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十五 南山の霊場
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(みなみやまのれいじょう)
「これは」
蜂岡皇子は、思わず声を発した。
その日、黒山を少し登った、見晴らしの良い場所に、津(秦津)は皇子を案内した。
五月十八日(五八六年)。
皇子が黒山に来て、三日後である。
暦の上では、入梅であるが、この朝はよく晴れている。
眼下に見渡す海は、まるで見慣れた景色のようであったのだ。
大和の海(湖)。
「あれが、北山(現、鳥海山)でございます」
津は、前方を指差して言った。
均整の取れた山並みを、蜂岡皇子は見遣った。
「怒れる山であるな」
「さようでございます。我がこの地に来て、五年の時にも一度火煙を吹きました。はるか大昔には、火の塊を何度も噴き上げまして、それゆえ、あのような山の形に成ったということにございます。そしてまた、流れ出した火の塊は海に到達しました。それが、水をせき止め、この海(湖)を作ったのでございましょう」
鳥海山は、分かっているだけでも、これまでに十三回以上の大規模な噴火があったとされる。
紀元前四六六年の噴火で、山体崩壊し、それによって、秋田の象潟はできたとされる。
八郎潟や砂潟も同様であろう。
「そうであったか。大和の湖と見紛うたわ」
「まさに、仰せのとおり。しかし、似ておりますのは、姿形だけではございません。この海は、浅い潟に成っておりまして、大変に肥えております」
「稲か」
「さようです。地形が似ておりますので、この一帯は稲田に適しております。開墾が進めば、この規模からして、大和を凌ぐかと」
「きっと、そうであろう」
「ただ、大和の湖と違うのは、ここでは砂鉄が採れるということにございます」
この潟は、最上河が運ぶ有機物を含んだ砂が堆積して形成された。
それが、砂潟と呼ばれるようになった所以である。
また、砂潟の有機物を餌にする水生昆虫が多い。
そこに海鳥が集まってくる。
それゆえ、北山は後に、「鳥海山」と言われるようになったと云う説があるくらいだ。
山体崩壊の後も、砂潟の堆積は続き、それに加えて鳥海山の火山活動に伴う地震、地殻変動により、隆起し、現在の庄内平野になったのである。
奈良湖が、推古地震(五九九年)以降、隆起を繰り返し、水が地下に消えたように、地殻変動で、砂潟も後に陸地に成っていったわけである。
秦津ら、秦の産鉄族は、砂潟の砂鉄を採り、山々の清らかな湧水で製鉄を行った。
それだけではない。
この十三年の間、灌漑、農業技術を土着の民に伝授していったのである。
その中には、もちろん養蚕もあった。
津が後ろに向き直って続けた。
「そして、北山の対岸、この南山(現、月山)の麓の山地一帯には、鉄の鉱脈はあると我ら見ています。なぜなら、南の谷の沢には、餅鉄がごろごろ転がっています。ゆえに我らは、この山を鉄の山という意味で黒山と名付けたのでございます」
津は、今度は右斜め前方を指差した。
「あの緑の畑。何だと思われますか」
「何であろう。蔓菁(蕪)のようでもあるが」
「呉藍(紅花)でございます」
「ほほう」
「蚕が上手くいっております。その絹を呉藍で染めてみようと思うております。色がよく出たならば、都に運びます」
「そのようなことになっておったか。ここはもはや蕃国などではないのう」
皇子は、しきりに頷きながら、しみじみと言う。
律令前の日本において、東北地方以北は、一絡げに「蝦夷の国」と云われ、蛮人の住む異国とみなされていた。
しかし、もともと戦乱に追われ、大陸から渡来した民にとっては、未開であるが故に魅力的な土地であった。
特に、農業・灌漑技術に長けた秦の民のとっては。
さらに、当時、製鉄・鍛冶技術は特権的な技術とされた。
その技術を朝鮮半島から日本に運んできた民が、秦氏なのである。
