12 / 23
11
しおりを挟む
「おおきにえ、きち」「あんまり無理しなや」
「おかあさん、無理なんてしてまへん」「好きでやってるんえ」
何気ない言葉は嘘ではなかった。
実の母には親孝行の一つもできなかった、きちであった。
きちにしてみれば、瑞江を代わりにして、できなかったことを取り戻していると言ってよかったのだ。
きちは、瑞江を抱き起こして、医者から処方してもらった薬草を煎じた湯ざましを与えるところだった。
最初に倒れた後、きちの献身的な看護の甲斐があって、瑞江は奇跡的に回復し、翌年には起き上がれるほどになった。
しかし当然、以前のような体力は失われていたので、新人の受け入れは取りやめになった。
それが、その更に翌年、再び瑞江は病臥することになったのだった。しかも、二度目は前よりも病状が重かった。
「このところは、夜の勤めが続いてはんねやろ」
「おかげさんで、忙しさしてもろてます」
そういう言いぶりには、多少の皮肉を含んではいたが、きちが言うと不思議と嫌味には聞こえなかった。
「ほどほどにしときや」
きちは声をたてて笑った。
「おかあさん、また変なこといいよる」「それがうちの仕事え」
「考えてつとめなはれ」
それは、中島屋の女将の言葉として、瑞江が芸妓たちに常に言ってきた教えの一つだった。
せっかく時間をかけて育てた芸妓だから、年季中は、健康に稼いでもらわなければならなかった。
「安売りしたらあきまへんえ」
その言葉も中島屋ではよく言われることだった。
率のいい客を程よくこなして長く勤める、それが肝要といったところだろう。
しかし、この時の瑞江の気遣いは、そのような仕事上の教訓として発せられただけの言葉ではないようだった。
完治することはない、というのが医者の瑞江に対する診立てだった。
「あんたが、うちの最後の子え」
病床に伏すようになり、めっきり気弱になった瑞江は、よくきちにそう言った。
「しっかり、しとくなはれ、おかあさん」「中島屋はおかあさんでもっとるんですえ」
きちが励ましても、瑞江にはもはや通じないようだった。
そんな矢先に、時々瑞江の看病に来る滝が、変なことをきちの耳に入れてきた。
「旦那はんは、中島屋をしまうつもりや」
「ほなら、うちらはどないなるんどす」
「鞍替えやねぇ」
主人が決めたことには従わなければならないし、そこに異論を唱えるつもりは、きちにもなかった。
ただ、瑞江の病状のことがあって主人が決め急いでいるのであれば、それは俄かに看過できるものではなかった。
「そやかて、おねえさん、もうすぐ年季明けやし」
「年季が開けたかて、行くあてもあらしまへん」「うちは死ぬまで花街暮らしや」「もう大年増やしね」
今は引く手あまたでも、一旦中島屋を離れたら、自分にもそういう状況が待っているのかと、きちはふと先行きを想った。
母の死後、きちは何故かふっきれたようなところがあり、そういう気持ちが芸に出るのか、俄かに評判が上がっていった。
夜の勤めにしても、だいぶ慣れてきたこともあり、不思議な話、やりがいに変わっていた。
それでも、芸妓仲間が用事だということになれば、代役で知らない客とも関係をもたないといけないこともあったり、中島屋の客にしても異常な性癖を持った客がいないこともなく、時には痛い目も、悔しい目にもあった。
頼りは、健康な体だけだった。
そんなある日、ついに十吉郎が中島屋の主人からの通達を瑞江に伝えにきた。
十吉郎が帰った後、瑞江はきちを枕元に呼び、主人からの話を伝えた。
「きち、ほんに申し訳ない」
瑞江は目に涙を溜めながら言った。
「中島屋はしまうことに決めはった」
きちは、整然と座って、耳を傾けていた。
「ほんまはな、うちは、きちにこの中島屋を継いで欲しかったんえ」「あんたは、芸の筋がええだけやない、器が違う」
急に痛みが走ったらしく、瑞江は少しうめいて、顔をしかめた。
「うちは、もう長うない」
きちは瑞江に寄り添い、腰をさすりながら次の言葉を待った。
「もう少し、あんたをそばに置いとけたら」「ほんに、情けない」
「おかあさん、うちのことは、心配おへん」「それに、中島屋はしまわれても、おかあさんの教えは、必ず伝えていきますよってに」
咄嗟に出た、きちの言葉は、瑞江の心を打った。
瑞江が泣き崩れ、力が入ったのか、また腹を押さえて苦しがった。
「ほんに、きちは、うちの子やあ」
希望を失い、開き直った途端に、運が向いてくるということはよくあることだ。
きちも、覚悟を決めた。
瑞江を悲しませないためにも、芸一つで生きていってやると決心していた。
ところが、きちは鞍替えすることは無かった。
折よく、身請けの話が浮上したのだ。
当初、相手はとある商家の若旦那ということだけ、きちに伝えられた。
「おかあさん、何で詳しいこと教えてもらわれへんの」
「先方さんの都合らしいえ」「でも、そういうたかて、近いうちに分かることえ」
それは、元禄元年(一六八八年)、早秋のことであった。
「おかあさん、無理なんてしてまへん」「好きでやってるんえ」
何気ない言葉は嘘ではなかった。
実の母には親孝行の一つもできなかった、きちであった。
きちにしてみれば、瑞江を代わりにして、できなかったことを取り戻していると言ってよかったのだ。
きちは、瑞江を抱き起こして、医者から処方してもらった薬草を煎じた湯ざましを与えるところだった。
