地方騎士ハンスの受難

アマラ

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閑話 四

レイン・ボルト 朝の一幕

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 騎士、レイン・ボルトの朝は早い。
 日が昇り始めるころにはベッドから起き出し、朝の支度を始める。
 前日に汲んでおいた水でタオルを濡らし、顔と身体を拭く。
 大体いつもなんやかんやあって汗をかいているので、これは大切な習慣だ。
 なんで汗をかいているかは、乙女の秘密である。
 それを終えると、衣服に袖を通す。
 上から鎧を着ける都合上、地味で簡素なものだ。
 手早く髪を梳き、手鏡を覗く。
 特に問題が無い事を確認すると、ドアへと近づいた。
 そして、ドアにぺたりと張り付き、耳をそばだてる。
 聞き取ろうとしているのは、言うまでもなくハンスの足音や呼吸音、声などだ。
 普段からやっている行為なのだか、この日はいつもとは少し事情が違っていた。
 常に無表情で比較的何を考えているか分からないレインの顔が、心なしか強張って見える。
 まあ、付き合いの長い、特別聡い人間でもない限りその変化は察知できないだろうが。
 ハンスの朝の行動は、おおよそ決まっている。
 自室で支度を済ませると、ミツバを起す。
 声をかけるだけでは絶対に起きないので、必ず打撃を加えることになる。
 それにミツバは苦情を言うのだが、当然ハンスは意に介さない。
 従者の仕事である洗濯をさせるために、どさどさとシーツや着替えなどを押し付け、部屋を出て行く。
 そして、そのまま階段を下りて、宿の中庭へと出るのだ。

「いつまで寝ているんだお前は、いつもいつも!」

「いってぇーっす!! なぐったっすね!? オヤジにもビルから突き落とされた事しかないのにっ!」

 それは余程のことではなかろうか。
 心の中で突っ込みを入れつつも、レインは集中を切らさない。

「あほな事を言っていないで早く起きろ! 洗濯物、置いておくぞ。しっかり洗えよ」

「うーっす」

「まったくいつもいつも……」

 ぼやきながら、ハンスの足音がミツバの部屋から出てくる。
 このコースだと、ハンスはレインの部屋の前を通る事になるのだ。
 勝負は、文字通り一瞬になるだろう。

 レインの狙い。
 それは、極々単純なものであった。
 だが、それだけに難しいものでもある。
 作戦にタイトルをつけるとするならば。

 起き抜けでお部屋のドアを開けたら、ハンス様とぶつかっちゃったっ! 大作戦☆

 といったところだろうか。
 一見簡単そうなこの作戦。
 だが、相手がハンスとなると、その難易度は一気に跳ね上がるのだ。
 ハンスの察知能力はずば抜けている。
 壁の向こうから自分に殺気を向けてくる暗殺者の存在程度ならすぐに察知するし、死角から飛んでくる矢などにも今まであたった事がない。
 自分の影に魔法で潜んでいた暗殺者の攻撃を、寸でで避けて返り討ちにしたこともあるほどだ。
 つまり。
 生半可な事では、ハンスにぶつかるどころか、掠ることすら出来ない恐れがあるのだ。
 そんな失敗は、絶対に許されるものではない。
 レインは、この作戦を思いついてから実行する今日までに、入念な下準備を行っていた。
 ハンスの動きの癖や足音、歩幅。
 呼吸律動や衣服の擦れる音などの記憶。
 このあたりは元々覚えていたので、何も問題はなかった。
 どんな位置からハンスが歩いてきたとしても、音と気配だけで正確にハンスの位置を割り出す事が可能だ。
 問題は、ミツバだった。
 ハンスを怒らせ行動を予測困難にしたり、大きな音を立ててこちらの聴音を阻害してくるミツバの存在そのものが、作戦自体を困難なものにしているのだ。
 この作戦において重要なのは、ハンスに存在を悟らせない事である。
 先にも言ったように、ハンスの察知能力は人並み外れていた。
 たとえばレインが警戒もせずにドアの近くに行ったら、まず間違いなくハンスはその存在に気が付く。
 そして、レインが飛び出してきてもぶつからないようにと気遣い、極力ドアから離れて歩くのだ。
 思慮深く部下思いで慈愛に満ちたその心遣いに身体の奥が激しく熱を帯びるが、今はそんなことをしている場合ではない。
 今は、いかにしてハンスに存在を悟られないか、である。
 ハンスも常人ならざる力を持つ者であったが、レインもまた高い能力を持つ人物であった。
 国内最高峰の戦闘能力を持つ事を示す、騎士称号を持っているのだ。
 その気になりさえすれば、気配を悟られないようにする事も可能だった。
 ただ、それにはかなりの集中力を要する。
 心拍と呼吸を抑え、心の起伏を押さえ込む。
 発汗等の生態活動も、極力停止させる。
 自分が空気であると思い込み、周囲の空気と一体に。
 そうすることで、初めてハンスの探知から外れる事ができるのだ。
 出来ない事ではないが、容易なことでもない。
 それを邪魔してくるのが、ミツバなのである。
 ハンスに失礼な態度をとったり、不意に近づいたりすることで、レインの集中を乱しにかかってくるのだ。
 あるときなど、ミツバはハンスに噛み付いた事すらあったのだ。
 クソ、私でさえ舐めた事すらないのに。
 羨ましい。
 あの頭叩き割ってやろうか。
 そんなことを考えかけたところで、レインは慌てて首を振った。
 今は気配を消す事に集中しなければならないのだ。
 とにかく。
 ハンスに出会いがしらでぶつかるというのは、容易なことではないのである。
 気配を消し、素早く、迅速に。
 それで居て、極々自然に行動を起さなければならない。
 万が一にでも狙っていたとばれた日には、レインは全身から血を噴出して死ぬ自信があった。
 いや、間違いなく死ぬ。
 恥ずかしさの余り、死に至る。
 死因は恥死ちしと言った所だろうか。
 まったく笑えない。
 この作戦は、わざとやっている事さえ悟られなければ、何度も繰り返すことが出来る種類のものである。
 適切な期間さえあければ、朝一でハンスの身体に触れられるのだ。
 これはレインにとってみれば僥倖といっていい。
 だが、それはばれなければ、の話である。
 何度も使える手とはいえ、一回一回の難易度は高い。
 気が抜けるものではないのだ。

