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十四 盲芸姑
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めくらげいこ
ハマが柿崎に戻った年、春治は十七になった。
明治に入り、新政府は矢継ぎ早に近代化の制度を敷いていったのだが、この年の正月(新暦)十日には、徴兵制が布告された。これにより、満十七歳から四十歳までの男子が兵籍に登録され管理されたばかりではなく、満二十歳になると、徴兵検査を受けることが義務化され、合格し抽選当選すると「常備軍」の兵役に三年間服する。さらに服役後四年間は「後備軍」として、戦争になれば、いつでも召集をかけられる。
当初、平民は、この制度について良く知らなかった。ところが、町役場から検査令状が届くと、勢い騒がしくなった。というのは、この令状が、まず「届くところと、そうでない家」があるからだった。
つまり、「免役」といって、最初から召集を免除される身分が定められていたからだった。この不平等感から、やがて我もわれもと免役を求める者が出始めたのだ。
「小作の家なんて、みんな、次男坊以下、働き手が減って、大変だってさ」
サエが、近所から聞いてきて、あの家は取られた、この家は金(代人料二百七十円)払って免除されたなど、噂した。
サエの生家の弥平のところには、弥一郎の後ろに三人男子があるが到底みなの代人料を払うことは出来ないと、悩んだ末に二男の、清次の代人料は払わないことにしたという。
清次は春治と同い年。つまり、三年後には召集がかかることになる。
サエの家は、主の辰治と、一人息子の春治だけなので、対象外である。もし、長男の清太が生きていれば、春治には令状が来ていたことになる。
このように、ちょっとの違いで運命が分かれたのである。
この前年の明治三年九月には、「平民苗字許可令」が発布されており、辰治はその必要は無いと、苗字を考えないでいたが、結局、徴兵登録の際に必要となり、「立浪」を名乗ることにしたのだった。
この苗字は、平民に許可されても、なかなか浸透せず、明治八年には苗字を義務付ける「苗字必称義務令」が出されるほどであった。
もしかしたら、平民にとって、どんな制度よりも苗字を名乗る事が、一番の身近な変化かもしれなかった。
ちなみに、タケとハマは、タケの生家の、佐藤姓を名乗ることにしたのだった。
「春にいちゃ、チョウヘイセイって何」
夕方、釣った魚を届けに来た春治にハマが尋ねた。
「戦になったら、戦わんばいけねえ、という制度だ。だども、戦なんて、当分ねえだろうすけ、俺は一応登録されただけだよ」
「それじゃあ、もし戦になっても、春にいちゃは行かんで良いっていうこと」
「うん、そうだ」
「そんなら、良かった」
二月の雪が収まると、柿崎には春が来た。そして雪解けに合わせるように、ハマの芸姑修行は本格さを増していくのであった。
明治六年(一八七三年)の四月、修行開始から三ヶ月を過ぎた頃、ハマの歴史的な芸姑初仕事がかかった。
客は、直江津今町と百間町新田村からで、お忍びだという。誰とは、ハマには知らされなかったが、片方は言わずと知れた豪農、あとの一人も今町の旦那衆に違いなかった。
芸姑の唄があれば、重たい話の目隠しにもなるということだろうか、とハマは思った。
暮六つから一刻半(約三時間)の密会で、途中外したこともあり、都合四曲演じたが、三曲目の一曲を勝帆が演った。
ハマは、名替えの式の時にタケが誂えた一張羅、藍の七宝柄に身を包み、髪はタケが島田に結った。これで、芸姑、勝帆に仕上がった。
たよりくる船のうちこそゆかしけれ
君なつかしと都鳥
幾夜かここに隅田川
往来の人に名のみ問はれて
花の影、水に浮かれて面白や
河上遠く降る雨の
晴れて逢う夜を待乳山
逢うて嬉しき、あれ見やしゃんせ
翼かはして濡るる夜は、いつしか更けて水の音
思ひ思うて深見草
結びつ解いつ
亂れ逢うたる夜もすがら
はやきぬぎぬの鐘の聲
憎やつれなく明くる夏の夜
(長唄『都鳥』)
三味線の方は、ほとんど、佳つ江が弾いたが唄はまず、申し分ない仕上がりだった。
「佳つ江さん、初披露とは思えねえ出来栄えでした。どちらかで修行されたったんだか、娘さんは」
「ありがとうぞんじます。娘は目が見えませんので、高田で瞽女の修行を十年しておりました。この正月に年季明けで、戻って参りました」
