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六 別れ
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(わかれ)
山背は、晩秋蚕の季節であった。
そして、蚕は五齢に入った。
蜂岡皇子が、初めて山背姫に、都を離れることを告げてから、半年が経ったことになる。
姫にしてみれば、たったの半年、であった。
泊瀬部皇子の文を受け取り、蜂岡皇子は、真っ先に、姫の元に馬を走らせた。
時が無かった。
もはや、姫は言葉を失ったようであった。
このように早く、本当にこの時が来ようとは、想いもしなかった。
いや、来なければいい、そのことだけを願って過ごした半年であった。
姫は、皇子に頬を寄せた。
闇夜であった。
夕にあげた桑を、五齢の蚕が食べる音が聞こえる。
「出立は、いつになりましょうか」
一番発したくない言葉を、力なく声に出してみて、姫はその声に自分が押しつぶされ、消えてしまいそうであった。
「明朝」
姫は、言葉無く頷いた。
涙がまた、頬を伝う。
姫には、皇子の行き先すら分からなかった。
それは秘事。時が経てば、あるいは分かるのかもしれない。
「いずれ、人は死にます。皆、等しく死にます。たった一人で。生まれいづる時は、母の中から、母の痛みの中から生まれますが」
皇子はそこまで言って、言葉に詰まった。
皇子の溢れた涙が、姫の涙と交じり合う。
「死ぬ時は、たった一人なのです。誰もがそうなのです」
姫が、また頷いた。
仏道のことは、姫には分からなかったが、皇子の言葉は、一つ一つが良く心に落ちた。
「では、どうして、人は生きるのか。それは、残すべきものがあるからなのでしょう。誰でも、一つは何かを残すことができるでしょう。こんな私でも」
皇子の言葉が終わり、その余韻の中で、また雨のような音が蘇った。
命の雨音であった。
蚕は一心に桑を食べ、繭を作る。
その繭は、真珠のように輝く生糸を生む。
それは繰り返されるのである。
「私は、姫のことは、決して忘れません。そして、姫の後に、誰もありません。しかし、姫はきっと、お子を残されてください。これは私からの最後の願いです」
姫は動かず、じっとその言葉を心の中で反芻した。
皇子が都を去ったあとも、時折、その言葉を噛み締めた。
そして、いつの日か、その言葉を有難かった、と思う時が来るのだった。
姫は後に、厩戸皇子(聖徳太子とされる人物)の一人の妃となり、御子を残すのである。
「皇子様は、このまま、こちらにお残りになられるのですか」
「さよう」
そうなることは分かっていても、尋ねずにはいられない、小手姫であった。
昨日発生した、穴穂部皇子と物部守屋の事件は、すでに、すべての皇族の知るところとなっていた。
その一報を受け、泊瀬部皇子の周辺は、秘かに慌ただしくなった。
早馬が方方に駆ける。
それらは、泊瀬部皇子の文を携えた。
「大伴殿(大伴糠手子)にすべて伝えたゆえ、従ってもらいたい」
病身と偽って宅に籠もっていた大伴糠手子は、即座に都を離れる決心をした。
敏達天皇が崩御し、蘇我系の皇統が当分続くことを考慮すれば、もはや自らの再浮上は望めないと判断した。
いや、それ以前に、命も危うい。
それは、泊瀬部皇子にしても同様であった。
しかし、自らが同道しないことは、既に決めたことであった。
あらゆる意味において、それはするべきではないと。
まず、泊瀬部皇子が一緒に都を離れれば、追手は厳しいものとなるだろう。
その危険を最小限度に留めなければならない。
残される者の、行く者の事を最優先に考えることが、自らの最後の責任だ、と泊瀬部皇子は考えるのであった。
「蜂岡にも、報せを走らせた」
蜂岡皇子へは、こちら側の動きを報せたのである。
「長年、都を空け、良く、留守を預かってくれました」
泊瀬部皇子は、深々と平身低頭された。
そのような御姿を目にするのは初めてである小手姫だった。
「そのような」
もはや、涙で、言葉にはならない。
錦代も同様であった。
