紅風の舞(べにかぜのまい)

滝川 魚影

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 久しぶりに、十吉郎が顔を見せたので、瑞江はてっきり依頼していた、新しい子のことだとばかり思ったが、そうではなかった。
「女将はん、すんまへん、まだね、例の話はまとまらしまへん」「もう少し待っとくんなはれ」
「よろしおすえ、うちは十吉郎はんに全て任しとります」「気にせんと、ええ話持ってきておくれやす」
「へぇ、おおきに」「ええ、おきちはいはりますか」
「おきちは、奥で支度中どす」「何の用どすか」
「ほんなら、女将はん、これをおきちに渡しておくれやす」
 それは、一通の文だった。
 瑞江は、咄嗟に、これはいい知らせではない、と察し、すぐに文をきちのところへ持っていった。
 はたして、瑞江の予感は的中した。
「国のおとうさんから」
 きちは、文を置くと、化粧の手を動かしたまま、ついでのように言った。
「おかあさんが」「亡くなりはったて」
「あ」
 瑞江は、口を押さえた。
 きちの母親は、瑞江よりも十五は年下のはずだった。
「ほないなことが」「あんた、今日はどうしはる」
 きちは、笑って答えた。
「おかあさん、何を動揺してはるんどすか」「仕事はちっきり務めてきます」「今日も明日も、明後日も」
「そない言うたかて、今夜のお客はんは、あんたやのうても務まりますえ」
「おかあさん、変なこと言わんといておくれやす」「お客はんは、皆おんなじお客はんえ」
 きちは、取り合わず、その後も淡々と支度を続けた。
「ほな、おかあさん、行ってきますぅ」 
 表には、その夜の客が回した籠がすでに到着していた。
 その客とは、千両ケ辻の紅問屋の主人、梅田千右衛門だった。
 その夜は、千右衛門が新しく紹介したい人が同席するということで、きちにとっても客を広げるいい機会だったから、どうしても代わりを立てたくない、という気持ちがあった。
 言わずもがなだが、瑞江の前では強がったきちも、心の中は、すぐにでも飛んで帰りたいと思う気持ちでいっぱいだった。
 例え、とうの昔に親の死に目には会えまいと覚悟を決めたきちだとはいえ、だった。
 きちは、籠に揺られながら、自問自答していた。
 きちが今帰ったところで、母が生き返るわけではない。
 座敷を代わってもらって家にじっとしていても、同じようにどうなるものでもないし、かえっていたたまれなくなるだけだろう。
 それにしても、あまりにも早すぎる死ではないか、と自らの運の無さを想わずにはいられなかった。
 母は、まだ四十前のはずだった。
 最後には、悲しみに胸が引き裂かれそうなきちであったが、不思議と涙は出でこず、そのことがかえってきちを苦しめたのだった。
 客が待つ旅館に着く頃には、きちの心は空虚を通り越して、清々したものとなっていた。
 旅館の部屋に案内され、入室すると、恰幅のいい千右衛門が大きな声で迎えれくれた。
「おきちはん、待ちくたびれたわ」
「旦那はん、すんまへん」
「さあさ」
 手招きされて、座敷の下座にきちは進み、改めて挨拶した。
「こちら、奥州の商家はんで、高田屋の若旦那、道之はんどす」「こちら、おきちはん」
「きちと申します。よろしゅうお頼もうします」
「高田道之です。よろしくお願いします」
 ひと通り、お酌をして回ると、きちは、手始めにということで、先に到着していた舞妓と二人で踊り始めた。
 三味線は、きちの座敷では馴染みの芸妓、すみであった。
 すみはきちよりも六つ年上だった。
 それから半時ほど、お座敷芸が続き、宴もたけなわとなった。
「おきちはん、この次は、ゆっくりとお相手してください」「お近づきにしるしに」
 道之はそう言うと、桐の小箱を手渡した。
「これ、なんどすか」
「開けてご御覧なさい」
 きちは、箱の蓋を開け、中身を取り出し、紅花染めの木綿の包みをめくった。
 伊万里焼の紅皿だった。
「あれまあ、よろしおすのか」「おおきに」
 道之は、小箱の蓋に持参した竹筆ですばやく何かを書き付けた。
「さっき、おきちさんが唄った歌への返歌です。気に入りました」
 
 岡がらす我もそなたにほれてなき

 会は、六つにはお開きになった。
 千右衛門と道之は、その後商談があるということだった。
 帰りも、千右衛門が籠を呼んでくれたので、四半時もしないで、きちは抱え屋に帰りついた。
「おかあさん、ただいま」
 瑞江の返事は無かった。
 代わりに、奥から滝が駆けて出てきた。
 「おきち、大変やあ」「おかあさんが倒れはった」
 悪いことは続くものだった。
 貞享元年(一六八四年)の葉月十日のことであった。
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