「流石に、佳つ江さんは大したもんだ。こんげな事見越して瞽女の親方に修行に出した。瞽女さというのは、普通は生涯の事でしょ。それこうして。よろしかっただ。勝帆さん。こちらへ」
タケが手を引いて、百間町の旦那に歩み寄る。
旦那は、袖からご祝儀を出して、勝帆に渡した。
「また、聴きに来ます」
「ありがとうぞんじます。変わらず、ご贔屓にお願いいたします」
この時の話は、後に語り草になったのだが、百間町の旦那のご祝儀は、一圓銀貨だった。当時の物価を考えると、おそらく二万円くらいの価値があったと想われる。もちろん、ハマにしてみれば、その一圓が、人生での最初の現金による芸の報酬と言ってよく、貨幣価値以上に大きな意味のあるものであったことは言うもでも無かった。
ハマは、この一圓を使わずにおくことを決めたし、母タケもそう助言したのだった。
とにかく、ハマの芸姑としての始まりは、順風なものとなった。
雪が溶け、イワシの地引網漁が始まり、あっという間に、鱪の漬漁の季節がやってきた。
やがて漬入が済み、毎年恒例の宴席が設けられた。
ハマとしては、初めての漬入祝いのセキでの芸披露となる。つまり、春治も、初めて芸姑としてのハマの芸を観る機会となるわけだ。
それに、昔のように、廊下の端の障子の影で観るのとは、わけが違うのである。
春治は、取りも直さず、客なのだ。
しかし、演目や稽古のことに気持ちを集中させていたことで、ハマがその事に思い至ったのは、宴席の前日のことであった。
「あ、そうか」
「どうしたんだい、急に。大きな声出して」
「春にいちゃが、お客様か」
「何だよ、今更」
タケは笑っている。
「今気づいた」
「まあまあ、いつも通り演ればいいのさ」
この席での演目は、タケとハマで考えに考えた。
長唄を一つと、あとはお客の求めに応じて、端唄などをいくつか。そして瞽女の唄を二つ演じることになった。
結果、演目の順はこうだった。
瞽女の門付け唄「かわいがらんんせ」
長唄「汐汲」
門付け唄「門付け松坂」
長唄「手習子」
端唄「夕立のあまり」
「あれが、ハル(春治)の幼なじみかい。瞽女さの唄でねえみたいだな」
そう尋ねたのは、弥平の長男の弥一郎だった。春治の漬漁の師匠であり、歳は三つ上。春治を弟のようにかわいがっている。弥一郎がハマ、勝帆の芸を観るのは初めてだ。
春治は微笑んで、頷いただけだった。
一見、普段と変わらぬ素振りだが、内心は勝帆の唄の余韻に浸っているのである。
(芸姑として歩み始めたんだな)
そういう感慨であった。
春治の目には、自然に幼い時のハマが、今の勝帆に重なって見える。
「あたいも、おかっちゃみたいに、三味線弾いて、唄えるようになったら、春にいちゃに聴いてもらえるね」
目が見えなくなったばかりのハマは、春治にそう言った。
(あれは、約束だったんだ。そして、その通りになったんだ)
二人だけの約束だった。だから、この日は、二人にとって、特別な日だった。
ハマは十五、春治は十七になった。
(あんげな小さい子が、こんげなったんだもんなあ)
弥平たちを見送った後、春治は珍しく、片付けが進む広間に残って、一人茶をすすりながら、そんなことを考えていた。
その茶が、春治にとっての、本当の祝杯であった。
目の見えない芸姑「勝帆」は、こうして始まったわけだが、噂が広がるのは早いもので、その年の秋から暮れにかけては、近隣の村の地主などから、声がかかるようになった。
村祭りや祭礼、行事に呼ばれるのである。
ただ、急にそのような申し出がきて、正直、タケもハマも、最初は喜んだものの、実際、慌てふためいたのであった。
「手引きや、瞽女さに声かけるわけには行かねえし、どうしたものかね」
よくよく考えたわけだが、答えは一つだった。
タケが手引きを兼ねる、だった。
その頃には、ハマのほうがタケよりも背が高くなっていた。
タケの方にハマが手を載せて歩く。そうして、まるで二人組の瞽女のようにして、客の待つところへ向かうのだった。
「どっかで見たことあるて思うたら、あの高田の瞽女さのカツさんねえか」
当然、瞽女だった頃の勝帆を知る客も時々いる。
「今は、母と一緒に芸姑をしております。盲芸姑です。変わらず、よろしゅうお願いいたします」
盲芸姑。
ハマはいつしか、自らのことをそう呼ぶようになった。
