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第10章
#9
しおりを挟む「美澄さん……いや、要さん」
文月さんに呼ばれた俺は、ハッとしてマグカップを置いて彼に向き直る。
彼は穏やかに微笑みながら、俺に手を差し出していた。
「……まだ俺に、手のひらを見せてくれますか」
「……」
俺は恐る恐る手をグーにしたまま内側を表にした。
文月さんはその手の横に手のひらを上に向けて並べる。
「俺はやっとあなたに、手のひらを見せられました。遅くなってしまいましたし、なんでか康祐さんと同じ構図で告白とやらをしてしまいましたが……」
文月さんの言葉に「ふはっ」と吹き出す。
そんな俺の様子は気にせず、文月さんは言葉を続けた。
「俺が要さんを運命の番だと認識したのは、初診の時でした」
「へ」
文月さんは手のひらを向けたまま、俺に静かに話しかける。
俺はいまだに手のひらを開かないまま彼の瞳を見つめた。
「病室へ入った時にすぐわかりました」
そのまま彼は言った。
衰弱した俺にそれを打ち明けるのは医者としても人としても間違っていると思ったこと。
俺と接しているうちに、なんとか治してあげたい、退院させてあげたいという気持ちが強くなっていったこと。
お互い飢餓状態になるのは分かっていたし、佐々木先生からも再三注意されていたということ。
――番になれ、と。
「でもそれは、要さんの心を無視しているみたいで嫌でした」
文月さんの声は少し震えていた。
今まで俺が思っていた以上に、彼は彼なりにたくさん俺のことを考えてくれていたんだと思うと、どうしようもなく握った手に力が籠る。
「運命の番とか、どうでもいいでしょう俺たちは」
クスッと笑いながら言う文月さんに、なんとも言えない感情が押し寄せて呼吸が苦しい気がしてしまう。
まるで海の底にいるみたいな、溺れるようなその感覚はなんなのだろうか。
「要さん。俺はずっと、あなたとこうして向き合いたかった」
たくさんの愛の言葉をそそがれると、俺の心のグラスはすぐに満杯になってしまう。
海底をもがきながら、逃れられない彼の手から逃げたくなる。
「決断が遅くなってしまってすみませんでした。俺も自分に自信がなかった。できることなら、何もなく平穏にいられるのなら……」
文月さんは息を吸う。
「要さんが、康祐さんとの人生だけを大切にしていきたいと言うのであれば、俺はそれを尊重したかったんです」
――今度は、間違った選択を取りたくなかった。
そう呟いた文月さんは、少し沈んだ暗い声で宵闇に溶けて消えてしまうのではないかと、少し怖くなった。
深海も随分と暗いけれど、同じくらい暗い世界を歩いてきた文月さんだからこそ、今の俺と話ができるのかもしれない。
俺はゆっくり、手のひらを開けた。
汗ばんだその手は、シワに沿って汗が見える。
文月さんは俺の手のひらと自分の手のひらがリビングの光に照らされたのをじっと見つめた。
俺は少し口角を上げて、口を開いた。
「……お互いに、康祐さんがいて朔さんがいたから、今ここで出会えたのかもしれませんね」
そう呟いた俺の瞳をじっと見つめる文月さんも、おもむろに口を開いた。
「……Everything happens for a reason.」
「え?」
文月さんは笑って言った。
――全ての出来事には必ず意味があるから。
そう呟いた彼に何を返す暇もなく、俺の唇は彼に奪われた。
甘いバニラの香りと口腔内を犯す彼の温かさに、俺はただ目を瞑る。
存外、硬派な彼の唇は柔らかいのだと思いながら、俺はもう康祐さんの唇の柔らかさを忘れていたことに気づいた。
……かろうじて手を伸ばし届いた先にあった康祐さんの写真をゆっくりと伏せたところで、二人の熱い息が重なった。
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