「余は、いずれ行き先は長くない。もはや、次に託す時である。やり遺したことは、あるが、それも、これからの者たちがおる。案じてはいない。そして、都が全てではない。倭国は、まだまだ未開である。まさに、始まってもいない。とにかく錦代を頼む」
「父様」
そう言って、錦代が泣き崩れた。
「泣くではない。来世でまた会えよう」
泊瀬部皇子が言うのは、仏教の「輪廻転生」のことであった。
現代では、こういう概念を普通に使うが、この当時は、全く新しいのである。
神の御代における「死」は、「穢れ」である。
死体は「穢れ」そのもの。だから、「禊」を行う。
そうして、新しい「生命」を現出させるのである。
似ているようで、「輪廻転生」とは全く違うのだ。
それが、仏教ならではの「救い」であり、そのことに、泊瀬部皇子も、蜂岡皇子(蜂子皇子)の惹かれたのであった。
来世での縁。
それを信じて、泊瀬部皇子は、そう言ったのである。
そして、これが、泊瀬部皇子と小手姫、錦代が交わした、最後の言葉であった。
「申し上げます。大伴様がお見えになりました」
大伴糠手子が、配下の秦の者たちと倉梯宮に到着した。
出立の時である。
敏達天皇十四年(五八五年)、九月二十日の寅の刻(午前三時頃)のことであった。
この日、日が昇った後。
「何、大伴殿の姿が無い」
東漢磐井の配下の者が早馬でやってきて、広瀬宮の馬子にそう伝えた。
一瞬、馬子は、新たな企てを案じたが、すぐに思い直した。
「磐井には、探すな、と伝えよ。ただ、泊瀬部皇子様の所在を調べろ、と」
「ははあ」
泊瀬部皇子は、筆を置くと立ち上がり、一人、宮を出た。
裏山の方に歩いていく。
足取りはしっかりしていた。
そのまま、山道を上っていく。
よく知った、銀杏の大樹があった。
散策の折、見上げる木である。
その枝ぶりまでも、頭に入っている。
腰には、長い帯が巻き付けてある。
太枝に掛ける帯だ。
そして、自らの首に。
そして足場の細枝から、足を離す。
それまで。
皇子は、ゆっくりと歩みを進める。
もはや、急ぐことも無かった。
敏達天皇十四年(五八五年)、九月二十一日。
享年六十六歳。
泊瀬部皇子は、皇子のままで、その人生の幕を閉じた。
山背は、晩秋蚕の季節であった。
そして、蚕は五齢に入った。
蜂岡皇子が、初めて山背姫に、都を離れることを告げてから、半年が経ったことになる。
姫にしてみれば、たったの半年、であった。
泊瀬部皇子の文を受け取り、蜂岡皇子は、真っ先に、姫の元に馬を走らせた。
時が無かった。
もはや、姫は言葉を失ったようであった。
このように早く、本当にこの時が来ようとは、想いもしなかった。
いや、来なければいい、そのことだけを願って過ごした半年であった。
姫は、皇子に頬を寄せた。
闇夜であった。
夕にあげた桑を、五齢の蚕が食べる音が聞こえる。
「出立は、いつになりましょうか」
一番発したくない言葉を、力なく声に出してみて、姫はその声に自分が押しつぶされ、消えてしまいそうであった。
「明朝」
姫は、言葉無く頷いた。
涙がまた、頬を伝う。
姫には、皇子の行き先すら分からなかった。
それは秘事。時が経てば、あるいは分かるのかもしれない。
「いずれ、人は死にます。皆、等しく死にます。たった一人で。生まれいづる時は、母の中から、母の痛みの中から生まれますが」
皇子はそこまで言って、言葉に詰まった。
皇子の溢れた涙が、姫の涙と交じり合う。
「死ぬ時は、たった一人なのです。誰もがそうなのです」
姫が、また頷いた。
仏道のことは、姫には分からなかったが、皇子の言葉は、一つ一つが良く心に落ちた。
「では、どうして、人は生きるのか。それは、残すべきものがあるからなのでしょう。誰でも、一つは何かを残すことができるでしょう。こんな私でも」
皇子の言葉が終わり、その余韻の中で、また雨のような音が蘇った。
命の雨音であった。
蚕は一心に桑を食べ、繭を作る。
その繭は、真珠のように輝く生糸を生む。
それは繰り返されるのである。
「私は、姫のことは、決して忘れません。そして、姫の後に、誰もありません。しかし、姫はきっと、お子を残されてください。これは私からの最後の願いです」
