錆びた街の落書き

宮滝吾朗

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第一部 脱出編

第8話 残響の回路

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斜面の終端は平面ではなく、網のような鉄骨の橋だった。踏みしめるたび、足裏に古い振動が伝わる。下の空洞を流れる黒い回路は、時折青白く光り、忘れられた街の一場面を浮かべては飲み込む。俺たちは足音をできるだけ均等に刻み、梁の影を拾いながら前へ進んだ。

「この先に境界扉がある。教育局の内部と外縁をまたぐ門。あたしの心臓で開く」

リタが言った。胸元の薄い隙間で、赤い点が規則正しく瞬く。彼女が歩を止めるたび、光はわずかに強まり、また弱まる。橋の終わりに鉄扉が現れた。紋章は翼の歯車と鍵穴。表面には擦り傷と赤茶の汚れ。人の爪痕が幾筋も残っている。

扉の手前、壁際に細い箱が固定されていた。投函口みたいな狭い溝があり、紙片が何枚か詰まっている。俺は一枚を抜き取り、湿った文字を目で追う。

「上は綺麗、下は正確。角で迷うな。左は汚くて抜ける」

走り書き。最後に「アキトへ」とあった。指先が震える。紙の縁が指の火傷跡に触れ、昔の痛みが微かに蘇る。リタが横から覗き込んだ。

「タケルの癖。角でペンが止まる」
「ここまで来てる。生きてる可能性は」
「記録には“行方不明”。でも、記録は都合の悪い言葉を嫌う」

彼女は扉に掌を当てた。赤い光が金属へ移り、紋章が薄い音を立てて回転する。内部でカムが噛み合う音。扉が音もなく横へ滑った。青白い光、淡い気流。境界の向こうは世界の内側みたいに静かだった。

踏み込んだ瞬間、背後で甲高い警告音が鳴る。橋の起点側に四本の赤い線。追跡機が梁を這う。リタは振り返り、煙管の火を指でつまんで飛ばした。火花が冷気の中で線になり、最前の機体の眼を焼く。俺は床に落ちていた長いレンチで二体目の脚を払う。金属の悲鳴、火花、酸っぱい匂い。三体目が跳びかかる。リタの踵が関節を砕き、俺の肩の横を刃が風だけ残して通り過ぎる。

「入って、扉を閉める」
「お前は」
「先に行って。鍵は私」

逡巡の一拍。俺はレンチを投げ捨て、境界の内側へ飛び込む。リタが最後に一体を押し返し、扉枠のセンサーを撫でる。音が落ち、扉が閉じる直前、彼女が短く笑った。

「あなたの走り、タケルより一歩だけ上。……悔しいな」

重い金属が噛み合い、世界が二つに分かれる。静寂。境界内は薄青の霧に満ち、遠くの壁が見えない。足元の床には無数の細い線が刻まれ、回路図のように延びている。線の交点に立つと、床の下から人の声が微かに聴こえた。囁き、祈り、笑い声。過去の残響が電気の形で残っているのだろう。

霧の奥に、背の高い扉がもう一枚現れる。扉の中央には小さな丸窓。覗くと、薄暗い教室のような部屋。壁にカリグラフで書かれた標語が逆さに読めた。

「秩序は幸福、異端は修復」

その下、チョークで乱暴に重ね書き。小さな手のひらの跡。「逃げろ」。俺は丸窓から手を差し入れられないことを知りながら、伸ばしてしまう。取っ手に触れる。冷たい。押す。扉は軽く開いた。中に入ると、机が一列、椅子が一つ、黒板の隅に白い粉が残っている。机の裏、指が触れるところに刃物の傷で刻まれた文字があった。

「兄貴へ 左、下、間。上は見せかけ」

息が詰まる。タケルはここまで届いていた。部屋の壁の向こうで、小さな機械音が鳴った。誰かがいるのかもしれない。俺は机を回り込み、黒板の隅を押してみる。板が外れ、細い隙間から冷気が漏れた。そこに、天使の羽根のような歯車の小片が落ちていた。拾い上げると、微かな熱。握り込むと、胸の奥の鼓動と同じ速さで震えた。

「行こう、タケル」胸の内で呟く。返事はない。でも、震えは止まらない。小さなカタルシスが胸骨の下で弾け、霧の向こうへ一歩が軽くなった。
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