湯守のいる宿

菊音花帆

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第二湯

湯守のいる宿【第二湯・おくりもの】

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翡翠亭へ湯治に通う客が増え、季節は新緑を過ぎた頃。
すっかり湯の評判が良くなり、その噂が遠くの街まで駆け巡る。

しかし、雨の季節を迎え、最近はまた客足がまばらになっていた。

「またのお越しをお待ちしております!」

「ありがとうございましたー!また、お待ちしております!」

番台の秋元に続き、すみれも精一杯の声で客を見送る。
いいお湯だったよ、ありがとうと去っていくお客さんに、自然と笑みが零れるのだ。


「さーて、今の客で最後だったな。」

「あ、そうなの?こんな雨の時期だもんねー、いくらなんでもお客さん少なくなるよね。」

「まあでも、ちょっと休めるうちに俺らも休んどかねぇとな。」


「休めるもんなら、正直ちょっと休みたいよ…。」


そう。客足がまばらと言えど、絶えず客は宿泊に来ていて、以前のような閑古鳥の鳴く宿ではなくなっていた翡翠亭。

溜息をつくすみれに、秋元が呆れたように話しかける。


「だから…。今日、湯守が来るから今から臨時休館だろ、ここ。お前…忘れてただろ?」

「あっ!!今日??!」


あの素敵な四之宮がもう三月経ってまた翡翠亭へ来るのだ。
大事な事なのに、謀殺されていて逢瀬の日を数える余裕もなかったのだ。

最初はきちんと日にちを数えていたり、街へ降りて四之宮へのお茶菓子を買いに行ったりしていたが、それにも勝る疲労には勝てなかった。


「忙しかったから、忘れかけてた…!」

「まあ、仕方ないよな。特に花見客で埋め尽くされた時は、流石に疲れ果てたぜ。」

「確かに…。忙しすぎて、目が回ったよ。女将さんもあたしも、夜中に温泉入ってなかったら、身体持たなかったかも。」

「ああ、俺もだ。」

疲れ果てた顔をした二人がぼんやり虚空を眺めていると、パンパンと扇子を鳴らす音が聞こえてきた。

女将の気配を察して、番台で眠っていたなつまるも背伸びをしている。


「はいはい、おつかれ、アンタ達。」

「女将さん、お疲れ様です。最後の客、先ほど帰りましたよ。」

「そうかい?じゃあ、まだちょっとまだ働いてもらうけど、大丈夫かい?」

まだなにかやらされるのかと、すみれは少し甘えて疲労感を露わにする。

「ええ…。今日…、まだなにかやることあるんですか?」

「ちょっとした清掃と…。そうだね…。すみれ。
今日はアンタ、好きな客室に寝泊りしていいよ」


「えっ!客室に!?本当にいいんですか?女将さん!」

一瞬にして目が輝くすみれ。
最近の忙しさで絶対なにか用事を言い渡されると思い込んでいたところ、思いがけぬ女将からの言葉に舞い上がってしまう。

「アンタ…その喜びっぷり、もしかして何か忘れてないかい?」

「まあ、コイツの事ですから。忘れてるでしょうね」

女将と秋元が目を細めてじっとりとすみれに目をやる。
その言葉には生気がないようにも感じた。

「えっ?あ、さっき聞いた、四之宮さん来るって話ですよね?」

「アンタ、それも忘れてたのかい…全く。とにかく、好きな客室で今日は寝るといいよ。」


どうしてこんなに待遇がいいのかわからないまま、素敵な客室に泊っていいだなんて。
ゆっくり温泉につかって、広いふかふかの布団で眠れる。

そして気になっている四之宮さんに会える。
それだけでもう、すみれは心から嬉しかったのだ。

「ありがとうございます!女将さんっ!」


それから女湯の床掃除と宿の入り口の階段の清掃を終えたすみれは、一息つく。
しかしふと思い返してみると、秋元も女将さんも何かすみれに忘れてるとばかり話して来た。


一瞬考えたが、四之宮さんが来る事。
小さく芽吹いた恋心。

あの日の光景を思い出して、また逸る気持ちが昂るすみれ。

足取り軽く、番台の秋元の元へ駆け寄った。


「仕事片付いたよ~!そして今日は客室にお泊り!いいでしょ?」

「お前…わざわざ自慢しに来たのかよ。おつかれ。」


目を閉じて動かないなつまるの横で、秋元は肘をつきながら適当に返事をした。
そんな態度でも、すみれは隠しきれない喜びでいっぱいだった。

「いいじゃん!あたし、どの客室に泊まろうかなー。」

「あ、ちなみにアジサイの間は駄目だぞ。湯守がまたその部屋を指定してきたらしい。」

「えっ!そうだったんだ!じゃあ…。うーん。
あたし、ヒマワリの間にするよ!あの部屋、大部屋だから、一人で贅沢しちゃう!」


やれやれと、ちょっと呆れたような様子の秋元。
しかし、すみれとの日常会話はだいたいこんな感じだった。
特に普段と変わらない日。

「と、いうわけで。番台さん、鍵くださーい。」

「へいへい、暴れて部屋のモン壊すなよ。」

すみれ「もう!しないわよ!そんなこと!」

「じゃ、これ鍵な。ごゆっくりどうぞ」


鍵を受け取ったすみれは浮き足で客室へと向かう。
秋元はうーんと、悩んでいる様子。

「さて。こりゃあ、どうしたもんかねぇ。」

なつまるに話しかけてみるが、すやすや寝ているので、何の反応もない。

すみれが忘れている事を、秋元は知っているのだ。
柄にもない事をしてやろうか、など散々考えたが、答えは出ない。

そうこうしている間に、女将がゆっくり番台へやって来た。

「秋元、もうじき四之宮さまが到着するから、あんたちょっと下まで迎えに行って来てくれるかい?」

「あ、はい、わかりました。…あの、女将さん。」

「なんだい?」

「あいつ、ああ…すみれ、本当に気づいてなかったです。」

「そうかいそうかい、年頃だって云うのに、困った子だよ、全く。
まあ、それだけ仕事熱心なんだろうけどねぇ。アンタもだよ、秋元。
仕事以外でも、心配りは忘れちゃいけないよ。」

