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二十四 草創
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そうそう
はじまりは、どれも些細なことであるに違いない。
そして、後年、振り返って遡れば、事の起こりは、縁が重なり合って、運が支えて始まり、そして進んでいくものだった。
津軽三味線も同じであった。
津軽三味線の祖は、決して一人ではないだろう。
幾人かの繋がりが、創り上げていったということだ。
ニタロウが生まれたのは、安政三年(一八五七年)の七夕の頃、とされている。
それは奇しくも、ハマが生まれる前年のことであった。
ただ、生まれるも何も、ニタロウが生を受けたのは、河原であった。
岩木川、神原の渡守の息子として、神原の河原の小屋で生まれたというのだ。
渡守はその当時、何か特別な技能を持っていた訳ではない。ただ、その川のことをよく知っている、ということから、その役目に就いた。それだけであった。
ただ渡守になれば、当然渡し賃が入るわけだから、職にありついたことに結果としてなるわけだ。
しかし、士農工商の身分の枠外である。
つまり、そういう身分に生まれたのがニタロウの父であり、ニタロウなのである。
そのニタロウは、数えの八つのときに、疱瘡に罹り、盲目となった。
つまり、もはや生きるすべを無くしたに等しかった。少なくとも、渡守の父はそう判じたに違いない。
そして更に、ニタロウが失明した三年後、渡守の父が他界する。
それで、ニタロウは詰んだ。いや、詰んだことすら、誰も関心を寄せなかっただろう。むしろ、渡守をどうしようか、それが村人の一大事だったに違いない。
生きる術を無くしたニタロウだったが、それはその時始まったことではなかった。だから、途方に暮れることすら知らずに、やれることは何でもした。
そうして自力で生を繋いだわけであった。
そうするうちに、小屋の中にいつからか在った壊れかけた三味線を弾き、闇雲にかき鳴らす日々があった。それは、おそらくは、空腹を紛らわすためではなかったか。
河原に響く三味線に、ふと足を止めた者があった。
その者こそ、はなれ瞽女、カクであった。
カクは、上手くはないが力強い音に吸い寄せられるように、音の源に足を向けた。
結局、何日か、ニタロウの小屋にカクは留まり、三味線の手ほどきをするのである。
それは、越後の高田、野口家ならではの三味線の手ほどきのやり方だった。
野口家の親方は、預かった盲目の里子を膝の上に乗せて、三味線を教えるのだ。
ハマも、同じようにして三味線を教わった。
違うのは、年落としの制裁を受けたかどうかだ。
男に狂い、年落としとなり野口家を出奔し、男と逃げて、北へ逃げて逃げて、終いにはその男に先立たれたカクであった。
生きる望みを完全に失ったカクは、その生の最後に、生きる術をニタロウに授けたのである。
この縁がニタロウ(後の仁太坊)を育んだのであり、「津軽三味線」の草創に繋がったのである。
後に、その逸話をタキゾウから聞いたハマは、有り難いと言って涙を流し、そして手を合わせた。
タキゾウは、ニタロウに憧れていた。
しかし、ニタロウの弟子にはならない、とも決めていた。
なぜなら、タキゾウは、ニタロウに負けず劣らずの「じょっぱり」だからだ。
「ニタロウさんの弟子だば。ニタロウさんには勝てね」
タキゾウはそう決心して、ほかの坊様たちは足を運ばない岩木川河口の十三界隈を門付けして周るという変わり者であった。
明治二年(一八六九年)の六月、川口村(後の蒔田村)の裕福な農家の長男として、豊川タキゾウは生まれた。
タキゾウの生みの母トヨは、タキゾウを産んで間もなく他界する。父は、その翌年後添いをもらう。
タキゾウが視力を失うのは、数えの六歳のときで、高熱にやられた結果だった。ハマと同じ麻疹ではなかったろうか。
江戸時代の津軽であれば、タキゾウは当道座に入座したであろう。当道座とは、盲人男子の互助組織で、いわゆる平家物語に出てくる琵琶法師集団のことである。当初は、ただの自治的集団であったが、徳川家康が当道座の式目(法定)を承認したことから、各藩の庇護下になった。
当道座には、階級が四つある。
上から、検校、別当、勾当、座頭の四官である。
藩が援助するわけで、検校ともなれば、武家と引けを取らない収入であった。
それが、廃藩置県となり、武家同様、藩の庇護下から外れた。
