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欲求不満物語

♨報告と決意

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「――起きろよ、ソラ」
 毎朝、おはようの柔らかな声の後に続けられる、決め事のようなキス。素直にそれを受け止められることへの幸せを噛み締めながら、同時に、ソラは一抹の不安を胸に秘めていた。
「う~ん、おはよう先輩」
 今日は少しだけ早く起きて、紫藤の襲来をわざと待っていた。あたかも今起きた、と言わんばかりに、目をトレーナーの裾でこする。
「お。今日もセクシーな寝起きだな~」
 さらさらと頬を撫でられる。
「肌つやもグッド。さすが俺のウェヌス」
「バカ……」
「朝飯で出来てるぞ~。早く顔洗って来いよ」
「うん、すぐ行くよ」
「早く来いよなー。味噌汁が冷めるから」
 部屋を出て行くスーツの背中を見て、ソラは思う。
(これで、先輩の絵が順調ならな……)

 そう、紫藤はここのところ絵に関しては絶不調なのだ。構成が漸く練れたと言っていた下書きの紙もびりびりに破ってしまうくらい、精神的に参っているようだった。
 理由はわからない。
 ただ、毎日のように紫藤の横でその作業の様子を見て、感じることは、描きたいものへの理想がもの凄く強すぎることにあるんじゃないか、ということだった。理想のものを手に入れたいという思いと、理想へ到達することへの恐れが紫藤の中には同居しているようだった。
 そんな紫藤に、ソラが出来ることといえば、見守ることくらいだ。本当なら、紫藤がして欲しいと思うことを自分から察してあげれば良いのだろうけれど、紫藤はソラには弱音一つはかないし、ソラは横にいてくれるだけで女神様の恩恵にあずかっている気分だ、と大袈裟なことを口にするだけなのだ。

 一通りの支度を終えて、ソラがダイニングへ行くと、待ち構えたかのように、電話のベルが部屋を揺るがす。れみがキッチンから出て、受話器を取る。ソラはそれを目の端で認めてから、ダイニングテーブルに着いた。紫藤は急須を持ってきて三人分の煎茶を入れていた。
「ソラ、逸子さんから」
 れみは一通りの挨拶代わりの世間話の後、ソラに向かって受話器を差し出してくる。ソラは椅子を立って、受話器を受け取った。
(母さん?母さんが何の用だろう?)
「もしもし?」
『ソラ!元気にしていた?』
 声のトーンが妙に高い。
「う、うん元気だけど。どうしたの突然?」
『どうしたもこうしたもないわ!ソラ、さっさと荷物まとめて、こっちに帰ってきなさい』
「はあ?」
『ラッキーなのよ、ラッキー。シドさんが逃亡しちゃったのよ』
「シドが?……それのどこがラッキーなの」
『どうやら父さんの事業を継ぐのがいやでの逃亡らしいのよ。それで、父さんはソラを後継者に立てようと言い出したの。ラッキーでしょう?』
 ウキウキと、声を聞いただけで心が弾んでしまっているのが判るような口調で母さんは言う。でも、仮にもソラにとっては義理の弟に当たる人が逃亡して、それを浮かれ気分で語るというのはどうなのだろう。

「母さんにとってはラッキーかもしれないけど、おれにとってはちっともラッキーじゃないよ。おれは父さんの後継者になる気なんか全然ないし。誰があんな会社なんか……」
『ソラ、父さんの仕事をバカにするのはやめなさい。決して綺麗な仕事ではないけれど、人間が生活する中では欠くことの出来ない仕事なのよ』
「そんなこと言っても……」
『とにかくソラ、直ぐに帰ってきなさい。父さんがアナタと直々に話をしたいと言っているのよ』
「直々にって、将軍様じゃあるまいし……。それに学校はどうするんだよ?」
『サボりなさい。どうせ、直ぐにこっちの高校に編入するのだから』
「勝手に決めるなよっ」
『良いわね、れみさんにちゃーんと説明して、帰ってくるのよ』
「良いわねって、何を勝手に……っ」
 つーつーつーつー。ソラが文句をつけようとした相手は既に通話口から降りていた。
「全く……」
 母さんは父さんのことになると、どうしてこう見境がなくなるのだろう。
「なあに、逸子さんなんだって?」
「家に、帰って来い、だって」
「なんだなんだ、お前んちも俺んちみたいな問題抱えてるわけか?」
「家全体っていうか、おれの母さんが問題抱えてる、って感じかな。ねえれみ?」
「そうねぇ、逸子さんの場合、ラブ度が高すぎるのよね。うちの家系では異例の純愛系だし」
 ソラの母さんにとって父さんとは、初恋の相手で、あらゆる初体験の相手で、愛すべきだんな様なのだ。
「い、異例の純愛系ってなんだよ。ソラも純愛系だろ?」
「そーかしらぁ。遅咲きの狂い咲きって言葉があるの、クロウは知っている?」
「れみ、やめてよ。話がずれるし、拗れるから……」
「ソラの狂い咲き……」
 焦点の合わない目で、紫藤は呟く。
「先輩も、真に受けないで!……とにかく、色々面倒なことがありそうだし、一端家には戻ろうと思うんだ。父さんには面と向かって、事業を告ぐ気なんかないって、ハッキリ言っておかないといけないと思うし」
「うーん。心配ね。わたしも付いていこうか?」
「何言ってるんだよ。れみこそ、仕事があるでしょ。このマンションのローンだってあるんだし、働かないと」
「まあ、そうだけど……心配なのよ、逸子さん、父さんのこととなるとムキになるから」
「じゃあ、俺が付いていこう」
 この上なく張り切って、紫藤は垂直に挙手する。