 ハンスの足音が徐々に近づいてきて、ついにレインの部屋の前へと差し掛かる。

 ここだっ!

 レインはここしかない、というタイミングでドアノブに手をかけ、外へと足を踏み出した。
 目の前には、驚いた様子でレインのほうを振り向く、ハンスの姿が。
 おおよそ対応が間に合わないであろう、ほぼゼロ距離からの奇襲であったにも拘らず、ハンスはレインの登場に反応して見せたのだ。
 片手が握りこぶしの形で持ち上がっているのは、とっさに攻撃しようとしたためだろう。
 だが、その腕は動くことなく、ぴたりと静止していた。
 相手がレインである事に気が付き、動きを止めたのだ。
 その判断力の高さに驚嘆しつつ、レインは攻め手を緩めなかった。
 あくまでも気が付かなかった風を装い、自然な動きを心がけてハンスへと向う。
 そこで、予想外の事が起きた。

 ハンスが反射的に、レインを抱きとめたのである。

 レインの作戦では、精々ハンスの肩辺りにぶつかるだけの予定であった。
 だが。
 ハンスが飛び出してきたレインに怪我をさせないように、その身体を抱きとめたのだ。
 予想外の事態に、レインは大いに混乱した。
 目の前に広がる、というか、視界一杯になっているハンスの胸。
 まだ暖かい季節なので、服装はかなりの薄着だ。
 体温が直に感じられる、などという次元ではない。
 何しろ抱きとめられているのだ。
 肌が触れている部分すらある。
 なにより、匂いがすごい。
 先ほどミツバを殴った事で一汗かいたせいか、香り経つような体匂いがレインを襲った。
 無論、不快感などない。
 むしろこの匂いを閉じ込めておきたかった。
 金さえ払えば手に入るものであるならば、レインは迷いなく全財産を差し出すだろう。
 だが。
 だがである。
 現在の状況は、それだけではない。
 ハンスの両手が、レインの肩を掴んでいるのだ。
 言うまでもないが、突っ込んできたレインの身体を、受け止めるためである。
 だが、見ようによっては、抱きしめているように見えるかもしれない。
 というか、レインの体感的には抱きしめられているのに最も限りなく近い状況になっていた。
 身体の前面と、両肩で感じるハンスの体温。
 頭上から聞こえる呼気の音。
 そして、匂い。
 レインの脳は、一瞬で処理限界を超えた。
 意識が吹き飛んだのである。
 そんな状態であっても、レインの無意識は現在の状況を記憶に鮮明に記録していっていた。
 まるで無人観測機器のような、正確さである。

「おっと。すまない」

 完全に機能停止して動けなくなっているレインに、ハンスが声をかけた。
 レインは光の速さで正気を取り戻すと、すぐに返事を返す。

「いえ、こちらこそ申し訳ありません。気が付きませんでした」

 あくまで、ドアを開けたらたまたまぶつかってしまった事を強調する。
 ハンスは特に疑問を覚えなかったらしく、納得した様子で頷いた。
 うまくごまかせた事に、レインは胸を撫で下ろす。

「ドアを開けるとすぐに廊下だからな。ああ、そうだ。おはよう」

 ハンスはレインから体を離しながら、にこやかに挨拶をする。
 一瞬名残惜しく感じるレインだったが、ぐっとこらえて、挨拶を返す。

「おはようございます」

「今日は、レインは自衛隊の訓練に付き合うんだったか?」

 朝一番の会話が、仕事のこと。
 ハンスにとってレインが、気を使う必要がないほど近しい人間である、という証拠だ。
 生真面目で、誠実。
 そんなハンスの気性を、レインはよく知っていた。