ゆえに、明治に入ると、盲人男子の立身手段としての当道座入座は無くなった。
また、当道座へは身分の無い者は入れない決まりだった。つまり、ニタロウは入れなかった。
ニタロウも、タキゾウも当道座には縁がなかったのだ。
当道座の女性版が「瞽女座」である。
瞽女座にも式目はあるが、公認ではない。公認では無かったために、明治以降もずっと残り続けたわけであるが。
タキゾウの父は、そんなニタロウを不憫に思い、三味線を買い与えた。後妻は丈夫で、子を次々と出産した。タキゾウは居場所がなくなり、その結果、自己流の三味線で他の坊様同様、家々を門付けして周るようになる。
門付芸とは、盲人の芸人が、家々の門口を訪れて演じ、米などを得ることである。瞽女の門付けと同じだ。
幸いにも、タキゾウにも天性の才はあったのだ。
しかし、自己流に不満を感じ始めたタキゾウであった。
「ニタロウさんみだいに、瞽女さに習うすかね」
そう想ったりもするが、瞽女は見当たらなかった。
津軽の盲人女性は、だいたいがイタコになる。イタコの修行も大変な苦行で知られる。後にニタロウの妻になるマンがイタコであった。
仕方なく、タキゾウは、自分の耳で、これぞと思う坊様には誰でも、教えも乞うた。その際には小銭を払う。それが、タキゾウの強みだった。
しかし、タキゾウはニタロウにだけはそれをしなかった。
なぜか。
理由は上手く説明できないが、強いて言えば、やはり「じょっぱり」(津軽弁で頑固者)だからだ。
「ニタロウさんではねえ、瞽女さだ」
しかし、そう都合よく瞽女は現れず、時は過ぎていった。
明治十八年六月、タキゾウは満十六歳となった。
唄に三味線に、情熱は冷めてはいなかったが、行き詰まりを感じていた。
来る六月二十二日(旧暦)には、毎年の川倉地蔵例大祭があり、腕利きの坊様が集まってくる。
六月頭のその日、タキゾウはいつものように、十三の願竜寺参道にゴザを敷き、三味線を弾いた。
タキゾウならではのやり方であった。
前奏の三味線を、この日、少し長く弾いてみた。
同じ節を、少しずつ変えて、何度も繰り返した。
参道に入る前から、ハマの耳には、そのタキゾウの三味線が聴こえていた。
そして、右に折れるや、それは本当に三味線であることが解ったのだ。
しばらくして、ハマは足を止める。
タケも、手を引っ張られて、立ち止まった。
間もなく、前奏が終わり、唄が始まった。
十三の砂山ナーヤーエ
米ならよかろナー
西の弁財衆にゃエー
ただ積ましょ ただ積ましょ ただ積ましょ
弁財衆にゃナーヤェ
弁財衆にゃ 西のナー
西の弁財衆にゃエー
ただ積ましょ ただ積ましょ
(盆踊り唄「十三の砂山」)
ハマは、その唄声に聴き惚れていた。
声変わりして間もない男子の、伸びやかな発声であった。
もう一度聴きたい、と率直に思うハマであった。
ただただ、いい唄であった。
その唄は、ハマの心に、ストンと落ちてきた。
「この唄は、何という唄ですか」
突然、そう問われて、タキゾウは驚き、一瞬間があった。
このあたりで、この唄を知らない者などない。旅の人か。
「十三の砂山、だ」
「トサのスナヤマ」
ハマは繰り返した。
「そうだ。盆踊りの唄で、十三の砂山唄った唄だ」
「十三の砂山、というのは本当にある山か」
再び、ハマはそう尋ねる。
「はい、この近ぐにあります。あどで案内するべが」
「いや、それには及びません」
ここで、タケが初めて口を開いた。
その青年も目が見えないので、そう言っても良いと想ったのであった。
「母は、目が見えねえのだ」
その言葉を、タキゾウはなぜか噛みしめるように、心で反芻した。
(まなぐが見えね女、、、ゴゼ)
そして、ビクっと、一瞬、無意識に体に力は入った。
心の臓に、針を立てられたような感覚に襲われたのであった。
はじまりは、どれも些細なことであるに違いない。
そして、後年、振り返って遡れば、事の起こりは、縁が重なり合って、運が支えて始まり、そして進んでいくものだった。
津軽三味線も同じであった。
津軽三味線の祖は、決して一人ではないだろう。
幾人かの繋がりが、創り上げていったということだ。
ニタロウが生まれたのは、安政三年(一八五七年)の七夕の頃、とされている。
それは奇しくも、ハマが生まれる前年のことであった。
ただ、生まれるも何も、ニタロウが生を受けたのは、河原であった。
岩木川、神原の渡守の息子として、神原の河原の小屋で生まれたというのだ。