「ほら、ソラのご両親には一度ちゃんと挨拶をしておかないといけないしさ。今後のことを鑑みるに……」
「先輩は、もっとダメ。――絵があるだろ。将来かかってるんだから、今余計なことに首つっ込んじゃダメだよ」
 絵が完成しますようにという願いも篭めて、ソラが真っすぐに見すえてそう言うと、紫藤は頭をくしくし掻きながら、
「りょーかい」と言う。ソラはつい微笑んでしまう。
「大丈夫、おれは平気だから、二人とも、心配しないで待ってってよ」


 とか言って少しカッコつけて実家に戻ったは良いけれど――



「ねえ、母さん。ちょっと、これってどういうこと?」
 両手は後ろで強引にしばしあげられ、足は正坐の恰好のまま腿と脛とを紐でくくられて、立つことも出来ない状態だ。久しぶりに家に帰ってきて、戸を開けた途端にお手伝いさんに囲まれ、全身緊縛されるなんて、滅多にある事態じゃない。
 眼前に座す正絹の着物を着込んだ、端正な容貌の母さんは、鋭敏な眼差しでソラをしゅっと見据える。
「ソラ、アナタ、しばらく見ないうちに、随分と艶めかしい面構えになったわねぇ」
 大きな瞳にじっと見つめられて、ソラは背中がムズムズとする。この目は着物に飲まれまいと、トコトン技を尽くしたアイメイクの賜物だ。すっぴんでも十分美しいひとなのだけれど、この頃、第一第二の妻への対抗心からか、眼力アップに戦々恐々としている。
「れみさんの処で、いけないことを教わってきたわけじゃないわよねぇ?」
「な、何言ってるの?そんなわけないでしょ?」
「それとも、晴れての高校生活に浮かれきって、小汚いメス鼬にでも食われてしまったってことはないでしょうねぇ?」
「そ、そこまで浮かれてなかったよ。そ、それに、メス鼬なんて滅多にお目にかかることなんてないしさ……」
「そうかしらねぇ。裏は取れているのよ」
 母さんがパチンと指を鳴らすと、襖を開けて、見慣れた顔が入ってくる。
「あ、秋本っ?」
 そわそわと居心地悪そうに部屋に入ってくると、母さんの下座に座る。
「どうして秋本がここに居るんだよ?今日は学校だろ?」
「彼にはね、ソラ、アナタの身辺調査を依頼していたのよ」
「な、本当なの、秋本?」
 ソラが振り仰ぐと、秋本は視線をさあっと遠くへ向けて、言う。
「悪いな、天晴。オレのうちビンボーでさ、割のいいバイトを探してるところ、ちょーどよくお前んちのかーちゃんから連絡入って――」
「ぐだぐだと長い説明は良いから、さっさと証拠を述べて欲しいのよ、こっちとしては」
「はい、ただ今」
(秋本、なんか母さんの尻にしかれてる……?)
 秋本はズボンのポケットからメモ帳を取り出すと、お経のように何かを読み始める。




 四月八日、天晴ソラ、謎の美青年との運命的な出会いを果たす。
 オレはその様子をこっそり同級生の陰に隠れて確認。天晴ソラの――恐らく――ファーストキスは、その美青年のその場しのぎっぽいベーゼによって奪われる。オレはその様子を、中学の時からの腐れ縁の影から確認。どうやら、 
 天晴ソラはその美青年に怒りを覚えた模様。恐らくこれは、らぶろまんすの始まりの突っかかりという奴ではないか、とオレは思う。

 四月十五日、天晴ソラ、件の美青年と懇意になった模様。
 本人はいやいや言っているが、所謂、素直じゃない思春期の少年の愛情表現というものだろう、とオレは穏やかな気持ちで天晴ソラを見守っている。それにしても、天晴ソラは美人だ。それに可愛い。こうやって観察しているうちに、オレの心にもソラへの高感度急上昇の兆しが出ている。天晴ソラのかーちゃんを何とか言いくるめて、オレの渇きを癒すように仕向けられないだろうか。
 と思う今日この頃。あ、えーとちなみに、今日は、件の二人、とうとうやっちゃったみたいです。
 覗くつもりなんかなかったんだけど、いや、なかったと言い切っちゃうとちょっと嘘になるけど、まあ、あんまり覗く気はなかったけど、結果として見てしまったということになる。何をしてしまったかと言うと、それは――


