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二〇 法隆寺(斑鳩寺)
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(ほうりゅうじ=いかるがのてら)
推古天皇は、失意の底から這い上がれずに居られた。
竹田皇子亡き後、朕がここに存する意味などあるのだろうか、と。
もはや、馬子の存在は疎ましかった。
そもそも、推古が馬子と結んだのも、その行く末に、竹田皇子の即位があったからである。
それは、無残にも砕け散った。
片や馬子。
強力な後ろ盾が心もとなくなり、政敵の前ににわかに弱さを露呈するようになる。
合議の席上では、豪族らに、巨大地震は大臣が蛮神(仏教)崇拝を強引に推し進めたためではないか、と咎める者も多かった。
面目躍如の策はないか。
そして馬子は、用明天皇の第三皇子、来目皇子を担ぎ出すのである。
またしても、密約。
新羅征討軍の将軍と成ることと、皇統の道を開くことの全面協力。
この二つを交換条件とした。
そして六〇二年、二月。
撃新羅将軍、来目皇子は、二万五千の軍を率いて、駐留先の筑紫に向かった。
しかし、来目皇子の軍が、新羅に渡ることは無かった。
なぜなら、来目皇子は、筑紫駐留後四月後の六月に急逝されるからである。
これは史実だろうか。
出来すぎている。
いずれ、ともかくも、馬子の策謀は失敗に終わる。
もっとも、そのようなことは、押坂彦人大兄皇子と厩戸皇子の計画には影響を与えなかった。
ただ、来目皇子の無益な死に、心を痛めたのであった。
斑鳩宮の建造、すなわち新都の創設は確実に進んでいった。
器だけではない。
制度改革の準備も着々と進んでいったのである。
押坂と厩戸によって。
いわゆる、律令制度、冠位十二階である。
冠位十二階は、軍事力、財政力でのさばってきた豪族、とりわけ最大の中央豪族である蘇我馬子には、脅威であった。
もっとも、蘇我馬子を葬り去るための冠位十二階を押坂と厩戸は創りたかったということもあろう。
そして、厩戸皇子を中心に、真の仏教興隆も進んでいった。
「我は、嬉しく思います」
河勝の目には、久しく流していなかった涙が光っている。
泊瀬部皇子の崩逝以来の。
しかし、この涙は、嬉し涙である。
「河勝殿には、心より感謝申し上げます。これは、余の悲願であります。そして、蜂岡様の。それに、泊瀬部様の御霊もお慶びのことにございましょう」
厩戸も河勝に感謝頻りである。
ついに、本格的な寺院として、蜂岡寺の再興が成った。
京都最古の寺院とされている、広隆寺のことである。
厩戸は言わなかったが、これは、父、穴穂部皇子の悲願でもあったわけである。
「有難きことであります」
厩戸皇子は、しみじみと言う。
思い返せば、この創建と引き換えに、多くの犠牲が払われてきたような気もするのであった。
落成式では、厩戸皇子自らが、弥勒上生経を転読した。
亡き泊瀬部皇子、穴穂部皇子を弔う、渾身の読経であった。
創建当初の広隆寺の御本尊は、弥勒菩薩であったとされる。
すなわち、蜂岡寺は、蜂岡皇子と厩戸皇子を弥勒経で繋いでいるのである。
この蜂岡寺に対抗するかのように、ほぼ同時期に、推古天皇が豊浦寺(奈良県高市郡明日香村にあった寺)、蘇我馬子が飛鳥寺(明日香村にある寺院)を建立した。
日本における寺院建立は、古墳の衰退に合せて盛んになっていく。
それは、推古天皇や蘇我馬子のような権力者が、古墳の代わりに、自らの権威を示すために寺を建てたからである。
それは純粋な信仰心とは、かけ離れていたと言わざるを得ない。
つまり、華々しき飛鳥文化は、神の文化であった古墳文化に取って代わった、仏教文化という理解である。
ともあれ、こうして、倭国、日本は漸く「国らしく」なっていくのである。
そして、六〇五年。
ついに、押坂彦人大兄皇子と、厩戸皇子は斑鳩宮に入ったのであった。
正確には、この年、「緩やかなる政変」は、一旦の成功を見たのである。
しかし、それは続かなかった。
飛鳥最大の悲劇が起こるからである。
「厩戸様、厩戸様」
河勝であった。
実は、この声を耳にした時、厩戸の心には来るものが来てしまった感、が去来した。
思えば、前触れのような出来事もあった。
それは、今朝、読経している最中に、経典が台から滑り落ちたことであった。
不吉だった。
そのため、厩戸は、慌てる河勝の声には呼応せずに、ことのほか冷静に彼を居室に迎え入れた。