加えて、機織りの語源にもなる秦氏は、養蚕に熟知していた。
「あと一月もすれば、花が咲きます」
この日は五月十八日であるので、翌月、閏五月十日頃の開花と言う。
「それは楽しみであるな。これが上手く運べば、堂平にも呉藍を届けられよう」
「はい、そうなることでしょう」
蜂岡皇子は、希望に満ちた顔を上げ、再び砂潟の方向を見渡した。
そこに広がっているのは、もはや蝦夷の国などではなかった。
もう一つの都であった。
「有難きことよ」
皇子は、つくづくと言った。
「ところで、蜂岡様。ちょうど、呉藍が咲く頃、南山にお連れいたします。その頃には山道もだいぶ歩み易くなりますゆえ」
「そうか。頼む」
「登りましょう。それから、その前に、明日、我らの霊場に案内いたします」
「ほう、そなたらの霊場のう」
後に、南山(月山)の頂きを含む、秦黒山(羽黒山)全体が、霊場となるのだが、当初は、限られた場所に秦氏が称する「霊場」がいくつかあった。
その一つに案内するというのであった。
はたして、その翌朝。
秦津率いる秦の修験者に導かれ、蜂岡皇子は、黒山の谷沢の奥地を目指した。
都から皇子に同行してきた、秦犬山、秦坂田、秦奥久丹、秦石田らは、村人と農事である。
蜂岡皇子も、白い綿布の修験者の出で立ちであった。
「ホウオウー、ホウオウー、ホウオウー」
津が、ほら貝を三度鳴らして、いよいよ出立である。
その後、谷に降りてから凡そ半刻(約一時間)一行は沢を登っていった。
「あの滝のところにございます」
津が、皇子に指し示した。
滝の高さは、四間(約八メートル)ほど。
そこが目的地ということである。
滝と言っても、水量は微々たるものである。
滝壺の右手は岩肌がむき出しであった。
その岩の奥に、その洞穴があった。
「ここにございります」
間口は一間ほどの円形。
両側には、移植されたであろう賢木が一本ずつ植えられ、門の様相。
その賢木に、楮紙と麻布のシデが結いつけられている。
それは、そこより先が神域であることの証であった。
柏手を打ち、中に入ると、灯りが見える。
人が居た。
その者も秦の民。
名を、小丹という。
この者は、この神域で、火を守っていた。
津が、蜂岡皇子を紹介すると、小丹は座ったまま、上体を伏した。
皇子は、洞穴内を見渡す。
まっすぐの奥行きは、五間ほど。
その奥に、木炭が積まれていた。
「皇子、左の奥でございます」
津が入って行き、皇子が後に続いた。
「これは」
鍛冶場であった。
岩の地面に掘られた細い溝が洞穴の入り口から続いており、それによって、沢の清水が洞穴内部に引き入れられていた。
岩盤の床は、穿ち削られ、穴や幾筋もの太さの違う溝が掘られていた。
「小丹や、砂鉄を持ってきた。蜂岡様に、鍛冶をご覧いただこう」
小丹が立ち上がり、準備を始める。
炭火は絶やされない。常に熾きている。
小丹は、里に木炭を取り行く時、また河原で餅鉄を拾う時以外は、洞穴から出ない。
まず、その囲炉裏に、木炭が何本か足された。
小丹が火吹竹を吹き、その新しい炭に火を移す。
囲炉裏の横には、長辺が三尺ほどの長方体をした木製のフイゴがあり、その横に特殊な焼き物(今のレンガのようなもの)で組まれた直径一尺ほどの小さな釜があった。溶鉱炉である。
溶鉱炉の左右には鉄の棒が付いている。
フイゴから出た竹筒は、その溶鉱炉に風を送る。
「助を頼もう」
小丹が声を掛けると、男たちは持ち場に付き、各々の決められた役目を担った。
「皇子は、そちら、少し離れて御覧ください」
男たちは手に獣皮の分厚い大手袋をした。
小丹が鉄鋏で、赤熱した炭を溶鉱炉の下に順次くべ、適宜、足される。
フイゴは、向かい合った二人の男が互い交互に、引き棒を押し引きして風を起こし、溶鉱炉に送る。
この風起こしは、二人ずつ交代で行う。
津が、溶鉱炉に砂鉄を入れる。
四半刻ほどで、溶鉱炉内の砂鉄が溶け、赤色に発光し始めた。
さらに四半刻。
「はい」