「は、はい。すみません。…じゃあ、俺ちょっと下まで行ってきますね。」

「ああ、頼んだよ。」


秋元は階段を駆け下り、更に坂を下り、途中でこちらへ登って来る四之宮を見つける。
こちらにはまだ気付いていないようで、片手で草木を撫でながら歩いていた。

慈しむように、その表情はきっと笑顔なのだろうと解るような。

不思議な奴だと、頭をぽりぽりかきながら、どう話しかけようか悩んでいた。
すると、秋元の視線に気づいたのか、四之宮がこちらに目をやる。


「…あれ?あ、こんにちは。番台さん。」

ちゃんと秋元を認識しているようで、ほっとして四之宮の元へ駆け寄る。

「よう、元気にしてたか?アンタのお陰で、ウチの宿は大盛況だ。ありがとな。」

「そうでしたか、それは何よりです。」

ふふ、っと笑顔の四之宮。淡い色の着物の上に、透けた羽織を纏っている。
この男のおかげで、翡翠亭は大反響へと盛り返したのだ。

「みんな肩こりが治っただ、捻挫が治っただ、泣き出す爺さんもいたりしたな。」

「ふふ、よかったです、お役に立てているみたいで。」

役に立つどころの話ではなかった。
一つの潰れそうな温泉宿を救ったのだ。その不思議な術の力で。

湯治に来た客の様子が明るくなっていったのも、秋元はちゃんと見ていた。
だから、四之宮の術は本物だと今はもう信じて疑わなかった。

「今回は術のかけなおしだったよな?一泊って予定だと、女将さんから聞いてたが。」

「はい、そうなんです。三月ちょっと過ぎてしまいましたが…。
どうでしょう。まだ湯の効能はありましたか?」

「ああ、特に質が落ちただとか、そんな話は聞かないぜ。」

「それはよかったです。今回もまた、僕も新しい香りの術を生み出せたので、使いたいと思います。」

「そうか、またよろしく頼むぜ。四之宮。」

「はい、頼まれました、秋元さん。」

そんな会話をしながら、二人は坂道をゆっくり登る。

ぼんやり光る提灯、翡翠亭の暖簾。
女将が宿の入り口に立ち、二人を迎えた。

「ようこそ、四之宮さま、お久しゅうございます。」

「女将さん、お元気でしたか?」

「はい、リウマチもすっかりよくなりました。
宿も途切れる事無くお客が来て、本当に四之宮さまのお陰ですよ。」

「ああ、良くなられたのですね。宿も随分、活気に満ち溢れているようですね。」

「まあ、季節によっちゃ忙しすぎたりしたけどな。」

「そうですか。みなさま、本当にお疲れ様です。」

「何をおっしゃいますか、四ノ宮さま。頭があがりませんよ、本当に。」

前に翡翠亭へ訪れた時の侘しい佇まいは消え去って、新しい灯が定着したかのように、翡翠亭は暖かな光で守られているような光景になった。

目を閉じると暖かなお客の会話が聞こえてきそうな。


しかし、四之宮はひとつ気がかりな事があり、秋元に尋ねる。

「ところであの、元気な仲居さんは?」

「ああ、すみれなら、実は今日…。」


秋元はそっと四之宮に耳打ちをする。
女将はそのやり取りを微笑ましく見守っていた。

「なるほど!そうだったのですね。いや、これはよい日に来ました。」

「そんな事情なんで、わたしらも何かしかけてやろうかと思っていたんですよ。」

「女将さん、僕にも事前に伝えてくださればよかったのに。」

「いえいえ、四之宮さま。ちょっとしたことでいいんですよ。」

「そうだな。俺らはここの従業員だ。あんま、大げさな事はしなくていいぜ。」

「そんな…。秋元さんまで。すみれさん、まだお年頃ですのに。」

「いいんですよ、四之宮さま。あの子はそういう子なんでねぇ。鈍感というか。」


噂をすればと云う流れで、宿の入り口に集まって話しこむ皆の姿をみかけたすみれが、駆け寄ってくる。

「あ!四之宮さん!いつの間に着いてたんですか!わぁ、お久しぶりです!」

元気に話しかけてはみたものの、光が当たるとキラっと輝く着物や髪の毛、四之宮の美しさに心臓が高鳴る。

本当に来てくれた。
また、ここに来てくれた。

「仲居さん、お久しぶりです。相変わらずお元気そうで、何よりです。」

「はい!四之宮さんが、かけた術のお湯、すっごく効きました!忙しくても、頑張れました!」

「あはは、疲れたら湯につかるだけではなく、きちんと睡眠もとってくださいね。」

笑顔の四之宮は、本当にずっと見ていたいと思わせるような雰囲気を醸し出しており、再び少しの緊張がすみれを襲う。

初めてその姿を見た時の、あの雷に打たれたような。
一厘の花が突如咲き誇ったような、そんな感覚。

また見とれそうになったが、四之宮に伝えたいことは沢山あった。
すみれは笑って誤魔化しながら、ゆっくり四之宮に近付いた。

「あの…四之宮さん!あたしちゃんと約束覚えてますよ。
お茶菓子、町で買ってきました!」

「僕も覚えていましたよ。わざわざ町まで?ふふ、ありがたく頂戴しますね。」

「はい!後でお茶と一緒にお持ちしますね!女将さん、いいですか?」

「ああ、四之宮さまがいいって言うなら、いいんじゃないかい。」

「今日はもう宿閉めてんだ。従業員同志なんだから、あんま客扱いしなくていいんじゃねぇか?」

「そうだね、秋元の言うとおりさ。久々に皆でゆっくりしようじゃないか。」


女将公認で、今日は四之宮含む全員でゆっくり過ごせる。
そう確信したすみれは、心から嬉しかったのだ。

誰が欠けてもきっと全力では喜べない、そんな関係。
知らないうちに育っていた関係。

「すみれは四之宮さんの所へお茶菓子持っていくんだろ?そのあと、アンタの部屋にちょっと邪魔するよ。」

「へ…?はい、わかりました。」

「じゃあ、あんた達。明日までしばし羽休めだ。」

「はい、女将さん。」

秋元も久々の休暇に、固くなった表情が緩んだ。

なつまるの世話は毎日あるが、きっと今夜は女将さんの部屋で眠るのだろう。
寝ているなつまるを軽く撫でて、秋元は自室へ向かった。


すみれは町で買ってきたお茶菓子と、お茶を用意する。
店で色々見てきたが、やはり前回も四之宮が気に入ってくれた琥珀糖を買っておいたのだ。
味見もしっかりしてきてある。