姫は動かず、じっとその言葉を心の中で反芻した。
皇子が都を去ったあとも、時折、その言葉を噛み締めた。
そして、いつの日か、その言葉を有難かった、と思う時が来るのだった。
姫は後に、厩戸皇子(聖徳太子とされる人物)の一人の妃となり、御子を残すのである。
「皇子様は、このまま、こちらにお残りになられるのですか」
「さよう」
そうなることは分かっていても、尋ねずにはいられない、小手姫であった。
昨日発生した、穴穂部皇子と物部守屋の事件は、すでに、すべての皇族の知るところとなっていた。
その一報を受け、泊瀬部皇子の周辺は、秘かに慌ただしくなった。
早馬が方方に駆ける。
それらは、泊瀬部皇子の文を携えた。
「大伴殿(大伴糠手子)にすべて伝えたゆえ、従ってもらいたい」
病身と偽って宅に籠もっていた大伴糠手子は、即座に都を離れる決心をした。
敏達天皇が崩御し、蘇我系の皇統が当分続くことを考慮すれば、もはや自らの再浮上は望めないと判断した。
いや、それ以前に、命も危うい。
それは、泊瀬部皇子にしても同様であった。
しかし、自らが同道しないことは、既に決めたことであった。
あらゆる意味において、それはするべきではないと。
まず、泊瀬部皇子が一緒に都を離れれば、追手は厳しいものとなるだろう。
その危険を最小限度に留めなければならない。
残される者の、行く者の事を最優先に考えることが、自らの最後の責任だ、と泊瀬部皇子は考えるのであった。
「蜂岡にも、報せを走らせた」
蜂岡皇子へは、こちら側の動きを報せたのである。
「長年、都を空け、良く、留守を預かってくれました」
泊瀬部皇子は、深々と平身低頭された。
そのような御姿を目にするのは初めてである小手姫だった。
「そのような」
もはや、涙で、言葉にはならない。
錦代も同様であった。
「余は、いずれ行き先は長くない。もはや、次に託す時である。やり遺したことは、あるが、それも、これからの者たちがおる。案じてはいない。そして、都が全てではない。倭国は、まだまだ未開である。まさに、始まってもいない。とにかく錦代を頼む」
「父様」
そう言って、錦代が泣き崩れた。
「泣くではない。来世でまた会えよう」
泊瀬部皇子が言うのは、仏教の「輪廻転生」のことであった。
現代では、こういう概念を普通に使うが、この当時は、全く新しいのである。
神の御代における「死」は、「穢れ」である。
死体は「穢れ」そのもの。だから、「禊」を行う。
そうして、新しい「生命」を現出させるのである。
似ているようで、「輪廻転生」とは全く違うのだ。
それが、仏教ならではの「救い」であり、そのことに、泊瀬部皇子も、蜂岡皇子(蜂子皇子)の惹かれたのであった。
来世での縁。
それを信じて、泊瀬部皇子は、そう言ったのである。
そして、これが、泊瀬部皇子と小手姫、錦代が交わした、最後の言葉であった。
「申し上げます。大伴様がお見えになりました」
大伴糠手子が、配下の秦の者たちと倉梯宮に到着した。
出立の時である。
敏達天皇十四年(五八五年)、九月二十日の寅の刻(午前三時頃)のことであった。
この日、日が昇った後。
「何、大伴殿の姿が無い」
東漢磐井の配下の者が早馬でやってきて、広瀬宮の馬子にそう伝えた。
一瞬、馬子は、新たな企てを案じたが、すぐに思い直した。
「磐井には、探すな、と伝えよ。ただ、泊瀬部皇子様の所在を調べろ、と」
「ははあ」
泊瀬部皇子は、筆を置くと立ち上がり、一人、宮を出た。
裏山の方に歩いていく。
足取りはしっかりしていた。
そのまま、山道を上っていく。
よく知った、銀杏の大樹があった。
散策の折、見上げる木である。
その枝ぶりまでも、頭に入っている。
腰には、長い帯が巻き付けてある。
太枝に掛ける帯だ。
そして、自らの首に。
そして足場の細枝から、足を離す。
それまで。
皇子は、ゆっくりと歩みを進める。
もはや、急ぐことも無かった。
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