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しろとくろ

♨本音のあんかけ

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 とぅるとぅるとぅるとぅるとぅる。
 身体が水に溶け込んでいくのが五感とか第六感とかいうことなく、どこかからわかる。
広い広いさらさらとした空間に自分の輪郭が分解されていくみたいだ、とソラは思う。自然に、自然に、どこにも澱のないまま、とぅるとぅるとぅる、とソラは水になる。
 開けていないはずの瞼の裏に、かしましい光の遊びが見えた。
(――あ)
 目耳鼻口皮膚内臓、全部がぱあっと開けるような気がして、ソラは目を覚ました。


 そこには白い天井があった。目の端のほうまでただ白い広い天井だった。
(学校じゃない……?)
 ソラはゆっくり起きると、辺りを見渡す。広い部屋だ。壁も天井も白くて、ソラのいるベッドから少しはなれたところにピアノがある以外は、特に目立った家具もない。無味乾燥な印象の部屋だった。
 ベッドの枕元に、何冊かの楽譜と小難しい題名の理論書が重ねておいてあった。ピアノの練習室か何かなのかも知れない。
 それにしても――
「ここはどこなんだろう」
 ソラはひとりごちた。
 シオウがクラスを訪ねてきて、……キスされて、それから――
 ……思い出せない。
 ソラは唇を指の腹で触ってみる。
(あいつ、なんで、あんなことをしたんだろう……)
 紫藤への見せしめなんだろうか。だとしても、シオウはあまりにも辛そうだった。
ソラは、ベッドを降りて、目に付いたドアのノブを回してみる。けれど、外側からが鍵がかっているようだった。どうやら、閉じ込められしまったみたいだ。

 シオウに縁のある場所かもしれない、とソラは思った。倒れた寸前に、傍にいたのはシオウだし、シオウも目の前でぶっ倒れた人間を放っておくほど捻くれてはいないだろうから。
(ま、何にしても……ひとが来てくれなきゃここから出れないよね……)
 窓はあるにはあるが、防犯用の柵がはめれれているのが、ガラスに映って見えているし、ドアはあんな様子だ。とにかくソラは、誰かが――シオウが?――ここから出してくれるのを待つしか術はないようだった。

 とりあえず暇をつぶせそうなものは、ピアノくらいしかない。ソラはピアノの処へ何のことなしに、近づいていく。
立派なグランドピアノだった。蓋を開け、ネルを外すと、エナメルの所々剥がれた鍵盤が顔を出す。随分と年季が入っている。
 ソラは試しにドの鍵盤をぽーんと叩く。
(そういえば、先輩って音楽やってたんだよね。ピアノ、かな?)
 長くて綺麗な指や、平生の丁寧な所作からすると、案外当たっているかもしれない。
(先輩、どうしてるかな。今日妖精の絵が完成するって言ってたけど)
 それに一緒に帰る約束をしていたのに、これじゃ約束を破ってしまうことになる。
(心配してるかな……?)
 ひょっとすると、約束したことも忘れて、作品に没頭しているかもしれない。それはそれで悲しい。
今は何時だろう。あとどれだけ待てば、ここから出れるんだろう。なんだか不毛なことを、ソラは考えていた。


 ソラが記憶を頼りにチューリップを指一本で引き始めたころ、シオウが部屋に入ってきた。手にはプレートを持ち、その上には二人分の食事が載っていた。
 シオウは黙ってそれを床に置くと、
「食べれば」と素っ気なくソラに顎でしゃくってくる。シーザーサラダと、グラタンの組み合わせだった。
「もうそんな時間なの?」
 ソラはネルを敷きなおして、蓋を閉める。
「さっき八時を回った」
「そっか……。あ。そうだ、シオウくんが介抱してくれたんだろ?ありがとう」
 ソラが素直に言うと、シオウは変なものを見るような目で、ソラを見てくる。
「バッカじゃないの?アンタがぶっ倒れたのって、オレが催眠薬を口移したからなんだけど……?」
「す、睡眠薬?どーしてそんなこと」
「アンタを拉致って、兄貴の傍から離すため」
 端的にシオウは言う。
「そんなことしたって、先輩は絵を描くし、きっと、入賞だってするよ」
「さぁ、それはどーかな」
「どういうこと?」
「兄貴はあれで、完璧主義だから。自分に必要なものが何か一つ欠けただけで、瓦解するところがあるんだよ。……よーするに、坊ちゃん育ちなんだけど」
 シオウは反吐が出るとでも言いたげに、顔を歪ませる。
「アンタが、どれほど兄貴の中で重要なのかは知らないけど、絵を描くために少しでも必要な存在なら――消すまでってこと」
「困るよ!家に帰らないと、れみ……あ、姉さんが心配するんだ」
 きっと先輩も……。と心の中でつけたしする。
「そんなの、オレには関係ないし」
 シオウはそれだけ言うと、床に直に胡坐をかくと、スプーンを手にしてグラタンを食べ始める。
「勝手にでも出て行くからなっ」
 粋がった途端に、待ってましたと、ソラのお腹はキュルキュル鳴る。
「そのうるさい腹抱えて出来るもんならやってみれば?」
「う……」