いつもの仲居服を着たままだったが、四之宮が居るアジサイの間へ向かう。

部屋の前でまた少し、緊張感が出てくる。
いや、でもこの日を待ちわびていて、そう。
忘れてしまうほど、実は長く感じていたのだ。

コンコンと、二回戸を叩く。

「失礼します、じゃなかった…四之宮さん!お茶菓子、持ってきました。一緒に食べませんか?」

「仲居さん、ありがとうございます。はい、ぜひ頂きたいです。
どうぞ、中へ。」


緊張しつつ、襖を開ける。
中央の机の座椅子に座って、四之宮は足を流していた。

「すみません、このような恰好で」

「いえ‥!」

寛いで疲れを癒しているのだろう。あちこちに旅に出ていると聞いている。
いったい、どの街まで歩くのだろう。

少しでも旅の疲れを癒して欲しいと、すみれは思っていた。

「これ…。ちゃんと見た目だけじゃなくて、味見もして買ってきたんですよ。
とっても美味しかったです!」

「あはは!やっぱり仲居さんは食べちゃったんですね、先に。」

「ああ、その…見た目だけじゃ、その、不味かったら四之宮さんに嫌な思いさせちゃうなって。」

「お心遣い、感謝します。すみれさん。」

「…!い、いますみれって呼び…!」

急に名を呼ばれて顔が熱くなるのを、すみれは感じていた。
さっきまで確か仲居さんと呼ばれていた気がする。

沢山いる仲居から、自分だけの名を突然呼ぶものだから、編に意識してしまう。
顔を見られまいと、少し俯くすみれ。

「一緒に働く仲間ですから、今後はすみれさんと、お呼びしたいです。」

「は、はい。でもなんだか、恥ずかしいなぁ…。」

「そうですか?ふふ。ではさっそく頂きましょう。お茶が冷めないうちに。」

四之宮は部屋に備え付けてある湯呑を一つ手に取り、すみれの分の茶を注ぐ。

その所作の美しさは、まるでお手本のようで見とれてしまう。
いい家柄なのだろうかと、また違う思考を巡らせそうになる。

「さあ、すみれさんもご一緒に」

湯呑を差し出してくる四之宮の表情が慈悲深い笑顔で、現実離れの世界にいるのではないかと、ついぼうっとしてしまう。

「あ、ありがとうございます!いただきます」

もうすぐ日が暮れるようなゆっくりとした時が流れる。
逢魔が時が見せる幻想のように、不思議な心地よさをすみれは味わっていた。

場面は変わり、女将と秋元は番台に集まり、すみれの話をしていた。
そう、すみれが忘れている事。話さなければいけない事情があったのだ。


「秋元、アンタなにか用意してるのかい?」

「一応、暇見て街下りて、それっぽいものは買ってきたんですが…。」

「何を買ったんだい?」

「あの、俺…。こういうの苦手だったんで、店員に相談したら…。」

「なんだい、人に聞いたのかい?そういうのは自分で決めたり、相手の気持ちを考えて選ぶモンだよ。」

「は、はあ…。すみません。」

そう、今日はすみれの誕生日なのだ。
十九の誕生日を、今日迎えていた。

本人はあろうことかその事を忘れていたので、秋元と女将はこうして話しているのだ。

「まあ、すみれはまだ成人前だからね。あの子が二十歳になるときは、ちゃんとアンタが考えて決めたやつを用意しな。」

「しかし…女性への誕生日の贈り物、難しいです。少なくとも俺には…。」

「アンタもそんなんだから、あたしゃ心配になるよ。」

昔から女っ気のない秋元の事を、女将は心配していた。
クールでぶっきらぼうで、人の気持ちを伺う事に不器用な秋元。

たまに女性客に話しかけられているのを見たことがあるが、お客への対応以上のものが出せないのだ。
所謂、鈍感というものだろう。

「女将さんへの贈り物なら思いつくんですが、すみれみたいに歳が近いとなかなか…。」

「やだねぇ、あたしを年寄り扱いしてるのかい?」

「そ、そんなつもりはないです!女将さんには、世話になっているので!」

「そうかい。さて、あたしゃ先にすみれに渡してくるよ。夕飯も皆で、にしようかねぇ。」

「そうですね、それがいいです、俺、厨房とかけあってきます!」

「ああ、頼んだよ。」

ふう、と一つ溜息を吐く女将は、足元に居るなつまるをひょいっと拾い上げる。
そのまま番台の寝床になつまるを置いて、ひと撫で。

「本当に、あの子たちは鈍感で参ったよ、なつまる」

ふふ、と困ったような笑顔の女将は、すみれの部屋へと向かう。



その頃のすみれは、まだ四之宮の部屋で旅の話などをしていた。
三月と少しぶりの再会に、まだ心は躍っている。

「四之宮さんは、普段何をして過ごしているんですか?」

「植物の香りや水質の勉強をしたり、各地の源泉を見て回ったりしていますよ。」

「いいなあ。色んな場所にいけるなんて、ちょっと羨ましいです。」

「ええ、様々な宿へ行き、水質を確かめたり、はは、放浪者のようですね、僕は。」

「そんな事ないですよ!本当に、四之宮さんには感謝しているんです。
あの…前に話した事、覚えてますか?ここがなくなったら、あたし…行く場所がないって話。」

「はい、覚えていますよ。辛そうな顔が忘れられなかったです。」

「今はそんなに辛くないです!女将さんはお母さんみたいだし。
秋元さんも、兄…のようで。」

喋っているうちに、少しずつすみれの元気がなくなっていく。
四之宮はそれを察していた。

何かを伝えたそうなこと、そしてこの宿がすみれの実家なのだと。
生い立ちを詳しく聞くのは、今はまだ無粋だと悟っていた。

「ここは本当に皆さん仲がよくて。確かに秋元さんはお兄さんみたいですね。
…っと、そうしたら、僕はすみれさんの何になれますかね?」

「えっ!あ、えっと…な、なにに、なってくれますかね?」

「僕はまだ二十三で、お父さんというのも可笑しいですし、そうですねー。
恋人、とか…?」

「こ!恋人!?そんな!あたし恋人なんていた事ないし、し、四之宮さんが恋人なんて!ああ!もう!あたしなんかに、勿体無い!」

すみれは突然の四之宮からの「恋人」と云う単語に驚き、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして一気に捲し立てる。

