【完結】初恋は、

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 もう行かない。

 そう雅が決めたのは、変なやつだと思われた。と思い込んでは毛布の中で目尻をじわりと軽く濡らした時だったが、しかし惨めなみっともない恋はそれでも諦めが悪く、雅はあんな事があったその二日後には、無意識にいつものカフェの前に立っていた。

 そんな自分の状況に今しがた気付き、いつの間に家を出たんだ俺。とハッとした雅が慌てて踵を返そうとした、その瞬間。

 カラン。と小気味良い鈴の音が辺りに響き、『OPEN』と書かれたボードを持っている春が出てきた事に、雅はヒュッと息を飲んでしまった。


「あっ、いらっしゃいませ! お待たせしました!」

 だなんて向こうも店の前に突っ立っていた雅に気付いたのか、パァッと花が咲いたような笑顔で挨拶をしてくる。

 その笑顔は今まで見てきたあの綺麗な笑顔とは少しだけ違い、どことなく何時もよりくしゃりとしていて。

 そんな弾けたような愛らしい笑顔を初めて見た雅は面食らって瞬きをしたが、白い息を吐きながら、どうぞ。と扉を開けて待っている春に引き寄せられるよう、ふらふらと店内へと足を踏み入れていた。


 心地好いジャズが流れる、暖房が効いた暖かな店内。
 室内は変わらずコーヒーの良い香りに満ちていて、そんな中をそれでも雅は何故かおどおどとした態度で歩いた。

 どうにかラッパーとして活動しているお金だけで生計を立てれるようになったのは有難いものの、ライブが無い週はただひたすらにスタジオや自宅で曲作りに没頭するだけの日々で。
 それなのであまり曜日の感覚がない雅は、今日は休日なのか。と朝から出勤している春を見て今更ながら気付き、こんな早朝に出勤するなんて大変だな。なんて自身は寝ずに作業をし続けて無意識にカフェまで来ていた事を棚に上げて、そんな事をぼんやり思った。


「アイスコーヒーでよろしいですか?」

 そうカウンター越しにニコニコとした笑顔で、問いかけてくる春。

 その笑顔がやはり何時もよりキラキラとしているように見えて、……雪の妖精か? だなんて馬鹿げた事を思いながらも、雅はこの間恥ずかしい姿を見せたと思ったのは勘違いだったのかもしれないと途端に眠れぬ夜を過ごした事をすっかり忘れ、コクンと頷いた。

「もしかして今からお仕事ですか?」
「えっ、あ、いや、……まぁ、はい」
「こんな休日の朝からなんて、大変ですね」
「いや……、」

 それはそっちもだろう。と言えれば少しは会話にもなるというのに、ステージ上でスラスラと動く舌は今や、惰眠を貪っているかのようにピクリともせず。
 そして寝ずに作業をしていたので今からではないし、どうせ帰っても作業をするので終わりもないが、咄嗟にうんとしか言えなかった自分に雅はやはり情けないと顔が熱くなっていくのを自覚しつつも、ゴホンッと咳をした。

 店内は他のスタッフの気配もなく、雅と春の二人だけ。

 それに気付いた瞬間ぶわりと背中に汗が浮き、そして春に注文以外の事を聞かれたのは初めてだった雅が嬉しさと気まずさからポリポリと首の後ろを掻いたが、しかしそれから、いや何で一人なんだ……? と首を傾げた。

 ちらりとカウンターの中を見てみれば、どうやら準備の途中らしく、物が散乱している。
 その荒れている状態に雅は眉を寄せ、春を見た。

「……一人?」
「えっ?」
「他のスタッフは」
「っ、あ、えっと、その、」
「なんで一人しか居ないの」

 そう矢継ぎ早に雅から放たれる言葉に、キラキラとした笑顔が瞬く間に消え、春が困ったように眉を下げる。
 それからやはり困惑しながら雅を見つめる春の瞳は、少しだけ怯えが滲んでいて。
 しかし、それもその筈である。
 キャップを被っているものの、そこから覗く髪はプラチナブロンドで刺々しく、いつもの事だがマスクをしている為ほぼ顔が見えない上に、今日も今日とて雅は全身黒ずくめである。
 それはどこからどう見てもガラが悪く、そして低くざらついた雅の真っ直ぐな声がまるで問い詰めているように聞こえたのか、春はぴしりと身を固くしただけだった。