 香ばしい度合いに焼かれたグラタンが、ひどく美味しそうに見える。ここで食べたら、シオウに降参するようなものだ、と一瞬迷い、
「……いただきます」
 とあっさり、食欲に負けてしまった。



 しんと静まりかえった部屋で、二人はポツリポツリと会話をした。もっともシオウはぶっきら棒に単語だけで答えることが多かったけれど。この家がシオウの家の旧館で、今はシオウのピアノの練習だけに使われていることや、たまに掃除のひとが入って、一斉清掃が行われること、という他愛ないことをちょっとした団欒のように話していた。


 食事を終えると、シオウはプレートを片付け、そうしてまた部屋に戻ってきた。
そうして、
「黙ってて」
 愛想乏しくそう言い、ピアノに向かう。
(偉そうに……)
 シオウは指を丸め、引っかくように高音を引く。ちろちろちろと光が瞬くように、入り乱れる音が綺麗だった。
(あ――この曲ってさっきの……)
 夢の中で聞いていた気がする。肌にすうっと沁みこんでくるこの感じは、あの夢のイメージそのものだ。
シオウは途中まで弾いて、はたと指を休める。
「やっぱ、酔ってんのかな……」
「何でやめちゃうんだよ。綺麗な曲なのに」
 もう少し長く聞いていたいと、ソラの耳は言っている。ソラが言うと、シオウは無感動な目でソラを見る。
「綺麗な曲?」
「うん。水が光と一緒にゆらゆらしているのが見えるみたいで、いい曲だよ」
「どこかだよ。アンタ、耳が悪いんじゃない?この曲、教師にも父さんにも最悪の評価だったよ。プレリュードから陶酔してんじゃねえよって」
「でも、おれは綺麗だって思ったから……。別におれは、音楽の知識なんかなんにもないけどさ」
「……社交辞令?」
「なっ……。あんたって、捻くれすぎだよ」
「そーかもね。でも、いつだって誰かと比べられてれば、誰だってこうもなると思うけど?」
「それは……」
 紫藤が話してくれた、シオウと紫藤と父親との微妙な関係のことを思い出した。
「どーでもいいけど。アンタに愚痴っても一銭にもなんないし」
 シオウは肩をすくめて、これ以上話を進める気はない、と杭を刺してくる。
だけど、このままシオウが紫藤とも父親とも平行線状態なのは、シオウにとっても辛いことだとソラは思う。
「先輩は、し……シオウくんのことを思って、家を出たんだよ。自分と比べられて、シオウくんが辛い思いをしないようにって」
 余計なことかもしれない。けれど、必要なことだと思う。シオウはきっと睨みを利かせ、
 ソラの元へ歩み寄ってくる。
「兄貴がそう言ったのか?」
「うん……。先輩から、家の事情とかそういうのは聞いた。シオウくんとシオウくんのお母さんが今まで大変だったことも、先輩は話してくれたんだ」
「大変だった?簡単に言ってくれるね。母さんなんか、あの事件からずっと、慢性ヒステリーに悩まされて、病院通いだよ。なんにも知らない連中がゴシップに踊らされて、バカみたいに便乗して……。そんな下らない妄想に、母さんは傷つけられたんだ」
「……うん」
「アンタだって、一緒だろっ?わかったような口利くな!」
 戦く手で、ソラの襟を鷲づかむ。

「確かにおれは何にも判らないし、偉そうなこという立場じゃないけど。……先輩も、シオウくんもどこか辛そうだから。そういうの見ているのは嫌なんだ」
 歪な形になってしまってはいるけれど、きっとどこかには何か手だけはあるはずだ。辛くてどこかに歪みがある関係から、自然で優しい関係に戻っていける何か切欠のようなものが。
「自分がシオウ君の邪魔になるのなら、その前から姿を消せばいいって、先輩は言ってた」
「それは、勝者の論理だろ。兄貴がどこにいようと、きっとその評価はオレに一生ついて回る。それに比べてオレの矮小さを露呈する為だけにね」
「そんなこと、ないと思う。先輩だって、おジイさんやお父さんと並べ立てられて苦労だってしてるよ」
「あんたは、兄貴側の人間だから、欲目で見てるんだよ。……兄貴は優遇されて育ったから、オレの気持ちなんて、実際のところこれっぽちも判ってない。それなのにオレの為に、とか言うのって、偽善としか思えない」
「どうして、そういう風にしか理解しないんだよ……」
「さあ、オレは捻くれて育ったからじゃない?」
 シオウは自虐的に嘲笑する。
「……」
 ソラはふつふつと自分の中に、怒りが湧いてくるのがわかった。シオウの様子が目を覆いたくなるほど卑屈だからだ。紫藤もシオウも別の人間だから、比べても一生結果が出るわけがないのに、執拗なくらいに拘泥するシオウに、いわく言い難い鬱陶しさを覚える。