「秋本っ。も、もう良いよっ。ていうか……何その変な日記みたいなの」
「何言っているの、ソラ。まだまだ全然本題に入っていないじゃない。四月十五日、一体何をやったのよ、ソラ!」
「待ってください、これから天晴と先輩の例の出来事が透徹した筆致で書かれた報告書が――」
「お黙り、三下。わたしが知りたいのはアナタの文章力でも、アナタのソラへの忌まわしい妄想でもないのよ。アナタの気味の悪い文章の所為で、ソラはこんなに引け腰になっているじゃないの」
「え、天晴、引いてるの?」
 秋本はきょとんとしたまん丸の目で、こちらを見てくる。そんな秋本を前にして、申し訳ないと思うけれど、でも、正直なところ――
「そ、そうだね、秋本。正直、ちょっとだけ……うーん、結構、気持ち悪いと思ったよ。秋本だけは結構まともな部類だと信じてんだけどね……軽く裏切られた気分かな」
「そんなぁ……天晴~」
「まあ、良いわ。とにかくここまでの報告だけでも、アナタが謎の美青年に心奪われていることは明らかだもの。きっとそのあと、いけないあんなことやこんなことを強要されたに違いないじゃない。そんな場所に、ソラを置いておくことなんか出来やしないわ。さっさと荷物一式とってこっちに帰ってくることね」
「母さん、そんなの勝手だよっ。母さんはおれを父さんの後継者にしたいだけだろ?」
「そうよ。それの何が悪いというの?第一の妻に取られた王者の座を、今になって取り返すことが出来ると思うと、おかしくっておかしくって、仕様がないのよ私は。ふふふふふふふふっ」
「……母さんって、昔から全然成長がないんだね……驚くくらいだよ」
 第一夫人に成り上がろうと、つまり何とかして父さんに入籍させようと、飽くなき根性で父さんに食い下がる母さんを見て、ソラは育ったのだ。
「なんとでも言うといいのよ、ソラ。どうせアナタは、下らない高校デビューなんていう夢を追いかけてあの高校へ入った身の上。それに、まだ一年生の一学期、フットワークは軽いはずよ?」
「でもっ」
「それともあの高校に残ってまでやり遂げたいことがあるのかしら?」
「やり遂げたいこと……」
 紫藤の顔が頭に浮かぶ。
 自分は紫藤に何かをしてあげられるわけじゃないけれど、それでも、何かほんの少しでも手伝えることがあるのなら手伝いたい、ソラはそう思っている。
「……大切なひとが居るんだ。おれは、あの高校でそのひとの手伝いがしたい」
 ソラは真っすぐ母さんの目を見る。
「天晴……」
「そう。わかったわ……」
 母さんは袖を抓むとすうっと席を立ち、襖を開ける。
「母さん?」
「一度だけ、向こうへ帰ることを許します。そのときに、その覚悟が自分にとって正しいものなのかを確認しなさい。その大切なひとが、アナタの助けを本当に求めているのか、ちゃんと見つめなおして来なさい。きっと、その現実にがっかりするに違いないのだからね。父さんとの話し合いはそれからよ――」 

 振り返りざまに、そう添え、ぴしゃりと襖を閉める。
「それじゃ、オレも、お暇するかな。この演出の為だけに、ここに呼ばれただけだしさ」
「ちょっと待ってよ。秋本。何かおれに言うことがあるんじゃないの?」
 ソラは押さえ難い、蔑視の眼で秋本を見る。
「え、いや、あのね、天晴……」
「おれ、秋本には、報告書のこととか、覗き見のこととか、きかせてほしいことは山ほどあるんだよね」
 ソラの顔はみるみるうちに、柔和でひどく素敵な笑みに染まっていく。この笑顔の意味を悟った秋本は縮み上がった顔で、ソラを熱視する。
「あ、あのさ、天晴くん、あのね、オレはね……」
「とりあえず、この紐外してくれるよね?それからじゃないと、何も始まらないし」
「は、はいっ、い、今すぐっ」
 ソラが最上級の笑顔で首を横にかしげると、秋本は疾風並のスピードで、ソラの緊縛を解いていった。



 母さんは何であんな自信満々に、戻って良いと言ったのだろう。ソラが再び戻ってくることが確定しているかのような口ぶりだった。気味の悪い感覚だ。母さんには何か算段があるのかもしれない。
 だとしても、ソラは、あんな会社の跡取りになる気なんて毛頭ない。義理の弟、シドが継ぐと心を決めてくれて、本当によかったと胸を撫で下ろしてしまうほどに。
 といった風に、ソラの決心は固いのだ。それに、
(先輩の役に立つって決めたんだ)
 と紫藤への思いも一入なのだ。
 けれども、やはり、そう簡単に物語は進まないようだった。
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