小丹が声を発すると、風起こし待機組が、溶鉱炉の左右の棒を持って、左奥の岩盤部屋に運んで、展開した。
溶けた鉄は、穴と溝に流れて、急激に冷やされる。
「これが、固まったものが銑となります」
津が、以前に作っておいた銑鉄の欠片を皇子に持っていって見せた。
「これを、その鍛冶場で鍛えます」
岩盤の奥が、鍛冶場となっている。
小丹が鉄鋏で銑鉄を掴み、それに溶鉱炉で火を入れる。
風起こしをしていた男たちが鉄の大鎚を手に待ち、鍛冶場に入る。
火を入れ、鍛える。
また、火を入れ、鍛える、の繰り返しである。
「キンキン、キンキン」
洞穴の中に金属音が響く。
洞窟の内部がそれほど暑くならないのは、洞窟が地下に繋がっていて、そこから僅かな風が送られて来ているからだと、津は皇子に説明した。
それから半刻。
鉄は出来上がった。
長方形の少し湾曲した平たい形だった。
「これは鍬の刃でございます。小丹は、刀も鍛えることができます。いまは、主に農具しか造りません。この霊場ができた初めは、我ら使う刀や槍先などを造ってみました。いまも時には、桑などを刈る屶。木を伐る大鉈を造ることもあります」
津は続ける。
「鉄の鍬があったから、大和の都には稲田が出来、灌漑水路が出来たのでございます。砂潟にて灌漑を行うには、相当の人手と時を要します。我らは、まず、黒山の麓に稲田を開墾する計画でございます。稲田は傾斜がある地から始めるのが基本です。上から下へ。そうすれば、水は上の稲田から、下の稲田へ流れますゆえ。大和にても、そうして稲田が始まりました。この地にても同じことです。そのための鉄でございます。我らがこの地に来たのは、そのためにございます」
月山山頂のすぐ下に、鍛冶小屋跡という場所が遺っている。
これも、かつては秦の民の霊場の一つであったのだろう。
そして、この小丹の流れを汲む者らが、月山の刀工となり、後に名刀「月山」を産んだのかも知れない。
それはさておき、この黒山の沢奥の洞穴が、第一の霊場であった。
秦黒山、羽黒山信仰は、まさにここから始まったのである。
「これは」
蜂岡皇子は、思わず声を発した。
その日、黒山を少し登った、見晴らしの良い場所に、津(秦津)は皇子を案内した。
五月十八日(五八六年)。
皇子が黒山に来て、三日後である。
暦の上では、入梅であるが、この朝はよく晴れている。
眼下に見渡す海は、まるで見慣れた景色のようであったのだ。
大和の海(湖)。
「あれが、北山(現、鳥海山)でございます」
津は、前方を指差して言った。
均整の取れた山並みを、蜂岡皇子は見遣った。
「怒れる山であるな」
「さようでございます。我がこの地に来て、五年の時にも一度火煙を吹きました。はるか大昔には、火の塊を何度も噴き上げまして、それゆえ、あのような山の形に成ったということにございます。そしてまた、流れ出した火の塊は海に到達しました。それが、水をせき止め、この海(湖)を作ったのでございましょう」
鳥海山は、分かっているだけでも、これまでに十三回以上の大規模な噴火があったとされる。
紀元前四六六年の噴火で、山体崩壊し、それによって、秋田の象潟はできたとされる。
八郎潟や砂潟も同様であろう。
「そうであったか。大和の湖と見紛うたわ」
「まさに、仰せのとおり。しかし、似ておりますのは、姿形だけではございません。この海は、浅い潟に成っておりまして、大変に肥えております」
「稲か」
「さようです。地形が似ておりますので、この一帯は稲田に適しております。開墾が進めば、この規模からして、大和を凌ぐかと」
「きっと、そうであろう」
「ただ、大和の湖と違うのは、ここでは砂鉄が採れるということにございます」
この潟は、最上河が運ぶ有機物を含んだ砂が堆積して形成された。
それが、砂潟と呼ばれるようになった所以である。
また、砂潟の有機物を餌にする水生昆虫が多い。
そこに海鳥が集まってくる。
それゆえ、北山は後に、「鳥海山」と言われるようになったと云う説があるくらいだ。