「……そうやってグチグチ言ってれば、いつか誰かが助けてくれるとでも思ってるの?」
「は?」
「先輩は絵だって巧いし、変態だけど、顔はカッコイイし、捻くれたあんたなんかと比べれば、確かに最高かもしれないけどさ!」
「は、はあ……な、何言ってんの?」
「それは今あんたを見て、おれが言ってるだけの評価だし、だからって直ぐに、あんたの本質は変わらないだろ。なのに、昔大変だったから~兄貴にはかなわないから~とかって、ネトネト卑屈なことばっか言ってさ。だから曲だって陶酔してる、とか評価されるんじゃないの?というかもう、いっそのこと、ネトネトなアンカケにでもなっちゃえば良いんだ!」
 逆巻く怒涛の如く、喉から言葉があふれ出してくる。次から次へと言葉が自然生成されていって、自分がこんなに勢い良く話せる人間だったんだと、ソラは始めて知った。
 しばらく、シオウへの不満をぶちまけ続けて、漸く腹の底に話の種がなくなるまで十分位かかった。その間、シオウはぽっかーんとして、ソラの軽量な口先を見つめていた。
「――てこと」
 とソラは結んだ。
「な、な、な……」
 シオウは言葉を失っているようだった。ソラは言いたいことをすっかり言い切って、もう語る言葉をなくして、黙った。
 とことん言い切ってから、
(少し言い過ぎたかな……)と反省した。だけど、ガマンならないウジウジぶりだったのだから、しょうがない。気まずい沈黙が流れる。
(どうしよう……)



 そのとき、ピンポンピンポンとコンマ二秒間隔くらいのチャイムがその沈黙を切り裂いた。容赦ないチャイムの襲来は、まるで子供の悪戯のようだ。
 痺れを切らしたシオウは部屋を出て、玄関に向かう。ソラも逃げ出すチャンス、とばかりに、その後を追った。広く長い廊下を抜けて、これもまた広い玄関に出た。シオウはスリッパのまま下へ降り、魚眼レンズを覗く。
「あ……」とシオウが逡巡したのがソラには判った。
 ピンポンピンポンピンポン!叫ぶように、なり続ける。仕舞いには――
「おいシオウ!ここにソラが居るのは判ってるんだからな!この家は悪魔の住む家です。美少年を監禁していますって張り紙を貼られたくなかったら、さっさとソラを開放しろ!」
 と物騒な内容の叫び声が投げかけられる。
「せ、先輩?」
「プニオを返しやがれっ!」
「な、夏彦まで?」
 夏彦はドシンドシンとドアを叩く。その振動がハンパではない。
 シオウがこの状況をどう処理したものか、とソラを見る。こんなときばかり頼られても、困る、と思いながらも、
「シオウくん、開けた方が身のためだと思う」
 一応忠告をしておく。

「……うん」
 シオウが戸を開け、同時に紫藤と夏彦がなだれ込んで来る。シオウは目を覆い、ソラははあ、と溜息をついた。
「先輩、どうしてここが判ったの?」
「ああそれは、こいつの嗅覚任せ。ソラの匂いを辿って俺を導いてくれたんだ」
「おう!プニオの匂いはバッチリ鼻が覚えてるからな!」
「ソラ、無事か?」
 頭や肩やそこここを撫で回され、最後にはきゅうっと抱き寄せられる。
「せ、先輩?」
「富士!オレが先に肉を揉む約束だろっ」
「シオウにやらしいことされなかったか?変な台詞言わされたり、変な服着せられたりしなかったか?」
「そんなことさせるわけないだろっ」
「そうだよっ、そんなわけないよ!」
「それなら良いけどな。じゃあ、帰ってれみの美味しい美味しい夕食を食べよう」
 紫藤はそう言ってソラの目の前に手をのばしてくる。
「……うん」
 ソラはその手を握る。
「そうはさせねェ!」
 その逆の手を夏彦が強引に掴んでくる。
「夏彦てば……」
「あと、シオウ」
 紫藤はソラの後ろで居心地悪く縮こまっているシオウに視線を向ける。
「え?」
「ま、一応エールを送っとく。程ほどにやれよ。お前はお前、俺は俺。お前はお前の最強を目指せばいーじゃん。俺は、俺の最強を、ソラと目指すからさ」

 ちゅっとソラの頬にキスをして、頭をぐしぐしいじると、手を引っぱって、行こうと言う。夏彦がぎゃあぎゃあわめく。
「――兄貴には負けない。絶対に!」
 閉まらんとするドアの隙間から、聞こえたその声を紫藤が聞いていたかは判らないけれど。ソラがこっそり仰いだ紫藤の顔には柔らかな笑いがあった。
(大丈夫だよね。シオウと先輩は大丈夫)
 ソラはひっそりと、そう噛み締めた。

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