やがてそれは、人づてに伝わり、人々に覚えられるようになっていった。
ハマが柿崎に戻った年、春治は十七になった。
明治に入り、新政府は矢継ぎ早に近代化の制度を敷いていったのだが、この年の正月(新暦)十日には、徴兵制が布告された。これにより、満十七歳から四十歳までの男子が兵籍に登録され管理されたばかりではなく、満二十歳になると、徴兵検査を受けることが義務化され、合格し抽選当選すると「常備軍」の兵役に三年間服する。さらに服役後四年間は「後備軍」として、戦争になれば、いつでも召集をかけられる。
当初、平民は、この制度について良く知らなかった。ところが、町役場から検査令状が届くと、勢い騒がしくなった。というのは、この令状が、まず「届くところと、そうでない家」があるからだった。
つまり、「免役」といって、最初から召集を免除される身分が定められていたからだった。この不平等感から、やがて我もわれもと免役を求める者が出始めたのだ。
「小作の家なんて、みんな、次男坊以下、働き手が減って、大変だってさ」
サエが、近所から聞いてきて、あの家は取られた、この家は金(代人料二百七十円)払って免除されたなど、噂した。
サエの生家の弥平のところには、弥一郎の後ろに三人男子があるが到底みなの代人料を払うことは出来ないと、悩んだ末に二男の、清次の代人料は払わないことにしたという。
清次は春治と同い年。つまり、三年後には召集がかかることになる。
サエの家は、主の辰治と、一人息子の春治だけなので、対象外である。もし、長男の清太が生きていれば、春治には令状が来ていたことになる。
このように、ちょっとの違いで運命が分かれたのである。
この前年の明治三年九月には、「平民苗字許可令」が発布されており、辰治はその必要は無いと、苗字を考えないでいたが、結局、徴兵登録の際に必要となり、「立浪」を名乗ることにしたのだった。
この苗字は、平民に許可されても、なかなか浸透せず、明治八年には苗字を義務付ける「苗字必称義務令」が出されるほどであった。
もしかしたら、平民にとって、どんな制度よりも苗字を名乗る事が、一番の身近な変化かもしれなかった。
ちなみに、タケとハマは、タケの生家の、佐藤姓を名乗ることにしたのだった。
「春にいちゃ、チョウヘイセイって何」
夕方、釣った魚を届けに来た春治にハマが尋ねた。
「戦になったら、戦わんばいけねえ、という制度だ。だども、戦なんて、当分ねえだろうすけ、俺は一応登録されただけだよ」
「それじゃあ、もし戦になっても、春にいちゃは行かんで良いっていうこと」
「うん、そうだ」
「そんなら、良かった」
二月の雪が収まると、柿崎には春が来た。そして雪解けに合わせるように、ハマの芸姑修行は本格さを増していくのであった。
明治六年(一八七三年)の四月、修行開始から三ヶ月を過ぎた頃、ハマの歴史的な芸姑初仕事がかかった。
客は、直江津今町と百間町新田村からで、お忍びだという。誰とは、ハマには知らされなかったが、片方は言わずと知れた豪農、あとの一人も今町の旦那衆に違いなかった。
芸姑の唄があれば、重たい話の目隠しにもなるということだろうか、とハマは思った。
暮六つから一刻半(約三時間)の密会で、途中外したこともあり、都合四曲演じたが、三曲目の一曲を勝帆が演った。
ハマは、名替えの式の時にタケが誂えた一張羅、藍の七宝柄に身を包み、髪はタケが島田に結った。これで、芸姑、勝帆に仕上がった。
たよりくる船のうちこそゆかしけれ
君なつかしと都鳥
幾夜かここに隅田川
往来の人に名のみ問はれて
花の影、水に浮かれて面白や
河上遠く降る雨の
晴れて逢う夜を待乳山
逢うて嬉しき、あれ見やしゃんせ
翼かはして濡るる夜は、いつしか更けて水の音
思ひ思うて深見草
結びつ解いつ
亂れ逢うたる夜もすがら
はやきぬぎぬの鐘の聲
憎やつれなく明くる夏の夜
(長唄『都鳥』)
三味線の方は、ほとんど、佳つ江が弾いたが唄はまず、申し分ない仕上がりだった。
「佳つ江さん、初披露とは思えねえ出来栄えでした。どちらかで修行されたったんだか、娘さんは」
「ありがとうぞんじます。娘は目が見えませんので、高田で瞽女の修行を十年しておりました。この正月に年季明けで、戻って参りました」
「流石に、佳つ江さんは大したもんだ。こんげな事見越して瞽女の親方に修行に出した。瞽女さというのは、普通は生涯の事でしょ。それこうして。よろしかっただ。勝帆さん。こちらへ」