山体崩壊の後も、砂潟の堆積は続き、それに加えて鳥海山の火山活動に伴う地震、地殻変動により、隆起し、現在の庄内平野になったのである。
奈良湖が、推古地震(五九九年)以降、隆起を繰り返し、水が地下に消えたように、地殻変動で、砂潟も後に陸地に成っていったわけである。
秦津ら、秦の産鉄族は、砂潟の砂鉄を採り、山々の清らかな湧水で製鉄を行った。
それだけではない。
この十三年の間、灌漑、農業技術を土着の民に伝授していったのである。
その中には、もちろん養蚕もあった。
津が後ろに向き直って続けた。
「そして、北山の対岸、この南山(現、月山)の麓の山地一帯には、鉄の鉱脈はあると我ら見ています。なぜなら、南の谷の沢には、餅鉄がごろごろ転がっています。ゆえに我らは、この山を鉄の山という意味で黒山と名付けたのでございます」
津は、今度は右斜め前方を指差した。
「あの緑の畑。何だと思われますか」
「何であろう。蔓菁(蕪)のようでもあるが」
「呉藍(紅花)でございます」
「ほほう」
「蚕が上手くいっております。その絹を呉藍で染めてみようと思うております。色がよく出たならば、都に運びます」
「そのようなことになっておったか。ここはもはや蕃国などではないのう」
皇子は、しきりに頷きながら、しみじみと言う。
律令前の日本において、東北地方以北は、一絡げに「蝦夷の国」と云われ、蛮人の住む異国とみなされていた。
しかし、もともと戦乱に追われ、大陸から渡来した民にとっては、未開であるが故に魅力的な土地であった。
特に、農業・灌漑技術に長けた秦の民のとっては。
さらに、当時、製鉄・鍛冶技術は特権的な技術とされた。
その技術を朝鮮半島から日本に運んできた民が、秦氏なのである。
加えて、機織りの語源にもなる秦氏は、養蚕に熟知していた。
「あと一月もすれば、花が咲きます」
この日は五月十八日であるので、翌月、閏五月十日頃の開花と言う。
「それは楽しみであるな。これが上手く運べば、堂平にも呉藍を届けられよう」
「はい、そうなることでしょう」
蜂岡皇子は、希望に満ちた顔を上げ、再び砂潟の方向を見渡した。
そこに広がっているのは、もはや蝦夷の国などではなかった。
もう一つの都であった。
「有難きことよ」
皇子は、つくづくと言った。
「ところで、蜂岡様。ちょうど、呉藍が咲く頃、南山にお連れいたします。その頃には山道もだいぶ歩み易くなりますゆえ」
「そうか。頼む」
「登りましょう。それから、その前に、明日、我らの霊場に案内いたします」
「ほう、そなたらの霊場のう」
後に、南山(月山)の頂きを含む、秦黒山(羽黒山)全体が、霊場となるのだが、当初は、限られた場所に秦氏が称する「霊場」がいくつかあった。
その一つに案内するというのであった。
はたして、その翌朝。
秦津率いる秦の修験者に導かれ、蜂岡皇子は、黒山の谷沢の奥地を目指した。
都から皇子に同行してきた、秦犬山、秦坂田、秦奥久丹、秦石田らは、村人と農事である。
蜂岡皇子も、白い綿布の修験者の出で立ちであった。
「ホウオウー、ホウオウー、ホウオウー」
津が、ほら貝を三度鳴らして、いよいよ出立である。
その後、谷に降りてから凡そ半刻(約一時間)一行は沢を登っていった。
「あの滝のところにございます」
津が、皇子に指し示した。
滝の高さは、四間(約八メートル)ほど。
そこが目的地ということである。
滝と言っても、水量は微々たるものである。
滝壺の右手は岩肌がむき出しであった。
その岩の奥に、その洞穴があった。
「ここにございります」
間口は一間ほどの円形。
両側には、移植されたであろう賢木が一本ずつ植えられ、門の様相。
その賢木に、楮紙と麻布のシデが結いつけられている。
それは、そこより先が神域であることの証であった。
柏手を打ち、中に入ると、灯りが見える。
人が居た。
その者も秦の民。
名を、小丹という。
この者は、この神域で、火を守っていた。