「あはは、たとえ話ですよ、すみれさん。落ち着いてください。」

「もう!四之宮さんまで、あたしをからかって!」

「いえいえ、僕も恋人いたことないので、仲間です。」

「え!そんなにカッコイイのに!?信じられません!絶対モテてます、四之宮さん。」

「いえいえ。僕はこの術を使うせいか、やはり怖がられたりするんです。」

「人を癒す、素敵な術なのに…。
まあ、あたしも初めてはびっくりしたけど、もう怖くなんかないですよ!」

「ふふ、ありがとう、すみれさん。」


ひと際賑やかな声のする部屋は、アジサイの間。
客のいない宿。すみれの元気な声を聞きつけた女将が、静かにその戸を叩く。

「失礼します、四之宮さま。」

すっと空いた襖の奥で、女将は深々とお辞儀をしている。

「ああ、女将さん。なにか、ご用件でも?」

「ええ、本日の夕食の件で、お話に参りました。
すみれ、ちょっと席を外してくれるかい?」

「あ…はい、わかりました。あたし、部屋に戻りますね!」

「四之宮さん、またあとで!」


もし、自分から恋人になりたい。なんて言ったら、本当にしてくれたのだろうか。

「はあ…四之宮さんが恋人かあ。びっくりして変な事言ってなかったかな、あたし。
…恋人、ほしいな。

恋、か。あたしが恋なんてしていいのかな…。」


こんな事を考えていると云う事は、もうとっくに相手を好きになっているのだ。
恋の経験がないすみれは、まだその事にも気づくことは出来なかった。

恥ずかしさと嬉しさで女将さんが来たことも、たいして気にも留めず、すみれは今夜泊まれるヒマワリの間へ向かった。


それからしばらく、それぞれがすみれの誕生日の為に右往左往していた。
当人は相変わらずのんびりと、ヒマワリの間で微睡んでいた。


「あ、女将さん、厨房と話つけてきました。」

「どういう話で落ち着いたんだい?」

「はい。とりあえず4膳、懐石を用意してもらって、ヒマワリの間に運ぶ事に決まりました。」

「そうかい、じゃあ、時間になったらアンタもすみれの部屋に行くんだよ。」

「はい、わかりました。」

番台を抜けて、ヒマワリの間へ女将は向かっていた。

先ほど、四之宮にもすみれの誕生日で、夕餉を共にして欲しいと話してある。
あと、やり残した事は、すみれに渡すものがあったのだ。

女将は小さくヒマワリの間の戸を叩いた。


「すみれ、いるかい?」

「え…女将さん!はい、います!」

「そうかい。さっきは邪魔したね。…話は楽しかったかい?」

「はい!とっても楽しかったです。四之宮さんのこと、色々知れました」

とても嬉しそうに、すみれは話す。
親のような気持ちで、女将も優しくすみれに接する。

「そうかい、そりゃあ良かったね。…ところですみれ。」

「なんでしょう、女将さん。」

「あんたにこれをあげるよ。あけてみな。」

「なんですか?これ。」

女将がすみれに手渡したのは、細長い化粧箱。
桐の箱で、ずいぶんと立派なあしらえがしてあった。

「アンタ、忘れてるみたいだから言うけど、今日は十九の誕生日だろ。
すみれ。誕生日おめでとう。」

「えっ…今日って何日でしたっけ?」

「今日は七夕だろ。7月7日だよ。」

そう聞いたすみれはピタっと動きをとめて、次の瞬間、顔を隠して叫ぶように声を出す。

「あっ!あーーーーー!!!すっかり忘れてたぁあ!」

本当に忘れていたのだ。
どうして忘れていたのかも思い出せないでいた。

「アンタ年頃なんだから、ちょっとは自分の事考えな。」

「はあ…なんだか仕事してたら、すっかり忘れてました…。そっか、あたし十九になったんだ!」

再び女将は、化粧箱をスっとすみれに差し出す。

「これはあたしからの贈り物だよ。」

すみれはゆっくりと化粧箱に付いた紐を外し、中身を取り出す。
中にはキラキラとちらつくような糸で縫われた帯紐が入っていた。

「有難うございます、女将さん!…わあ!凄く綺麗な帯紐!」

「まあ、仕事道具みたいになっちまったけど、アンタは看板娘なんだ、少しは身なりを気にするんだよ。」

「女将さん…!嬉しいです、有難うございます!」

うるうるとした表情のすみれを見て、ホッとした表情の女将。

自分が親のように接しているが、真っすぐないい子に育ってくれている。
女将はそれが何よりうれしかったのだ。

するとヒマワリの間の入り口で、靴を脱ぐ音が聞こえる。

「おーい、すみれ、いるか?」

ガラっと襖を開けたら女将も居たものだから、秋元は少し焦った。

「お、女将さん!すんません!」

「ああ、アンタも来たのかい。丁度あたしゃ帰るとこさ。じゃあ、また後で。」


すうっと羽織ものをまとめて、女将は部屋を後にした。
すみれはまだ少し、泣きそうな気持ちで感動していた。

「…なんか、邪魔しちまったみたいで、悪かったな。」

「えへへ…いいの!それよりさ、見てみて!これ女将さんに貰ったの!」

「おお、綺麗な帯紐じゃねえか!」

「でしょー!あたし看板娘だから、ちゃんと綺麗にしとけって言われちゃったけど。」

「それは俺も思うぜ、お前はもう少し女らしくしろ。」

「なによ!アンタは喧嘩でも売りにきたわけっ?」

「ちげーよ!ほら、これ、お前にやる。」

ずいっと小さな紙袋を差し出す秋元。すみれはきょとんとした表情でいた。
まさか、今まで特に誕生日に特別な事をしてきたことがないこの男が、何かをくれようとしているのかと、じっとその袋を見つめるすみれ。