まるで、来たるべきことを打ち消すように。
果たして、着座した河勝は、顔を上げるなり、厩戸を見据えて、声を絞り出すように言った。
「押坂様が、お亡くなりになりました」
沈黙。
それがどれくらい続いただろうか。
時が止まったようであった。
いや、実際に止まってしまったのである。
何もかもが。
河勝がすすり泣く声すらも、もはや厩戸皇子の耳には聞こえなかった。
やがて、厩戸は河勝の肩に、いたわるように一つ手を置くと、立ち上がって、居室を出ていった。
厩戸が向かった先は、蜂岡寺であった。
皇子は、何時間にも渡って、御本尊である弥勒菩薩木像に相対し、瞑想、読経を繰り返した、と云う。
この後、厩戸は、仏教の師、慧慈によって得度の儀式を経て、仏門に入った。
すなわち、法名、聖徳を号した。
河勝は、押坂彦人大兄皇子の死因を「落馬」としたが、それはいずれ捏造された報であった。
馬子の手の者に、暗殺されたのである。
首の骨を折られての即死である。
屈強な渡来人か誰かの仕業であろう。
厩戸は、それを見抜いた。
その上で、悟ったのである。
これ以上、自らが政に関わっても、無益な死が繰り返されるだけであると。
故に、厩戸皇子は、政界を退いた。
すなわち政変は完遂しなかったのである。
この頃であろう。
厩戸が、「にきたつ」(道後温泉)を訪れたのは。
河勝のはからいで、療養に訪れたのであった。
この後、厩戸皇子は実際、政に関わることはなかった。
聖徳として送られた、厩戸の余生は、ひたすら供養の日々であった。
そして、晩年、聖徳は決心する。
法隆寺(斑鳩寺)の建立である。
厩戸皇子の伝記「上宮聖徳法王帝説」では、推古十五年(六〇七年)の造営と云う。
厩戸、三十四歳である。
さらに、この年、河勝は厩戸皇子と議を重ねた上で、古墳の造営を決めた。
現、藤ノ木古墳のことである。
もはや古墳は時代遅れであったが、神仏を超越して、何物にも縛られない聖徳としては、倭の古の習わしに敬意を表したのである。
六〇九年、古墳は完成した。
準備が整ったのである。
そして遂に、厩戸皇子、いや聖徳と秦河勝、泊瀬王(齢十一、厩戸の第二皇子)の一行は、都を発った。
向かう先は、女神山。
奇しくも、この年は、小手姫の二十三回忌の年であった。
一行は、ちょうど五月十五日(月命日)に、堂平に到着した。
あの時と同じように、都追慈(山躑躅)が朱赤色の花を咲かせていた。
推古天皇は、失意の底から這い上がれずに居られた。
竹田皇子亡き後、朕がここに存する意味などあるのだろうか、と。
もはや、馬子の存在は疎ましかった。
そもそも、推古が馬子と結んだのも、その行く末に、竹田皇子の即位があったからである。
それは、無残にも砕け散った。
片や馬子。
強力な後ろ盾が心もとなくなり、政敵の前ににわかに弱さを露呈するようになる。
合議の席上では、豪族らに、巨大地震は大臣が蛮神(仏教)崇拝を強引に推し進めたためではないか、と咎める者も多かった。
面目躍如の策はないか。
そして馬子は、用明天皇の第三皇子、来目皇子を担ぎ出すのである。
またしても、密約。
新羅征討軍の将軍と成ることと、皇統の道を開くことの全面協力。
この二つを交換条件とした。
そして六〇二年、二月。
撃新羅将軍、来目皇子は、二万五千の軍を率いて、駐留先の筑紫に向かった。
しかし、来目皇子の軍が、新羅に渡ることは無かった。
なぜなら、来目皇子は、筑紫駐留後四月後の六月に急逝されるからである。
これは史実だろうか。
出来すぎている。
いずれ、ともかくも、馬子の策謀は失敗に終わる。
もっとも、そのようなことは、押坂彦人大兄皇子と厩戸皇子の計画には影響を与えなかった。
ただ、来目皇子の無益な死に、心を痛めたのであった。
斑鳩宮の建造、すなわち新都の創設は確実に進んでいった。
器だけではない。
制度改革の準備も着々と進んでいったのである。
押坂と厩戸によって。
いわゆる、律令制度、冠位十二階である。
冠位十二階は、軍事力、財政力でのさばってきた豪族、とりわけ最大の中央豪族である蘇我馬子には、脅威であった。
もっとも、蘇我馬子を葬り去るための冠位十二階を押坂と厩戸は創りたかったということもあろう。
そして、厩戸皇子を中心に、真の仏教興隆も進んでいった。
「我は、嬉しく思います」
河勝の目には、久しく流していなかった涙が光っている。
泊瀬部皇子の崩逝以来の。
しかし、この涙は、嬉し涙である。
「河勝殿には、心より感謝申し上げます。これは、余の悲願であります。そして、蜂岡様の。それに、泊瀬部様の御霊もお慶びのことにございましょう」