「はい。書類仕事がおおよそ終わりましたので。ハンス様が今日は付き合えないから、かわりに、と。頼まれました」

「ああ、そうだったのか。いや、ケンイチの牧場に生簀を作るだろ? その確認をしにいくことになっていてな」

 地方騎士の仕事は、雑務がとても多い。
 兵士の本分とは余りいえないそういった仕事は、嫌がるものが多い。
 だが、ハンスは自分から進んでそういったものを引き受けた変り種だ。
 英雄と言って差し支えないような戦果を上げたにも拘らず、自ら進んでド田舎の閑職を望んだぐらいなのだから、余程だろう。
 しかし、レインはそんなハンスを。
 そんなハンスだから、好ましく思っていた。

「そうか。俺のせいで連中の面倒見る羽目になったのか。すまなかったなぁ」

「いいえ。彼らの強化は、街の安全にも繋がりますから。仕事の一つです」

「お前の仕事は、徴税監督官のはずなんだがな」

 すっかり忘れられている事だが、レインは一応、そういう立場でこの街に来ているのだ。
 誰も、恐らく中央の役人ですら気にしていない名目上の話である。

「礼と言ってはなんだが、昼飯でも奢ろう。訓練は午前中だけだろ?」

「はい。隊の半分を午前中に、残り半分を午後に、という予定です」

「俺のほうは、午前中には終わるからな。飯を食ったら、午後は俺も出るとしよう」

「分かりました。何か高いものを注文させて頂きます」

「おいおい。手加減してくれよ?」

 一頻り笑うと、ハンスは下の階へと降りていった。
 片手に剣を下げているから、恐らく日課の素振りに行ったのだろう。
 その後姿を見送ってから、レインは小さくため息をついた。
 ハンスの手の感覚が残る肩に、そっと触れる。

「あ、レインさん。うーっす」

 後ろからかけられた声に、レインは振り向く。
 そこに居たのは、恐ろしくだらしない恰好で洗濯物を抱えたミツバだった。
 まず、スパッツをまともにはいていない。
 腰パンどころか、腿ぐらいまでずり下がっている。
 衣服としての機能はしていないどころか、むしろ邪魔になっているだろう。
 そもそも腰まで上げていないので、パンツはもろ出しの状態だ。
 シャツは辛うじて着ているのだが、トレードマークの赤ジャージは頭の上に引っかかっている。
 その状態で、洗濯物を小脇に抱えているのだ。
 不審者とかだらしないとかを通り越して、そういう生き物のように見えなくもない。
 レインは、先ほどとは種類の異なるため息を吐いた。
 つかつかとミツバに近づくと、むんずとスパッツに手をかける。
 そして、思いっきり上へ持ち上げた。

「おうっふっ! なんてことするんすか! 自分が男だったら潰れてるところっすよ! ゴールデン的な何かが!」

「おはよう御座います」

 ぎゃーぎゃーと苦情を言うミツバを一切無視して、レインは朝の挨拶を済ませる。
 ついでに髪の毛も直したいところだが、後で水でもぶっ掛ければいいだろう。

「早く仕事を済ませてください。今日は訓練の日ですよ」

「あ、そういえばそーっすね」

「貴女だけ午前と午後、両方出るんですから」

「うえぇー。レインさんむっちゃきびしーんすよねぇー」

「少しは、手加減してあげますよ」

 レインは、訓練に妥協を許さない性質だった。
 自分にも他人にも、厳しいタイプの人間なのだ。
 そんなレインのらしからぬ言葉に、ミツバは驚いたように眉を持ち上げた。

「さ、洗濯。すませてきてください」

「うーっす。でも、量がおおいんすよねぇー」

 従者であるミツバは、ハンスの分も洗濯するのが仕事だ。
 ゲンナリした表情のミツバに、レインは手を差し出した。

「運んでおいてあげますから、とりあえず髪の毛を直してきてください」

「え、いいんすか!?」

「そのだらしない頭でうろつかれるよりはいいですから」

「うーっす。じゃあ、お言葉にあまえるっす!」

 ミツバは洗濯物をレインに渡すと、ふらふらと自室へ引っ込んでいった。
 一応女子であるミツバは、部屋にブラシなどを置いているのだ。
 レインはミツバの姿が部屋に消えたのを確認すると、光の速さで自室へと飛び込む。
 理由は簡単。
 この洗濯物の中にある、お宝を回収するためである。
 今日の回収は難しいと思われたが、ミツバがめんどくさがった一瞬の隙を突き、レインは話しを今の展開に持って行ったのだ。
 例えどんな状況でも、臨機応変に対応し、妥協を許さない。
 それが、レイン・ボルトという騎士なのだ。
 ちなみに。
 お宝がなんなのかは、乙女の秘密である。
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