タケが手を引いて、百間町の旦那に歩み寄る。
旦那は、袖からご祝儀を出して、勝帆に渡した。
「また、聴きに来ます」
「ありがとうぞんじます。変わらず、ご贔屓にお願いいたします」
この時の話は、後に語り草になったのだが、百間町の旦那のご祝儀は、一圓銀貨だった。当時の物価を考えると、おそらく二万円くらいの価値があったと想われる。もちろん、ハマにしてみれば、その一圓が、人生での最初の現金による芸の報酬と言ってよく、貨幣価値以上に大きな意味のあるものであったことは言うもでも無かった。
ハマは、この一圓を使わずにおくことを決めたし、母タケもそう助言したのだった。
とにかく、ハマの芸姑としての始まりは、順風なものとなった。
雪が溶け、イワシの地引網漁が始まり、あっという間に、鱪の漬漁の季節がやってきた。
やがて漬入が済み、毎年恒例の宴席が設けられた。
ハマとしては、初めての漬入祝いのセキでの芸披露となる。つまり、春治も、初めて芸姑としてのハマの芸を観る機会となるわけだ。
それに、昔のように、廊下の端の障子の影で観るのとは、わけが違うのである。
春治は、取りも直さず、客なのだ。
しかし、演目や稽古のことに気持ちを集中させていたことで、ハマがその事に思い至ったのは、宴席の前日のことであった。
「あ、そうか」
「どうしたんだい、急に。大きな声出して」
「春にいちゃが、お客様か」
「何だよ、今更」
タケは笑っている。
「今気づいた」
「まあまあ、いつも通り演ればいいのさ」
この席での演目は、タケとハマで考えに考えた。
長唄を一つと、あとはお客の求めに応じて、端唄などをいくつか。そして瞽女の唄を二つ演じることになった。
結果、演目の順はこうだった。
瞽女の門付け唄「かわいがらんんせ」
長唄「汐汲」
門付け唄「門付け松坂」
長唄「手習子」
端唄「夕立のあまり」
「あれが、ハル(春治)の幼なじみかい。瞽女さの唄でねえみたいだな」
そう尋ねたのは、弥平の長男の弥一郎だった。春治の漬漁の師匠であり、歳は三つ上。春治を弟のようにかわいがっている。弥一郎がハマ、勝帆の芸を観るのは初めてだ。
春治は微笑んで、頷いただけだった。
一見、普段と変わらぬ素振りだが、内心は勝帆の唄の余韻に浸っているのである。
(芸姑として歩み始めたんだな)
そういう感慨であった。
春治の目には、自然に幼い時のハマが、今の勝帆に重なって見える。
「あたいも、おかっちゃみたいに、三味線弾いて、唄えるようになったら、春にいちゃに聴いてもらえるね」
目が見えなくなったばかりのハマは、春治にそう言った。
(あれは、約束だったんだ。そして、その通りになったんだ)
二人だけの約束だった。だから、この日は、二人にとって、特別な日だった。
ハマは十五、春治は十七になった。
(あんげな小さい子が、こんげなったんだもんなあ)
弥平たちを見送った後、春治は珍しく、片付けが進む広間に残って、一人茶をすすりながら、そんなことを考えていた。
その茶が、春治にとっての、本当の祝杯であった。
目の見えない芸姑「勝帆」は、こうして始まったわけだが、噂が広がるのは早いもので、その年の秋から暮れにかけては、近隣の村の地主などから、声がかかるようになった。
村祭りや祭礼、行事に呼ばれるのである。
ただ、急にそのような申し出がきて、正直、タケもハマも、最初は喜んだものの、実際、慌てふためいたのであった。
「手引きや、瞽女さに声かけるわけには行かねえし、どうしたものかね」
よくよく考えたわけだが、答えは一つだった。
タケが手引きを兼ねる、だった。
その頃には、ハマのほうがタケよりも背が高くなっていた。
タケの方にハマが手を載せて歩く。そうして、まるで二人組の瞽女のようにして、客の待つところへ向かうのだった。
「どっかで見たことあるて思うたら、あの高田の瞽女さのカツさんねえか」
当然、瞽女だった頃の勝帆を知る客も時々いる。
「今は、母と一緒に芸姑をしております。盲芸姑です。変わらず、よろしゅうお願いいたします」
盲芸姑。
ハマはいつしか、自らのことをそう呼ぶようになった。
やがてそれは、人づてに伝わり、人々に覚えられるようになっていった。
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