川底の鍵

鈴木 了馬

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 その日は、何故か夕ご飯が遅かった。
 なかなか、呼びたしの声がかからないなあ、と明義が思っていると、伊藤が明義の部屋に入ってきた。
「なんか、夫婦喧嘩みだいだぜ」
「うそ」
 伊藤に促され、廊下に出て階下の音に耳を澄ませると、確かに、先生と留美子が口論するのが聞こえた。しかし、内容までは分からなかった。
 それから15分ほどして、誰かが玄関を出ていく音が聞こえた。
 伊藤が必要のない解説をし始めた。
 明義は、仕方なく読みかけの本を読むことにした。
 その間、伊藤は自分の部屋に帰らずに、廊下に出たり入ったりしていた。
 さらに三十分ほどして、今度は出前の人が来た。ほどなくして、先生の声がした。
「正人くん、明義くん、ご飯」
 ダイニングには、先生しかいなかった。
「どうする、そっちで食べるか」
「はい、運びます」
 今日の夕食は、新田名物、モツ煮ラーメンのようだったが、二つしかなく、先生は、お酒の燗をつけていた。
「どうぞ」「悪いねえ、遅くなって」
「いただきます」
 伊藤の後に明義も続き、ラーメンを食べ始めた。
 留美子と、子供たちは出かけたらしかった。
 そのことについては触れないほうがいいだろう、と明義が思っている矢先に、伊藤が口を開いた。
「留美子さんと子供たちは、どっか出かけたんですか」
「う、うん、実家さ」
「そうなんですか」
 テレビは、クイズ番組が放送されていて、先生は画面を眺めながらお猪口を口に運んでいた。
 先生は普段を装っていたが、明らかに重たい空気が流れていた。
 しばらくして、不意に先生が言った。
「あ、あの、留美子に変なこと、あんまり吹き込まないでくれるか」
 伊藤も、明義も最初、何のことか、と思った。
 だから、しばらく二人で、思い当たる節を探した。
「あの、除霊とかなんとか」
 その言葉の中には、嫉妬のような感情が含まれていることを明義は何故か感じた。
「あ、はい、すみません」
 伊藤が答えて、明義のほうをチラチラ見た。

 留美子と、子供たちは翌日には戻ってきた。
 だから、伊藤も明義も、話は一段落ついたと思っていた。
 しかし、状況はそう単純ではなかった。
 その夫婦喧嘩以来、先生の朝の儀式に対する留美子の態度がより一層素っ気ないものに変わったことを、伊藤も明義も見逃さなかった。
 明らかに留美子は拒絶していた。
 変わったことは、それだけではなかった。
 留美子の物事に関する好奇心は、それまで以上に激しくなったのだ。
 例えば、夕食前、明義が部屋で音楽を聴いたり、本を読んでいるところに、時々彼女がやって来て、その音楽は誰の、とか、その本は何の本とか、聞くのだった。
 もう一つ変わったことがあった。
 留美子が、ある宗教の新聞の配達のアルバイトをするようになったのだ。もちろん、留美子自身もその読者になった。

 明義は、七月の最終週末は、実家に帰らなかった。
 なんとなく、鈴木良子に会いたくなかったからだった。
 日曜日の朝、明義は、昼食は要らないと言って、街に出かけた。
 本も調達しないといけないし、レコードも買いたいものがあったからだ。
 明義は、まず、新田城跡の大手門にほど近い、街一番の老舗本屋へ行き、文庫本を二冊購入した。
 一冊は藤沢周平、一冊は石川達三だった。
 次にレコード店を二店舗周って、迷った挙句、エルビス・コステロのアルバムを一枚購入した。
 その後明義は、駅前の古い喫茶店に行き、本を読みながら、オムライスを食べ、アイスコーヒーを飲んだ。
 遅い昼食の後は、洋服を見たり、適当に寄り道をした。
 時間が過ぎるのは意外と早く、下宿に帰ったのは、夕方五時過ぎだった。
 明義は、自室に入り、早速、買ったばかりのレコードを聴きながら、本を読んだ。
 そして、何時の間にか寝てしまった。
 物音に明義が目覚めると、近くで留美子が文庫本の表紙を見ていた。
「へえ、明義くん、こんなの読むのかあ」
「あ、ええ、好きですよ」
「いろいろ読むのねえ」
 留美子は、机の本立てを見ながら言った。
「え、まあ、いろいろと」
「あ、明義くん」「今日誰も居ないんだけど、何食べようか」
「え、なんでもいいですが」
「じゃあ、暑いし、素麺にでもするか」
 明義が、居間に座って待っていると、素麺と氷を盛ったガラスの皿と、つけ汁を留美子が運んできた。
「はい」「あ、なんか飲みたいね」「私はビール飲んじゃうけど、明義くんも一杯だけどう」
 明義は、遠慮したが、留美子は強引にグラスを用意すると、明義の分も注いでしまった。
「はい、乾杯」「あはは、何に乾杯か分からないね」
 明義は、また夫婦喧嘩をしたのだろうかと訝った。
「先生と、子供たちは」
「あ、今日は先生の実家に」
「そうなんですかあ」
「そ、明義くんと二人っきり」「きゃあ、どうしよう」
 明義は、笑えなかった。俯いて聞こえないふりをし、素麺を啜っていた。
「あらあ、照れてるのお」「可愛い」
 留美子は、もういらない、と言って席を立つと、冷蔵庫から飲みかけの赤ワインを持って戻ってきた。
「明義くんは」「あ、飲まないよね」「子供だもんね」
「はい、飲みません」
 留美子は、一杯目のワインを、ほんの一分足らずで空けた。
 様子が変だった。いつもの留美子ではないと明義は思った。
 それは夫婦喧嘩のせいではないような。
 明義がそんなことを考えながら、平静を装って素麺を啜っている間に、留美子は二杯目も空けてしまい、顔が真っ赤になっていた。
「明義くんはいいよねえ、自由で」「私なんか」
 留美子はそういうと、三杯目を注いで、ガブガブ音を立てながら飲み始めた。
 早くも酔っぱらったみたいだった。
「もう、飲まないほうがいいですよ、留美子さん」
「あら、明義くん、優しい」「彼女にも優しいのお」
 留美子は完全に絡み口調になっていた。
 彼女は三杯目を開けると、グラスを音を立ててテーブルに置き、急に泣き出した。
「私なんかね・・・」
 明義は、呆気にとられるしかなかった。
 留美子は、座卓に突っ伏して泣いていたが、しばらくして急に座敷に寝転んだ。
 その拍子に、紺色のスカートがはだけ、留美子の白い太腿が剥き出しになった。
 一瞬、釘付けになった視線をそらすと、隣の部屋に折りたたんで置いてある、水色のタオルケットが目に入った。
 留美子は、静かになった。
 眠ってしまったのか、寝たふりなのか、明義には判断がつかなかった。
 明義は、立ちあがって隣室に行き、タオルケットを取り上げた。
 タオルケットの奥に、居間からは見えなかった、折りたたんだ家族の下着があって、その中に、留美子の下着の様なものもあり、明義の目に一瞬入った。
 居間に戻ると、明義はそっとタオルケットを留美子の下半身を隠す様に掛け、居間を出た。
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