子の願いだけは、届いてほしい。」
ページの最後に、折りたたまれた小さな布切れがはさんであった。
それは——黄色い、毛糸の端切れだった。
「……お母さん……?」
涙が一滴、そっと日記帳の上に落ちた。
あのマフラーは、母が娘のために用意しようとしていたものだったのかもしれない。
途中で完成しなかったもの。けれど、不思議な形で、巡り巡って柚葉の手に戻ってきた。
•
次の日の朝。
柚葉は、マフラーをそっとベンチに置いた。
「ねえ、マフラーさん。もしあなたが誰かの“やさしさ”だったなら、次はわたしがそれを、誰かに届けていくね」
雪が、また静かに降りはじめていた。
そのなかで、黄色いマフラーはまるで陽だまりのように、ぽつんとベンチに寄り添っていた。
バターとミルクの香り。けれど、それだけではない。どこか懐かしくて、安心するような……まるで“誰かのやさしさ”そのもののようだった。
柚葉がそれを初めて見つけたのは、去年の冬の終わり。雪解けの午後、店の前のベンチに、それはぽつんと置かれていた。
誰の姿もなく、雪だけがちらちらと降っていたその日。黄色いマフラーだけが、まるでずっとそこに座っていたかのように、ベンチを温めていた。
「お客さんの忘れ物かもって思ってたんですけど、どれだけ聞いても誰のものか分からなくて……なんだか、手放せなくなってしまって」
柚葉は、ふわりとそのマフラーを手にとって、やさしく撫でた。
「私、このマフラーを見るたびに、誰かに“あたたかさ”をもらってるような気がするんです。……だから、これ、勝手なんですけど、返ってこなくてよかったのかもって、思うこともあって」
森村さんはしばらく黙っていたが、やがてにっこりと笑った。
「きっと、届けたかった誰かは、もう届けていたのかもしれないね。自分の手じゃなくても、君がそれを感じ取ってくれたのなら、それで十分だったんだよ」
そう言って、雪に足を取られながら、自転車をこぎ出す。
柚葉は店先で、小さく手を振った。
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雪のベンチは、今もそこにある。
こもれびベーカリーの入り口に近い木のそばに置かれた、古い木製のベンチ。町の人がふと腰を下ろし、パンの香りに包まれながら、空を見上げる場所。
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それは悲しい涙ではなく、何かを受け取ったような、胸がぽかぽかとあたたまるような涙だった。
そのときから、彼女はお店の前に、そのベンチを残すことに決めた。
「……もしかしたら、このマフラーを忘れた人、また来てくれるかもしれないし」
そう言って笑ったあの日の自分を、柚葉はよく覚えている。
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その夜、ベーカリーの閉店後。
柚葉は、母の古い日記帳を読み返していた。亡くなる前、母がこっそりと残していたもの。ページの隅には、あの頃の記憶が綴られていた。
「ゆずが、わたしの笑顔が減ったって言った夜。あの子の前では笑おうと決めた。
クリスマスの夜、ゆずがこっそりどこかに手紙を書いていたのを見た。
きっとサンタさんへのお願いだ。……叶えてあげたいけど、わたしにはできないこともある。
だから、もし神さまがいるなら——この子の願いだけは、届いてほしい。」
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それは——黄色い、毛糸の端切れだった。
「……お母さん……?」
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あのマフラーは、母が娘のために用意しようとしていたものだったのかもしれない。
途中で完成しなかったもの。けれど、不思議な形で、巡り巡って柚葉の手に戻ってきた。
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次の日の朝。
柚葉は、マフラーをそっとベンチに置いた。
「ねえ、マフラーさん。もしあなたが誰かの“やさしさ”だったなら、次はわたしがそれを、誰かに届けていくね」
雪が、また静かに降りはじめていた。
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