「…え?なに?もしかして、これ、あたしへの…?」

そう言いながらすみれは秋元の顔をじっと見つめる。
途端に柄にもない事をしている秋元は恥ずかしくなり、ずいっと更に紙袋をすみれに押し付けるように渡す。

「そうだ!…もしかしなくても、お前に贈り物なんざ誕生日くらいしか、しねぇだろうが。」

秋元は本当に柄にもなく照れていた。
察しの悪いすみれが相手では、全て自分で話して伝えなければいけない。

だが、ちゃんとすみれは紙袋を受け取って、その中身の形を確かめるように触っている。

「えっ…ふふ、ありがと!あたし今日が誕生日だって、さっき知ったんだ。」

「普通の女は、そういうの忘れねぇんじゃねえか?まあ、お前らしいな。
その…ちょっと開けてみろよ、ソレ。」

そう言って紙袋を指で小突いて、すみれに開けるように促す。

「うん。…わあ!なにこれ、ウサギの髪飾り!凄くかわいい!」

ピン止めのようになっているが、簡単に髪に挟めるような髪飾り。
それを見て無邪気に喜ぶすみれを見て、秋元は一安心した。

嬉しい事があると喜ぶ妹みたいな奴だ。思わずこちらにも笑みが移る。


「気に入ったか?」

「うん!とっても気に入った!ありがとね!宿が開いたら、これ付けてまた働くわ!」

「ああ、使ってくれ。壊すなよ。」

「大事にさせていただきますー!っと…あはは、お腹鳴っちゃった。」


「色気ねぇなあ、ホント。もうすぐここに料理が来る。
そして、まあ。皆でお前を祝うって流れだ。」

「えっ!そうなの?すっごく嬉しい!」

「ほら、噂をすれば…。」

秋元がそう言い切るや否や、四之宮が姿を現した。
さっき帰ったばかりの女将さんまで、なにやらニコニコしながら部屋へ入って来る。

「すみれさん、お邪魔してもよいですか?」

「四之宮さん!」

「さて、今日は懐石料理が食べられるよ、すみれ。」

「女将さんまで!」

「さあ、今夜はあたしの奢りだ、楽しくやろうじゃないか。」


どんどん集まる大好きな人に囲まれて、すみれは心から喜びを感じた。

感謝の言葉を考える間もなく、他の仲居が次々と料理や飲み物を運んでくる。
何もできずにぼんやりと、立っている事しかすみれには出来なかった。

本当に夢のような、キラキラとしたフィルターがかかったような時間。
美味しい料理に、果実のジュース。
すみれの好物の甘味など、全てが美味しく感じられた。


「ふう、素敵な夜だったな。料理もおいしかったし、幸せ…。
あたし…、また大人に近づいたんだ。早く二十歳になって、みんなとお酒のみたいな…。」

皆と過ごした幸せな晩餐会を終えて、ヒマワリの間で一人、窓を開けて空を見ていた。
夢のような誕生日は、もうすぐ終わってしまう。


すると、戸を叩く音が聞こえる。
女将さんかと思い、急いで窓を閉めると、声が聞こえてきた。

「すみれさん、遅くにすみません、あの、起きていらっしゃいますか?」

「えっ!四之宮さんの声だ!」

こんな夜に誰かに会う事がなかったすみれは、驚いた。

四之宮さんがこんな時間に一体なんの用だろうと、着崩れた着物を直しながら部屋の入口へと向かう。


「し、四之宮さん!こ、こんばんは!」

「ああ、良かった、まだ起きていて。」

「あの、はい。ど、どうかしましたか?」

「ええ、ちょっと。もし、よろしければ少し外を歩きに行きませんか?」

「外ですか?…あたしでよければ、ご一緒します!」

「宿の裏山の、入り口にある石碑、あるじゃないですか。」

「あ、はい。あそこ確か源泉があったような…。」

「夜道は僕ひとりだと、たどり着けるか不安で。案内してもらえると助かるのですが。」

「なるほど、そういう事ならあたしに任せてください!行きましょう、四之宮さん。」


勢いよく引き受けたものの、真っ暗な中、一つの灯りで四之宮と肩を並べて歩く夜に、少しずつ緊張するすみれ。