厩戸も河勝に感謝頻りである。
ついに、本格的な寺院として、蜂岡寺の再興が成った。
京都最古の寺院とされている、広隆寺のことである。
厩戸は言わなかったが、これは、父、穴穂部皇子の悲願でもあったわけである。
「有難きことであります」
厩戸皇子は、しみじみと言う。
思い返せば、この創建と引き換えに、多くの犠牲が払われてきたような気もするのであった。
落成式では、厩戸皇子自らが、弥勒上生経を転読した。
亡き泊瀬部皇子、穴穂部皇子を弔う、渾身の読経であった。
創建当初の広隆寺の御本尊は、弥勒菩薩であったとされる。
すなわち、蜂岡寺は、蜂岡皇子と厩戸皇子を弥勒経で繋いでいるのである。
この蜂岡寺に対抗するかのように、ほぼ同時期に、推古天皇が豊浦寺(奈良県高市郡明日香村にあった寺)、蘇我馬子が飛鳥寺(明日香村にある寺院)を建立した。
日本における寺院建立は、古墳の衰退に合せて盛んになっていく。
それは、推古天皇や蘇我馬子のような権力者が、古墳の代わりに、自らの権威を示すために寺を建てたからである。
それは純粋な信仰心とは、かけ離れていたと言わざるを得ない。
つまり、華々しき飛鳥文化は、神の文化であった古墳文化に取って代わった、仏教文化という理解である。
ともあれ、こうして、倭国、日本は漸く「国らしく」なっていくのである。
そして、六〇五年。
ついに、押坂彦人大兄皇子と、厩戸皇子は斑鳩宮に入ったのであった。
正確には、この年、「緩やかなる政変」は、一旦の成功を見たのである。
しかし、それは続かなかった。
飛鳥最大の悲劇が起こるからである。
「厩戸様、厩戸様」
河勝であった。
実は、この声を耳にした時、厩戸の心には来るものが来てしまった感、が去来した。
思えば、前触れのような出来事もあった。
それは、今朝、読経している最中に、経典が台から滑り落ちたことであった。
不吉だった。
そのため、厩戸は、慌てる河勝の声には呼応せずに、ことのほか冷静に彼を居室に迎え入れた。
まるで、来たるべきことを打ち消すように。
果たして、着座した河勝は、顔を上げるなり、厩戸を見据えて、声を絞り出すように言った。
「押坂様が、お亡くなりになりました」
沈黙。
それがどれくらい続いただろうか。
時が止まったようであった。
いや、実際に止まってしまったのである。
何もかもが。
河勝がすすり泣く声すらも、もはや厩戸皇子の耳には聞こえなかった。
やがて、厩戸は河勝の肩に、いたわるように一つ手を置くと、立ち上がって、居室を出ていった。
厩戸が向かった先は、蜂岡寺であった。
皇子は、何時間にも渡って、御本尊である弥勒菩薩木像に相対し、瞑想、読経を繰り返した、と云う。
この後、厩戸は、仏教の師、慧慈によって得度の儀式を経て、仏門に入った。
すなわち、法名、聖徳を号した。
河勝は、押坂彦人大兄皇子の死因を「落馬」としたが、それはいずれ捏造された報であった。
馬子の手の者に、暗殺されたのである。
首の骨を折られての即死である。
屈強な渡来人か誰かの仕業であろう。
厩戸は、それを見抜いた。
その上で、悟ったのである。
これ以上、自らが政に関わっても、無益な死が繰り返されるだけであると。
故に、厩戸皇子は、政界を退いた。
すなわち政変は完遂しなかったのである。
この頃であろう。
厩戸が、「にきたつ」(道後温泉)を訪れたのは。
河勝のはからいで、療養に訪れたのであった。
この後、厩戸皇子は実際、政に関わることはなかった。
聖徳として送られた、厩戸の余生は、ひたすら供養の日々であった。
そして、晩年、聖徳は決心する。
法隆寺(斑鳩寺)の建立である。
厩戸皇子の伝記「上宮聖徳法王帝説」では、推古十五年(六〇七年)の造営と云う。
厩戸、三十四歳である。
さらに、この年、河勝は厩戸皇子と議を重ねた上で、古墳の造営を決めた。
現、藤ノ木古墳のことである。
もはや古墳は時代遅れであったが、神仏を超越して、何物にも縛られない聖徳としては、倭の古の習わしに敬意を表したのである。
六〇九年、古墳は完成した。
準備が整ったのである。
そして遂に、厩戸皇子、いや聖徳と秦河勝、泊瀬王(齢十一、厩戸の第二皇子)の一行は、都を発った。
向かう先は、女神山。
奇しくも、この年は、小手姫の二十三回忌の年であった。
一行は、ちょうど五月十五日(月命日)に、堂平に到着した。
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