津が、蜂岡皇子を紹介すると、小丹は座ったまま、上体を伏した。
皇子は、洞穴内を見渡す。
まっすぐの奥行きは、五間ほど。
その奥に、木炭が積まれていた。
「皇子、左の奥でございます」
津が入って行き、皇子が後に続いた。
「これは」
鍛冶場であった。
岩の地面に掘られた細い溝が洞穴の入り口から続いており、それによって、沢の清水が洞穴内部に引き入れられていた。
岩盤の床は、穿ち削られ、穴や幾筋もの太さの違う溝が掘られていた。
「小丹や、砂鉄を持ってきた。蜂岡様に、鍛冶をご覧いただこう」
小丹が立ち上がり、準備を始める。
炭火は絶やされない。常に熾きている。
小丹は、里に木炭を取り行く時、また河原で餅鉄を拾う時以外は、洞穴から出ない。
まず、その囲炉裏に、木炭が何本か足された。
小丹が火吹竹を吹き、その新しい炭に火を移す。
囲炉裏の横には、長辺が三尺ほどの長方体をした木製のフイゴがあり、その横に特殊な焼き物(今のレンガのようなもの)で組まれた直径一尺ほどの小さな釜があった。溶鉱炉である。
溶鉱炉の左右には鉄の棒が付いている。
フイゴから出た竹筒は、その溶鉱炉に風を送る。
「助を頼もう」
小丹が声を掛けると、男たちは持ち場に付き、各々の決められた役目を担った。
「皇子は、そちら、少し離れて御覧ください」
男たちは手に獣皮の分厚い大手袋をした。
小丹が鉄鋏で、赤熱した炭を溶鉱炉の下に順次くべ、適宜、足される。
フイゴは、向かい合った二人の男が互い交互に、引き棒を押し引きして風を起こし、溶鉱炉に送る。
この風起こしは、二人ずつ交代で行う。
津が、溶鉱炉に砂鉄を入れる。
四半刻ほどで、溶鉱炉内の砂鉄が溶け、赤色に発光し始めた。
さらに四半刻。
「はい」
小丹が声を発すると、風起こし待機組が、溶鉱炉の左右の棒を持って、左奥の岩盤部屋に運んで、展開した。
溶けた鉄は、穴と溝に流れて、急激に冷やされる。
「これが、固まったものが銑となります」
津が、以前に作っておいた銑鉄の欠片を皇子に持っていって見せた。
「これを、その鍛冶場で鍛えます」
岩盤の奥が、鍛冶場となっている。
小丹が鉄鋏で銑鉄を掴み、それに溶鉱炉で火を入れる。
風起こしをしていた男たちが鉄の大鎚を手に待ち、鍛冶場に入る。
火を入れ、鍛える。
また、火を入れ、鍛える、の繰り返しである。
「キンキン、キンキン」
洞穴の中に金属音が響く。
洞窟の内部がそれほど暑くならないのは、洞窟が地下に繋がっていて、そこから僅かな風が送られて来ているからだと、津は皇子に説明した。
それから半刻。
鉄は出来上がった。
長方形の少し湾曲した平たい形だった。
「これは鍬の刃でございます。小丹は、刀も鍛えることができます。いまは、主に農具しか造りません。この霊場ができた初めは、我ら使う刀や槍先などを造ってみました。いまも時には、桑などを刈る屶。木を伐る大鉈を造ることもあります」
津は続ける。
「鉄の鍬があったから、大和の都には稲田が出来、灌漑水路が出来たのでございます。砂潟にて灌漑を行うには、相当の人手と時を要します。我らは、まず、黒山の麓に稲田を開墾する計画でございます。稲田は傾斜がある地から始めるのが基本です。上から下へ。そうすれば、水は上の稲田から、下の稲田へ流れますゆえ。大和にても、そうして稲田が始まりました。この地にても同じことです。そのための鉄でございます。我らがこの地に来たのは、そのためにございます」
月山山頂のすぐ下に、鍛冶小屋跡という場所が遺っている。
これも、かつては秦の民の霊場の一つであったのだろう。
そして、この小丹の流れを汲む者らが、月山の刀工となり、後に名刀「月山」を産んだのかも知れない。
それはさておき、この黒山の沢奥の洞穴が、第一の霊場であった。
秦黒山、羽黒山信仰は、まさにここから始まったのである。
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