またさっきの楽しい夢が戻ってきたような感覚がしていた。


「今日は七夕ですね。…どうやら、織姫と彦星は出会えたようですね。」

「そうですね。凄く綺麗な星空…。」

「こうして、すみれさんと一緒に、今日という日を過ごせて、僕は嬉しいです。」

直接そんな事を言われて、照れてしまう。
自分だって誕生日をみんなと、そして四之宮さんと過ごす事になるなんて、思いもしていなかったのだ。

「あっ、あたしも!みんなと、そして…四之宮さんとも、こうやって一緒に過ごせて幸せです。」

「とても素敵な夜ですね。」

「はい。」

少しずつ言葉数が少なくなる四之宮。

すみれは初めて感じた、胸が熱くなるような感覚に陥っていた。
話したいけど、簡単な言葉しか出てこない。

元気でお喋りな自分の意外な部分を知ってしまった。


「風の香りも、心地いい。先ほどのお酒に、少し酔ってしまいました。」

「…あたしも、みんなと一緒にお酒、飲みたかったです。」

「ええ、また来年。僕はこの日に、この宿へ来る用事ができてしまいました。」

「えっ…!そ、それって…!」

来年もこうして誕生日に会いに来てくれる。
遠回りな言い方をされたが、それはきっと。その用事はきっと。

まだ遠く感じる来年の話だが、すみれはその言葉が嬉しかった。

「来年、一緒にお酒飲みましょうね。
…ああ、つきましたかね?…あそこですよね?」

何も言えないまま歩いていたら、目的の場所に到着していた。
四之宮に案内を頼まれているのを思い出して、すみれはいつもの調子を取り戻した。


「はい!あそこが源泉の場所です!」

「では、すみれさん、見ていてくださいね。」

「あ…。もしかして!術をかけるんですね?ちゃんと見てます!」


四之宮はすみれの二歩ほど前にしゃがみ、地に手を当て、ゆっくり息を吸う。

こくっと頷いたのち、またあの不思議な言葉を唱える。


「満ちろや、香り、光とともに」


すると辺り一面に薄緑色の光の玉が、地面から溢れてフワフワと泳ぎだす。
幻想的な光景に目を見張るすみれ。

その光に包まれた四之宮の姿も、この世のものとは思えない美しさだった。

「わあ…!なんで?沢山の蛍みたいな…!不思議…。
あと、お花の香りがする!」

「ふふ、僕からのささやかな贈り物です。
お誕生日、おめでとうございます、すみれさん。」

「なんて綺麗な蛍…え?でも蛍じゃない。光だけだ…。
ここだけ別世界みたい…!わあ、ありがとう!四之宮さん!」

「いいえ、たいした物はお渡しできませんが、これをひとつ、この袋の中へ。」

そう言って四之宮は、透明な小袋の中に、つまんだ光の玉を一つ入れる。

細い糸で巾着のようにし、すみれに手渡した。

「えっ、凄い!光、この光掴めるの!?」


「これは蛍星と言います。ぜひお部屋へ飾ってください。
半年経つと、消えちゃいますが…。」

しばらく手渡された光が消えるのではないかと、じっと見ていた。
本当に不思議な術。そして心なしか、暖かさに包まれる感覚がした。


「四之宮さん…!嬉しいです。あたし、こんな不思議なものを貰ったの、生まれて初めてです!」

「また来年、すみれさんが成人したら、今度は僕が甘いお酒を持ってきますね。」

「本当に嬉しいです!四之宮さん、この綺麗なひかり、えっと、蛍星。
大事にします。来年のお酒も、楽しみにしています!」

空高くまで舞い上がった蛍星が、やがて小粒の雨のように降り注ぐ。
それに誘発されたように、葉を叩く雨が降って来たのだ。

「ああ、いけない、雨が降ってきましたね。濡れてしまう。
急いで帰りましょう。さあ、手を。」

「えっ、はい!」


さり気なく手を繋いでくれた。一気に距離が縮まったような気がした。
もうこの人は、自分にとって特別な人のように感じた。
四之宮の背中を見つめながら、すみれはそんな風に思いを募らせた。


