紅風の舞(べにかぜのまい)

滝川 魚影

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 京は秋、東山あたりにはそろそろ物見遊山の人出が増える神無月(延宝七年、一六七九年)は七日の夕暮れ、きちは洛中に入った。
 ほどなく十吉郎は、東寺に近い街道からは少し外れた水茶屋然とした店の暖簾を潜った。
 店先には奇麗な服の女が一人居て、十吉郎の到着に気付くや否や、よく心得たとばかりに、二人を裏の離れに案内した。
 女は二人にすすぎを持ってきて、使うように促した。
 離れは、四方に見事な日本庭園を配す、庵然とした佇まいだった。
 しかしその内部は、座敷が二間あり、手前に居間、奥に床の間を備えた客間とに分かれていた。
 どうやらその日は、その庵で草鞋を脱ぐらしかった。
「ほなぁ、きち」
 十吉郎は、主人にきちの到着を報告後、準備が整い次第きちを迎えに来ると言い残して、到着から四半時もせずに、そこを後にした。
 その後で、茶屋の女に聞いたことだが、きちは、その庵に二三日逗留するだろう、ということだった。
 きちは、見知らぬ場所でいきなり一人になったわけであるが、不思議と孤独を感じなかった。
 それよりも、自分がこれから行くことになるであろう料理屋とは果たしてどんなところなのだろうか、と未知へ期待と恐れが混ざった複雑な心境であった。
 戸を開け放ち、庭を眺めながら、きちは料理屋の主人のことを想像してみた。
 考えれば考えるほど、彼女は落ち着かなくなっていった。
 そんなきちのざわついた心とは裏腹に、庭には蜩の声が涼しげに響いていた。
「ごめんやす」
 きちが振り返ると、茶屋の女が部屋の入り口に座っていた。
 慌てて正座をすると、きちは頭を下げたが、何と言っていいか分からず、黙っていた。
 女は穏やかな態度を変えずに、何かを言ったが、きちにはほとんど理解できなかった。
「よろしぐ、お願いするっす」
 きちは、あて推量でそれだけを言った。
 相手のほほ笑みに、あながち間違った返しでなかったと、きちはほっとした。
 女が下がり、しばらくすると夕のお膳が運ばれてきた。
 お膳は漆塗りで、その上には同じく黒漆の飯椀、汁椀、平椀、そして中央に香の物の小皿が載っていた。
 お膳の横には、一人分としては大きすぎる飯櫃が置かれた。
 ここまでの旅路の中で、きちが最も驚いた瞬間だった。
 確かに、ひと月以上の船での長旅は、きちにとって全く初めての経験だったし、驚きの連続だった。
 果てしもない海の広さや、同船する人々の摩訶不思議な話、突然の時化や強風、数えればきりがなかった。
 きちは、お椀の蓋を一つずつ開けていった。
 干し鱈と大根の煮付け、豆腐の味噌汁は黒っぽい色をしていた。
 そして飯櫃には、到底一人では食べきれない量の真っ白なご飯が入っていた。
 きちは、しばらく、お膳の上のものを眺めていた。
 眺めているうちに、きちはなぜかとても寂しい気持ちになってきて、涙が出てきたのだった。
 妹せんの赤い頬や、母きよの柔らかい手や、父平五郎の頑なな後ろ姿が、肉感的なほどつぶさにきちの脳裏に浮かんできた。
「待ってろな、せん」
 きちはそう呟いたが、その後は言葉にならなかった。
 さまざまな希望的想念が浮かんでは消えた。
 もう、故郷には帰れないかもしれない、ときちは半ば宿命のように思い始めていた。
 同船した人々からの話を聞いているうちに、自然にそう思うようになったのだった。
 大阪の湊で久しぶりに陸に上がった時も、京街道からようやく京の都に入った時も、予想以上に冷静でいられたのは、自分の行く末に明るい望みを持つことを諦めていたからだろう。
 ゆっくり噛みしめて食べたつもりのお膳は、あっという間になくなっていた。
 豪勢なお膳は、きちの心を一気に故郷へと引き戻していったが、予期せずきちに拠り所のない不思議な力を与えた。
「負げねぞ、待ってろ」
 その時きちは、その二日後に、人生において最初の運命的な出会いがあることなど、知るはずもなかった。
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