錆びた街の落書き

宮滝吾朗

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第一部 脱出編

第7話 夜を泳ぐもの

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地下水路の夜は、街の呼吸の裏側だった。
上層から漏れる灯りが水面で砕け、壁に揺れる影が細長く伸び縮みする。
足首まで浸かった水はぬるく、油の膜が月光の代わりに微かな色を返した。
俺は錆びた梯子を降りきり、振り向く。背後からリタが静かに降りてくる。
黒革のブーツが水をはね、波紋が幾重にも広がった。

「ここは教育局の廃棄管。不要になったものが流れ着く場所よ。書類も、人の記録も、時々は人間そのものも」

「縁起のいい散歩道だな」

「縁起の悪い場所は、たいてい抜け道に近いの」

リタの声には、かすかに笑いが混じっていた。
それがなぜか、この街の底では奇跡のように思えた。

壁には落書きが幾層にも重なっている。
赤い矢印、翼のついた歯車、意味の途切れた単語の羅列。
その中に、見覚えのある癖字があった。
俺は濡れた指でそっとなぞる。

「エンジンは心臓だ」

タケルの字に似ていた。線の角で力む癖。
胸の内側で、古い傷のような熱がじわりと疼く。
リタは俺の視線を追って立ち止まり、息を漏らした。

「ハートギアの合図。まだ消えていない……誰かが、最近ここを通った」

低い唸りが水の奥から押し寄せてくる。
排気の循環が切り替わり、空気の味が錆から薬品へと変わった。
リタは壁のリベットを二度叩き、耳を澄ます。
金属が別の金属に共鳴し、奥からわずかな空洞音が返ってくる。

「ここ。中が空いてる」

工具を抜き、ボルトを外す。
鉄板が沈み、冷たい風が頬を掠めた。
その奥には細い通路。薄青の配線が血管のように脈打ち、
闇に淡い光の鼓動を刻んでいた。

「ハートギアの連絡路。教育局の設計図から消された線。歩幅を詰めて」

リタの背を追い、俺は身を滑らせた。
壁に肩が触れるたび、昔の火傷が微かに疼く。
通路の床には数字が塗られていた。7、6、5――逆順。
まるで、下へ堕ちていく数え歌のようだった。

リタが突然手を上げる。進行停止の合図。
通路の入口で金属の脚の爪音が響いた。
レーザーの白い線が一閃し、壁を焦がす匂いが鼻を刺す。
俺は息を殺し、胸骨の裏で心拍を数える。十、十一、十二――。
爪音が遠ざかる。静寂が戻る。

「今よ」

リタの指が鳴った。
俺たちは駆けた。狭い通路を右へ折れ、急な傾斜を滑り降りる。
やがて空間が開けた。天井から垂れるチェーン、割れた計測器、
吊り下げられた配管の合間に足場の残骸。
音が遅れて返ってくる広さ。中央には黒い液体の池。
その表面は無数の粒子がざわめくように微動していた。

「回路の池。街で失われた映像や音の屑が、ここへ落ちてくる」

リタの声はいつもより静かだった。
水面に近づくと、幼い笑い声が一瞬だけ浮かび、波に沈んだ。
別の場所では、学校のチャイムがノイズをまとって流れ、
その上を爆音が掻き消す。断片の群れ。記録の墓場。

俺は膝をつき、黒い表面を覗き込む。
そこに、少年の横顔がふっと現れた。

「兄貴、逃げてよ。俺の代わりに、生きて」

タケルの声。水面が砕け、像が千切れる。
俺は反射的に手を伸ばし、冷たい膜を破った。
指先が痺れ、体が硬直する。
その腕を、リタがそっと押さえた。

「ここは記録。触っても連れ戻せない。でも、覚えていることは確かになる」

彼女の掌が俺の手を包む。金属と皮膚の境界が、驚くほど温かい。
一瞬、彼女の心拍と自分の呼吸が同調した気がした。

リタが池の向こうを指す。
崩れた柱に赤い矢印が二重に描かれている。
一本は上、一本は斜め下。先端には翼の歯車。
上は整備された道、下は狭く汚れた亀裂。
俺は斜め下を選んだ。

「汚い方が抜けるんだったな」

「覚えてる。あなた、走り方がよくなった」

リタは微笑み、煙管に火をつけた。
赤い火が息をするように揺れる。
俺たちは割れ目に身を滑らせ、
落下する風の筋に身を委ねた。
背後でチェーンが鳴り、追跡機の赤い点が三つ、四つ、闇に灯る。
俺は息を吸い、足を踏み出す。

――夜を泳ぐみたいに。
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