「はあ、はあ、本降りになる前でよかった。少し濡れてしまいましたかね、大丈夫ですか?」

息を切らしながら話す四之宮。
濡髪が肌に張り付いて、男性なのに色気を醸し出していた。
ただ、それを奇麗だと感じたすみれは、少しぼうっとしてしまう。

「ひ、久々に走りました。あ、あたしは平気です。
お、温泉入ってきますから。」

「すみません、遅くまでつき合わせてしまい。」

「そんな!とっても素敵なもの貰っちゃって!ありがとう、ございます。
大事にします…っ。」

そうだ。誕生日はもう終わって、この夜はもう終わって、次にまた触れる事や会話を交わすことの距離が、とても長いものなんだと目が覚める衝撃。

この夜が終わってほしくないと、すみれは思わず涙ぐんでしまった。

「すみれさん…?どうか、しましたか?」

「あの、明日、湯に術をかけたら、また…。
次は、半年後にしか会えないんですよね?」

「はい、そうですね。僕も術の勉強や、修行がありますし。」

「さみしい、です。」

「僕も、です。本当はこの宿にずっと居たいですよ。」


そう言って優しく微笑む四之宮の事を好きになった。
すみれは自分の気持ちに気付いてしまう。

離れたくないと、そう願ってしまう。

「あの、あたしはずっといるから、ここに!
だからまた、半年後じゃなくても、その…。」

「はい、なるべくここへ足を運べるように、励みます。
さあ、もう今夜は休んでください。」


そう、今日はもう終わってしまうんだ。
熱に浮かされたような、この時間も。

泣き出してしまいそうになるのを堪えて、すみれは必死で笑顔を作る。

「はい、ありがとうございます。おやすみなさい…四之宮さん。」

「おやすみなさい、すみれさん。」

そう言って互いに背を向けたが、二人の表情は笑顔だった。

大丈夫、きっとまた会える。必ず。
二人の時間はまだ、序章にすぎないのだから。


翌日、秋元が宿の入り口に立っている後ろ姿を見つけたすみれ。
あまり寝付けなかったが、明日からまた仕事なのだ。
元気を出さなければと思い、ゆっくり秋元に近付く。

「なんだ、今日は雨か。昨日あんなに晴れてたのに。
おっ。早いな、すみれ。おはようさん。」

「うん、おはよ。」

「どうしたお前、なんか元気ねぇぞ。」

「…うん。」

突っ立っているすみれを、色んな角度から見る秋元。
丁度そこに女将さんが通りがかった。

「ああ、あんた達、おはよう。」

「おはようございます!女将さん。聞いてくださいよ。
こいつ、なんか今日元気ないんですよ。」

「ちょっと!…お、おはようございます、女将さん!大丈夫です!あたし、元気です!」

「そうかい?ああ、四之宮さま、先ほどから湯に術をかけてくださってるから、邪魔しないようにねぇ。」

「そうでしたか、わかりました。」


四之宮、と名を聞くだけで鼓動が早まってしまう。
早く会いたいと思いつつも、今は会えない。
少しでも長くここに居て欲しいのが、すみれの本音であった。

「…あの、また明日からあたしバリバリ働きますね!」

「…ん?まあ仕事道具も貰えたし、頑張らないとな!」

「アンタは空回りしない程度にしとくんだよ、すみれ。」

「は、はいっ!」

そうだ。から回ってしまったら、怖い。
この気持ちも、これから口に出す言葉も気を付けないといけないような気がした。

初めての事だからわからない。
単純に好きなのか、凄い事が出来る人へ対する憧れなのか。


しんしんと降り続ける雨。すみれはしばらく外の景色を眺めていた。

自分らしくいたいのに、うまく出来ないもどかしさ。