「えっと……、」
「……」

 思わず黙ってしまった春をそれでも珍しくじっと見つめる、雅の鋭い眼差し。
 それに春は引きつった表情をしたまま、それでも観念したのか、口を開いた。

「……そ、その、いつも本当はオープン準備は二人なんですけど、もう一人が今遅刻してまして、……ごちゃごちゃしててすみません!」

 雅が聞いてきた理由を店内の清掃が行き届いていないせいだと思ったのか、春が焦りながら深々と頭を下げてくる。
 その予想外の声量と突然の謝罪にビクッと肩を跳ねさせた雅をよそに、春はバッと顔を上げたかと思うと一生懸命な表情で雅を見つめてくるだけだった。

「でも、すぐにお作り致しますので! お待たせ致しません!」

 だなんて叫び、迷惑はかけませんから。と言わんばかりの泣きそうな顔をし出す春に、雅は目を白黒とさせつつも、とりあえず落ち着け。と怒っていない事をアピールするよう、なぜか両手を上にあげた。

「何か勘違いしてるみたいだけど、別に怒ってる訳じゃない、ので……、」
「……へ」
「むしろそんな忙しい時に来て、すみませんでした……。コーヒーも大丈夫ですし、あの、帰ります」
「……えっ、」
「……念のために言っておくけど、まじで別に怒ったから帰るって言ってる訳じゃないから」

 そう念押ししながら、しかし最後バリバリにタメ口を使い偉そうな態度と口調で言ってしまったかもしれない。とハッとした雅が、無意味にマスクの上から自身の鼻先を擦る。
 そして、春を落ち着かせる為に少しだけ冷静になれた頭はしかし、すぐにまたしても恋心と羞恥が舞い戻っては心臓をドクドクと跳ねさせるだけで。

 一方春はというと、まさかそんな言葉を掛けられるとは思ってもいなかったのか呆けた表情をしており、その鳩が豆鉄砲を食ったような顔は先日の事があったせいで雅の中で若干のトラウマとしてインプットされているものの、それでも死ぬほど愛らしかった。


 ……ほんといつ見ても可愛い。

 だなんて馬鹿になった脳ミソでそんな事を考えながらも、見惚れ突っ立っている場合ではない。と何とか思考を切り替え、雅が小さく咳をする。

「ゴホッ。……それじゃあ……。……もう一人が来るまで無理しない程度に、頑張ってください」

 何の励ましにもならないと分かっていながらも、ポロリと口からついて出た言葉をボソボソとした声で呟く雅の耳は、真っ赤で。
 それが恥ずかしく、またしてもンンッと咳払いをした雅は、堪らず足早に店を出ていった。


 カランカラン、と鳴る扉の音と共に遠ざかっていくジャズに、ほんと何言ってんだ俺。と帽子を取り、ガシガシと髪の毛を掻きながら歩く雅。
 外に出た途端冬風が肌を突き刺し痛く、寒い……。と雅がマスクの中でズビッと鼻を啜った、その瞬間。

「あ、あのっっ!!」

 だなんて後ろから声が響き、バッと後ろを振り返った雅の目に映るのは、なんだか泣きそうな表情で顔を真っ赤にしている、春だった。


「すみませんでした!! ありがとうございます!! あのっ、ま、また来てくださいね!!」

 必死にそう叫ぶ春は、当たり前だが上に何も羽織らずワイシャツとエプロン姿のまま。

 吹き荒ぶ風に春の蜂蜜色の髪が乱れ、だがそれがとても綺麗で美しく、堪らずヒュッと雅が息を飲む。
 しかしそんな雅の心情などもちろん知らぬまま、それでも、

「次は美味しいコーヒー、ちゃんと淹れさせてください。……だから、あの、ま、また、来てください、ね……」

 だなんて潤んだ瞳で話す春の頬は、寒さからなのか、林檎のように真っ赤に染まっていた。

 それがやはりとても綺麗で美しく、そして儚くて。
 ……うわ、死んだわ俺。と春の背中に天使の羽が、頭にはキラキラと光る輪が見えた気がした雅は、もう何度目か知らぬときめきに何も言えぬまま、ブラックアウト寸前だと堪らず天を仰いでしまったのだった。




 
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