紅風の舞(べにかぜのまい)

滝川 魚影

文字の大きさ
11 / 23

10

しおりを挟む
 男の名は、房吉と言った。
 身なりは商人風で、上方訛りがあった。
 房吉は、十日ほど前から、保土ヶ谷宿の旅籠に逗留していた。
 その間、房吉のところに何やら怪しげな人物が数人出入りした。
 そして、その日の朝、房吉は旅籠を出立して、川崎宿を目指した。川崎宿で、元船乗りで、助三という男と合流した。
 午の九つに品川宿に到着した二人は、すぐさま湊へ向かった。
 そこには、助三の旧知の漁師二人がすでに待ちうけていた。
 四人は、湊を行き来しながら、半時ほど何やら話をしていた。そして、三々五々散っていった。

 これより十日ほど前、道之は江戸の問屋を回り終えた。
 商談はことごとく不調に終わった。
 分かり切ったこととはいえ、ただの一軒もとは、道之も考えなかった。
 落胆は大きかった。
 道之は明らかに、江戸の問屋の間に申し合わせがあるに違いない、と判断した。
 いよいよ最後の手段に出るしかなくなった。
 ただちに道之は、上方に飛脚便で文を送った。
 そして、文を追うように、京へ草鞋を向けたのである。

 房吉が品川宿に逗留して三日目の早朝七つ、品川湊の沖合に、およそ三〇駄の紅餅が積み込まれた三〇石船が、人知れず到着し、停泊していた。
 そこへ、もう一隻、似たような三〇石船がゆっくりと近づいて行った。
 そして、すれ違う際、近づいてきた方の船から乗り出した人影が何やら板のようなものを停泊していた船に取り付けた。
 そのまま、後から近づいた船は、どこかに姿を消した。
 板を取り付けられた船は、その後も停泊したままだった。

 湊の沖合で船が燃えている、という騒ぎで品川湊に人だかりができたのは、八つを過ぎた頃だった。
 消火は早々と諦められ、船は燃えるに任された。
 幸い、海上で航行する他の船には被害が及ばず、燃え尽きた船は海に沈んだ。
 その日の夕刻以降数日間、現場が改められたが、結局手掛かりは「高田屋」と刻印された一枚の板だけだった。
 港で積み荷にあたっていた人足など数人から事情が聞き出され、沈んだ船は、高田屋扱いの船であることでほぼ間違いないとされた。
 沖で回収された木札も最後の決め手になった。
 船には、およそ三十駄の紅餅が積んであった、ということだった。
 この事件は、なぜか江戸では当初それほどの騒ぎにはならなかった。
 騒ぎになったのは、京の問屋たちの間であった。
 その後、ほどなくして京の紅問屋は、江戸の紅屋に通達を送った。
 数日後から、紅を使った化粧道具の価格がが軒並み上昇し始めた。
 合わせて、品薄がそれ拍車をかけることになり、紅関連商品の価格は高騰することになるのである。
 当初、江戸の問屋は、紅皿などの化粧道具の卸値が、どうしてここまで値上がりするのか、計り兼ねた。
 江戸近郊の紅花は収穫は早いから、その時分には既に市場に出回り切り、問屋の在庫は底の状態だった。
 そこへきて、京からの紅商品の流通量が減り、なおかつ卸値が高騰したとあっては、江戸の問屋に為す術はなかったが、手をこまねいて商機を逸するわけにもいかなかった。
 江戸の紅花問屋連合は、密かに会合を開き、対策を話し合った。
 その会合から半月の後、高田屋の手代が、江戸に到着した。
 手代は、扇吉といって、あの三田宗助の甥であった。
 その日、扇吉が対面しているのは、江戸の紅花問屋、橘屋の主人、木村羽左衛門であった。
「まことに申し訳ございません。若旦那の道之は外せない商談で、京におりまして、私が代理で伺いました」
 これは道之の戦術だった。
 羽左衛門は下を向くと、代理の代理か、とわざと扇吉に聞こえるようにつぶやいた。
 羽左衛門にとって、道之ですら、商売の対等な相手ではなかった。それは、江戸のその他の問屋も同じ考えだった。
 その道之すら来ないで手代を寄こしたことに、羽左衛門は露骨に不快感を示した。
 しかし、今回ばかりは背に腹は代えられない。
「紅餅をできるだけ多く仕入れたいのだが」
 扇吉は、江戸に来る前に京に立ち寄り、道之と段取りを話していた。そして、いくつかの想定問答を確認し合い、準備万端であった。
「できるだけ、とおっしゃられましても」「すでに、今年の分は出荷を済んでおりまして、ほとんど在庫がございません」
「ある程度まとまった量が必要なのだ」
「そうしますと、全国各地に出荷済みのものを調べてみませんと」
「急ぐ話なのだ」
 羽左衛門は、歯噛みしながら言った。
 結論を引き延ばすのも作戦の一つだった。
「いずれにしましても、一度納品したものを買い戻すことになりますので、かなりお高いものになってしまいますが」
「どれぐらいになろうか」
「例え買い戻しが上手くいったとしましても、どちらさまも、今の江戸の相場を知っておりますので」
「なんだ」
「当方がどれほど頑張りましても、その相場よりは安くはできませんかと」
 結局、高田屋は、三〇駄の紅餅を通常の二〇倍の値段で、江戸の問屋たちに卸した。
 そのころ市場では、普段の三〇倍近い値段で取引されている紅餅もあり、それに比べれば遥かに安値だと言わざるを得なかった。
 もちろん、この三〇駄の紅餅は品川沖ですり替えたものだった。
 高田屋の紅餅が大量入荷したことは、どこよりも先に吉原の遊女の間で噂になった。
 その噂が立ち始めた頃、道之の姿は京にあった。
 彼は、一連の出来事で、協力を仰いだ人たちへの挨拶回りや、接待に大忙しであった。
 その時の事で、高田屋は江戸での商いの成功に加えて、嬉しい副産物を得ることとなった。
 それは、京の問屋との信頼関係が深まったことであった。
 結果、道之の命がけの掛けは、高田屋の商いを飛躍的に成長させることとなった。
 しかし、この成功の陰で、大きな悲劇もあった。
 道之の妻の急死である。
 容態が急変したのは、彼が、挨拶回りで京の都に到着した直後だった。
 さらに、危篤を伝える飛脚便が京に到着したのは、すでに道之が奥州への帰路に着いた後だった。
 道之は、ついに妻の死に目に会えなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし

佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。 貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや…… 脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。 齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された—— ※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。 独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす 【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す 【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す 【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす 【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

処理中です...