ただ今は、こうしていたかったのだ。


仕事を終えたであろう四之宮が、宿の入り口へやって来た。
番台には、秋元となつまる。
近くに女将さんの姿もあった。

「みなさん、ああ、こちらにいましたか。」

「四之宮さま、お疲れ様でした。ささ、少しお休みくださいな。」

「いえ、今日はもうすぐに発たねばならなくて…。」

「そうでしたか…。この度も、お世話になりました。」

「昨日は楽しかったな!また飲もうぜ。」

「はい、また是非みなさんと楽しい時間を過ごしたいです。」

「アンタも色々大変な旅してそうだが、俺らもアンタの湯を大事にするからよ。
また半年後、な。」


「はい、半年…それより前にぜひお邪魔したいです。」

「あら、それは嬉しいですねぇ、その際はぜひご一報くだされば。
四之宮さまお気に入りのアジサイの間をご用意しますよ。」

「ありがとうございます、女将さん。
…すみれさん、また、伺いますね。約束の品も、覚えておいてくださいね。」

なかなか会話に混ざれずに居たが、四之宮は自然に話しかけてくる。
ぼうっとしていたすみれは、少し慌てたが、なんだかいつもの調子が出ない。

「は、はい!あたしも、その、また、会う日まで…。」

様子のおかしいすみれに気付いた女将が、ゆっくりすみれに近付き、その明らかに元気のない顔に向かってぴしゃりと言い放つ。

「すみれ。寂しいのはわかるけど、アンタは笑顔が売りなんだから、きちんと四之宮さまに、ご挨拶しな。」

「なんだお前、四之宮が帰るのがそんな寂しかったのか?」

「ち!…ち、がわない、けど。まあ、うん。」

すみれは大切な人と離れている時間を考えるのが、昔から苦手だ。
寂しがりやで、別れなどに敏感であった。

だからこそ、今回も忘れたのだ。四之宮が来ると云う話を。
辛い時間を忘れたくて動いているうちに、忘れてしまえる。
一種の才能なのかもしれないが、極端に寂しがりやだからこそなのかも知れない。


そっと四之宮がすみれの傍に歩みを進め、目の前で立ち止まる。

「すみれさん、近いうちにまた来ますから。お茶菓子、また楽しみにしています。」

「はい!…また、美味しいの、ちゃんと買ってきます」

その言葉を聞き終えたと同時に、四之宮はすっとすみれの横を通り過ぎた。

そして宿の外へ。
くるりと向き直り、皆が見渡せる場所へとゆっくり歩いてゆく。


「それではみなさん、お忙しそうですが、どうかご自愛くださいね。
僕もまた、腕を磨いてきますので。女将さん、秋元さん、そして…
すみれさん。また、お会いしましょう。」

そう言ってまた、帰る道を歩き始めた四之宮の姿を見ていたすみれ。

どんどん離れて行ってしまう。

足が勝手に動く。
すみれは宿を飛び出し、雨の中だが構わずその背中に大声で話しかけた。


「四之宮さん!あたし、ちゃんとここに居ますから!ずっと、待ってますから!」

それしか言えなかったが、言い放った後にちゃんと笑顔ができた。

次に会う日を、今度は忘れたりなんかしないように。
楽しみが出来たと思えばいいと、すみれは何か吹っ切れた様子だった。


「はーい、みなさん…どうかお元気で。」

四之宮は少し遠くから、返事をしてくれた。

小さくなる四之宮の背中を最後まで見送るすみれ。


「待ってます、四之宮さん」

小さく呟くすみれは、片手に四之宮から貰った蛍星を、しっかりにぎりしめていた。


(第二湯・完)


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