紅風の舞(べにかぜのまい)

滝川 魚影

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 時代は少し戻って、延宝八年(一六八〇年)の桜の頃、道之の姿は、江戸吉原の揚屋、大和屋にあった。
 妻を娶り、いよいよ高田屋の若旦那として頭角を現し始めると同時に、この前年、俳号を得た。
 静風と号した。
 この日は俳諧の同志でもある、松田壮雪と一緒で、句会の帰りだった。
「静風さんもすっかり顔になってきましたね」
 壮雪は道之よりも八つ年上。職業俳人で、その世界の第一人者であった。
「とんでもございません、先生には遠く及びません」
 今回の道之の江戸逗留は、もちろん商いが目的だった。
 最初に京を訪れ、奥州への帰りの道すがら、ある目的があって江戸に立ち寄ったのであった。
 この一五年の間、道之は粘り強く問屋対策を続けてきた。そのため、高田屋の名は徐々に江戸でも知られるようになっていたが、商いの伸びは、微増程度に留まっていた。
「静風さん、ところで、例の秘策はどうなりましたか」
「お、先生、それなんです」
 道之は、持参した唐草の風呂敷を解いた。
 中には桐の小箱が十ばかり入っていた。
 道之は、その中の一つを取り出して、壮雪に差し出した。
 上蓋の大きさは一寸五分四方で、高さは一寸ほど、上蓋の右下には、高田屋の焼き印があった。
 壮雪は箱の蓋を開けた。
 中には紅染めの木綿にくるまれた紅皿が入っていた。
「ほう、これはなかなかに」
「実は、すでに何軒か心当たりにはお配りしてるんです」「お蔭さまで今のところ評判もよく」
「それはよかった」「ところで、俳句はどちらに、あとから入れるのですか」
「それが先生、これまで少しばかり配ったものには予定通り、私の拙い句を入れました」「この上蓋の真ん中に」
「さようですか」
「先生、本日は秘策が完成したお祝に、私の我儘を一つ聞いてもらえますか」
「なるほど」
 壮雪はすでに勘づいたようで、早くも、携帯用の筆を取り出して、俳句を考え始めた。
「先生、こちらをお使いください」
 道之が渡したのは、極細の竹筆だった。
「皆様」
 道之が芸妓たちに声を掛けた。
「今日はいつも大変世話になっている皆様方に、私から、少しではありますが、贈り物がございます」
 すでに二人のやり取りに耳を傾けていた芸妓からは、早くも喜びの声が上がった。
 道之は、何年も前から、江戸の問屋との交渉に限界を感じていた。
 問屋が駄目なら、と道之は問屋に頼らない商いの方法を模索するようになっていった。
 道之は真っ先に紅を使う側に目を向けた。
 最終的な紅の愛好者、とりわけ吉原の舞妓、芸妓などに高田屋の名を知られることで、需要を喚起しようと考えたわけである。
 しかし、この方策は、やもすると問屋外しと取られかねない危険な賭けでもあった。
 しかし、だからと言ってこの方法を止める気は、道之にはなかった。
 どんな策も、これまでに例のないことには変わりはないし、それゆえの「掟破り」という烙印からは、どの道逃げられないだろうと考えたからだった。
 あとは、道之の覚悟だけだった。
「これは、静風さん、売れますよ」
「いや、先生、流石にこれは売り物にはしません」「問屋さんの顔に真正面から泥を塗ることになりますから」
「といいますと」
「これはあくまでも宣伝です」
「それは、気前のいい話ですな」
「いえいえ、最終的にはすべて商いのためです」「先生のお知り合いで、お配りするような宛てがございましたら、ぜひいつでもお申し付けください」
 江戸の街に、「紅の高田屋」という名が知れ渡り、さらにその質の高さを知らしめれば、やがて高田屋指名で紅を求める者たちが増えるに違いなかった。
 そうなった時が、まさに高田屋の江戸での商機であろうと、道之は考えた。
 この道之の秘策は、見事に効果を出した。
 天和三年(一六八三年)の正月、満を持して、高田屋の紅餅が多量に江戸に荷揚げされた。
 運ばれたのは、大阪屋の空いている蔵であった。
 道之が江戸で最初に訪れた、あの総合問屋大阪屋である。
 大阪屋の主人、森勘右衛門は、当初、高田屋との商いに前向きではなかった。
 しかし、何度も脚を運ぶ道之の商売魂に徐々に心を許すようになり、今では江戸で一番の理解者となった。
 その入荷の件に関しても、表沙汰にならないための森勘右衛門の様々な手配りがあった上での協力であった。
 その頃、江戸で紅を販売する紅屋は、すでに京都の紅問屋から高田屋の紅餅を使用した製品を多量に仕入れ始めるという状況が続いていた。
 道之は、江戸の紅製造者にも何年も前から当たりを付けていた。
 しきたりを重んじる二代目高田清右衛門は、最後までこの計画に関して首を縦には振らなかったが、最後は、どうしても譲らない道之を黙認した形となった。
 すでに、多くの人々を巻き込んでいた道之だった。
 万に一つの失敗は許されなかった。
 大阪屋の米蔵に紅餅を入荷した翌日から、道之は江戸の紅問屋を周り始めた。
 道之の一世一代の勝負が始まった。
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