最初に倒れた後、きちの献身的な看護の甲斐があって、瑞江は奇跡的に回復し、翌年には起き上がれるほどになった。
しかし当然、以前のような体力は失われていたので、新人の受け入れは取りやめになった。
それが、その更に翌年、再び瑞江は病臥することになったのだった。しかも、二度目は前よりも病状が重かった。
「このところは、夜の勤めが続いてはんねやろ」
「おかげさんで、忙しさしてもろてます」
そういう言いぶりには、多少の皮肉を含んではいたが、きちが言うと不思議と嫌味には聞こえなかった。
「ほどほどにしときや」
きちは声をたてて笑った。
「おかあさん、また変なこといいよる」「それがうちの仕事え」
「考えてつとめなはれ」
それは、中島屋の女将の言葉として、瑞江が芸妓たちに常に言ってきた教えの一つだった。
せっかく時間をかけて育てた芸妓だから、年季中は、健康に稼いでもらわなければならなかった。
「安売りしたらあきまへんえ」
その言葉も中島屋ではよく言われることだった。
率のいい客を程よくこなして長く勤める、それが肝要といったところだろう。
しかし、この時の瑞江の気遣いは、そのような仕事上の教訓として発せられただけの言葉ではないようだった。
完治することはない、というのが医者の瑞江に対する診立てだった。
「あんたが、うちの最後の子え」
病床に伏すようになり、めっきり気弱になった瑞江は、よくきちにそう言った。
「しっかり、しとくなはれ、おかあさん」「中島屋はおかあさんでもっとるんですえ」
きちが励ましても、瑞江にはもはや通じないようだった。
そんな矢先に、時々瑞江の看病に来る滝が、変なことをきちの耳に入れてきた。
「旦那はんは、中島屋をしまうつもりや」
「ほなら、うちらはどないなるんどす」
「鞍替えやねぇ」
主人が決めたことには従わなければならないし、そこに異論を唱えるつもりは、きちにもなかった。
ただ、瑞江の病状のことがあって主人が決め急いでいるのであれば、それは俄かに看過できるものではなかった。
「そやかて、おねえさん、もうすぐ年季明けやし」
「年季が開けたかて、行くあてもあらしまへん」「うちは死ぬまで花街暮らしや」「もう大年増やしね」
今は引く手あまたでも、一旦中島屋を離れたら、自分にもそういう状況が待っているのかと、きちはふと先行きを想った。
母の死後、きちは何故かふっきれたようなところがあり、そういう気持ちが芸に出るのか、俄かに評判が上がっていった。
夜の勤めにしても、だいぶ慣れてきたこともあり、不思議な話、やりがいに変わっていた。
それでも、芸妓仲間が用事だということになれば、代役で知らない客とも関係をもたないといけないこともあったり、中島屋の客にしても異常な性癖を持った客がいないこともなく、時には痛い目も、悔しい目にもあった。
頼りは、健康な体だけだった。
そんなある日、ついに十吉郎が中島屋の主人からの通達を瑞江に伝えにきた。
十吉郎が帰った後、瑞江はきちを枕元に呼び、主人からの話を伝えた。
「きち、ほんに申し訳ない」
瑞江は目に涙を溜めながら言った。
「中島屋はしまうことに決めはった」
きちは、整然と座って、耳を傾けていた。
「ほんまはな、うちは、きちにこの中島屋を継いで欲しかったんえ」「あんたは、芸の筋がええだけやない、器が違う」
急に痛みが走ったらしく、瑞江は少しうめいて、顔をしかめた。
「うちは、もう長うない」
きちは瑞江に寄り添い、腰をさすりながら次の言葉を待った。
「もう少し、あんたをそばに置いとけたら」「ほんに、情けない」
「おかあさん、うちのことは、心配おへん」「それに、中島屋はしまわれても、おかあさんの教えは、必ず伝えていきますよってに」
咄嗟に出た、きちの言葉は、瑞江の心を打った。
瑞江が泣き崩れ、力が入ったのか、また腹を押さえて苦しがった。
「ほんに、きちは、うちの子やあ」
希望を失い、開き直った途端に、運が向いてくるということはよくあることだ。
きちも、覚悟を決めた。
瑞江を悲しませないためにも、芸一つで生きていってやると決心していた。
ところが、きちは鞍替えすることは無かった。
折よく、身請けの話が浮上したのだ。
当初、相手はとある商家の若旦那ということだけ、きちに伝えられた。
「おかあさん、何で詳しいこと教えてもらわれへんの」
「先方さんの都合らしいえ」「でも、そういうたかて、近いうちに分かることえ」
それは、元禄元年(一六八八年)、早秋のことであった。
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
ソラノカケラ ⦅Shattered Skies⦆
みにみ
歴史・時代
2026年 中華人民共和国が台湾へ軍事侵攻を開始
台湾側は地の利を生かし善戦するも
人海戦術で推してくる中国側に敗走を重ね
たった3ヶ月ほどで第2作戦区以外を掌握される
背に腹を変えられなくなった台湾政府は
傭兵を雇うことを決定
世界各地から金を求めて傭兵たちが集まった
これは、その中の1人
台湾空軍特務中尉Mr.MAITOKIこと
舞時景都と
台湾空軍特務中士Mr.SASENOこと
佐世野榛名のコンビによる
台湾開放戦を描いた物語である
※エースコンバットみたいな世界観で描いてます()
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる