紅風の舞(べにかぜのまい)

滝川 魚影

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20(終話)

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 二年ぶりの踊り櫓は、予想以上の人出だった。
 全部で五つの演目が予定されていたが、村人の期待は、やはり紅風の舞だった。
 どこから話が漏れたのか、紅風屋の女将の不在が、始まりを待つ村人たちの口の端に上っていた。
「ありゃ、せっかぐの紅風の舞ちゃ、女将は出てこねながあ」
「なしてだべ」
「ないしてだやあ」
 久々に紅風屋の女将の踊りが見られると期待してやってきた村人がほとんどだったのである。
 舞台に全てを集中しなければならない、せんであったが、きちのことが頭から離れなかった。
 それでも、大盛況のうちに演目は全て終わった。
 せんは、着替えると、すぐに姉の元へ駆け付けた。
 せんが部屋に入っていくと、手前側、枕元には、清右衛門、その左にたけが付き添っていた。
 布団の奥側には、医者が座っていた。
「失礼します」
「あ、おせんか」
 清右衛門が立って、おせんに座を譲った。
「あねちゃん」
「お、おせんが」「無事に、終わた、なが」
 きちの声は途切れ途切れで、力が無かった。
「うん、いっぱい人来てけで」「大盛り上がりだった」
「んだが、いがったなあ」
 きちは、静かに微笑んだ。
「あねちゃん」
 おせんが、屈んで、きちに呼びかけた。
 そうしないと、きちの意識が遠のいていくような気がしたからだ。
「お、か、ちゃん」
 きちが、声を振り絞って言った。
「ないだ、おきち」
「ほん、てん、ありがど、さん、な」「おせんば、お、せんば、こごまで、育でで、けで」
「ないだず、おきち、何言ってる、おまえ」
 たけは、そのまま布団の上から、きちに覆いかぶさり抱きしめた。
「旦那、さん」「だ、旦那さん、ば」
 そうきちがか弱く呼ぶと、清右衛門は医者の横に座り直し、屈んで、きちを覗き込んだ。
「旦那、さん」
「うん、うん、おきち」
「だ、旦那さん、ほんと、に、ありがとう、ございました」「ほ、んと」「旦那さん、と、めぐり、あえて、わ、わたしは、幸せ、でしたぁ」
 きちは目を閉じながら最後の言葉を絞りだすように、息と一緒に吐きだした。
「おおきになあぁ」
 医者が、脈をとり、そしてきちの手を戻すと、静かに首を横に振った。
「おきちい」
「きちい」「やんだずう、なしておめが、先に逝ぐなや、なしてや、ああ、ああ」「ほれ」「ほれ、おぎろ」
「あねちゃん、あね、あねちゃん」
 きちの、短くも、波乱に満ちた三十年の生涯が静かに閉じられた瞬間だった。
 ついにきちは、三人の母親の死に目に会うことはなかった。

 初七日が過ぎたある日、せんは、ふと思い立って、きちの庵を訪れた。
 通る者が無くなって幾日も経っていないだろうに、庵へ続く小道は、荒れ、枯れてしまったようだった。
 締め切られた玄関の引き戸を開けると、温められ、籠った空気が淀んでいた。
 部屋は、奇麗好きなきちのことだから、全てにおいて整理整頓されていた。
 時間は止まっていた。
 ただ、床の間に活けられた山百合だけが、その花を下に落とすことで時間に動きを与えていた。
 それは、主の不在を暗に訴えていた。
「山百合」
 せんはつぶやき、花を拾い上げ、野草が好きだった姉を想いやった。
 窓を開けると、一気に風が入ってきた。
 せんは、急に寂しい気持ちになった。
 残っていた僅かな姉の形跡が流れていったようだった。
 流れ際に姉の声を聞いた。
 せんはその声を噛み締めながら涙をこらえて、花を片づけ、花瓶を洗い、床の間を水拭きした。
 文机の上には、きちの手習いの道具が入った漆塗りの箱が整然と置かれていた。
 せんは、引き出しを開けてみた。
 何通もの文があり、送り主だけを見てみたが、ほとんどが、平野瑞江となっていた。
 文の他には、綴じ本が数冊入っていた。
 せんは、一番上の一冊を手に取って、開いてみた。
 きちが手習いを兼ねて書いた和歌などがびっしりだった。
 そして、後半は、「紅風の舞」の歌詞が何度も書き換えられ、書き連ねてあった。


 梅風の
 薫る畑畑
 起こす畝
 おきぬ乳飲み子
 小さき手
 揺られ揺られて
 紅の里

 たらちねの
 籠を持つ手の
 桜はな
 舞いてまかれて
 若草の
 鍬のはこびて
 里の春

 新しき葉の
 青々と
 ややこが摘むは
 野草花
 手塩にかける
 紅花の
 黄に輝きて
 鮮やかに

 朝露おりぬ
 花摘みの
 巣立つ娘の
 半手甲
 満ち満ちてゆく
 別れても
 仲睦まじき
 姉妹

 洗いに揉みの
 花振りて
 度々返す
 花寝せの
 練り重ねてや
 花並べ
 花踏み干して
 発つを待つ

 暮れゆく京の
 紅餅を
 京の花に
 色添えて
 鴨の水面
 染め映えて
 渡る川風
 柔らかに

 柳行李の
 母の香の
 木綿の着物
 形見分け
 別るる母子
 泣き暮れぬ
 朝陽に濡れぬ
 京街道

 西の周りの
 荒波の
 吹かれ吹かれて
 潮の花
 思いもかけぬ
 下り船
 山の桜の

 色映えて
 白糸の滝
 一筋に
 川の流れの
 巡り合う
 待つ人の
 ただ待ちわびる

 あの人の
 祝う船頭の
 舟歌の
 心にしみる
 晴れ晴れと
 川渡る風
 爽やかに
 変わらず流る
 くれないの川

 唄は、紅花の収穫の一年と、きちの一生が織り込まれた大作だった。
 今更ながら、きちの生みの苦しみを思い知らされた、せんであった。
 最後の頁には、俳句が一句、添えられるように書かれていた。
 誰の作品か、姉が詠んだものではないように、せんには思われた。
 頁は、そこで終わっていた。

 本来の磁石を知るや春の雁
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