渡守はその当時、何か特別な技能を持っていた訳ではない。ただ、その川のことをよく知っている、ということから、その役目に就いた。それだけであった。
ただ渡守になれば、当然渡し賃が入るわけだから、職にありついたことに結果としてなるわけだ。
しかし、士農工商の身分の枠外である。
つまり、そういう身分に生まれたのがニタロウの父であり、ニタロウなのである。
そのニタロウは、数えの八つのときに、疱瘡に罹り、盲目となった。
つまり、もはや生きるすべを無くしたに等しかった。少なくとも、渡守の父はそう判じたに違いない。
そして更に、ニタロウが失明した三年後、渡守の父が他界する。
それで、ニタロウは詰んだ。いや、詰んだことすら、誰も関心を寄せなかっただろう。むしろ、渡守をどうしようか、それが村人の一大事だったに違いない。
生きる術を無くしたニタロウだったが、それはその時始まったことではなかった。だから、途方に暮れることすら知らずに、やれることは何でもした。
そうして自力で生を繋いだわけであった。
そうするうちに、小屋の中にいつからか在った壊れかけた三味線を弾き、闇雲にかき鳴らす日々があった。それは、おそらくは、空腹を紛らわすためではなかったか。
河原に響く三味線に、ふと足を止めた者があった。
その者こそ、はなれ瞽女、カクであった。
カクは、上手くはないが力強い音に吸い寄せられるように、音の源に足を向けた。
結局、何日か、ニタロウの小屋にカクは留まり、三味線の手ほどきをするのである。
それは、越後の高田、野口家ならではの三味線の手ほどきのやり方だった。
野口家の親方は、預かった盲目の里子を膝の上に乗せて、三味線を教えるのだ。
ハマも、同じようにして三味線を教わった。
違うのは、年落としの制裁を受けたかどうかだ。
男に狂い、年落としとなり野口家を出奔し、男と逃げて、北へ逃げて逃げて、終いにはその男に先立たれたカクであった。
生きる望みを完全に失ったカクは、その生の最後に、生きる術をニタロウに授けたのである。
この縁がニタロウ(後の仁太坊)を育んだのであり、「津軽三味線」の草創に繋がったのである。
後に、その逸話をタキゾウから聞いたハマは、有り難いと言って涙を流し、そして手を合わせた。
タキゾウは、ニタロウに憧れていた。
しかし、ニタロウの弟子にはならない、とも決めていた。
なぜなら、タキゾウは、ニタロウに負けず劣らずの「じょっぱり」だからだ。
「ニタロウさんの弟子だば。ニタロウさんには勝てね」
タキゾウはそう決心して、ほかの坊様たちは足を運ばない岩木川河口の十三界隈を門付けして周るという変わり者であった。
明治二年(一八六九年)の六月、川口村(後の蒔田村)の裕福な農家の長男として、豊川タキゾウは生まれた。
タキゾウの生みの母トヨは、タキゾウを産んで間もなく他界する。父は、その翌年後添いをもらう。
タキゾウが視力を失うのは、数えの六歳のときで、高熱にやられた結果だった。ハマと同じ麻疹ではなかったろうか。
江戸時代の津軽であれば、タキゾウは当道座に入座したであろう。当道座とは、盲人男子の互助組織で、いわゆる平家物語に出てくる琵琶法師集団のことである。当初は、ただの自治的集団であったが、徳川家康が当道座の式目(法定)を承認したことから、各藩の庇護下になった。
当道座には、階級が四つある。
上から、検校、別当、勾当、座頭の四官である。
藩が援助するわけで、検校ともなれば、武家と引けを取らない収入であった。
それが、廃藩置県となり、武家同様、藩の庇護下から外れた。
ゆえに、明治に入ると、盲人男子の立身手段としての当道座入座は無くなった。
また、当道座へは身分の無い者は入れない決まりだった。つまり、ニタロウは入れなかった。
ニタロウも、タキゾウも当道座には縁がなかったのだ。
当道座の女性版が「瞽女座」である。
瞽女座にも式目はあるが、公認ではない。公認では無かったために、明治以降もずっと残り続けたわけであるが。
タキゾウの父は、そんなニタロウを不憫に思い、三味線を買い与えた。後妻は丈夫で、子を次々と出産した。タキゾウは居場所がなくなり、その結果、自己流の三味線で他の坊様同様、家々を門付けして周るようになる。
門付芸とは、盲人の芸人が、家々の門口を訪れて演じ、米などを得ることである。瞽女の門付けと同じだ。
幸いにも、タキゾウにも天性の才はあったのだ。
しかし、自己流に不満を感じ始めたタキゾウであった。
「ニタロウさんみだいに、瞽女さに習うすかね」
そう想ったりもするが、瞽女は見当たらなかった。
津軽の盲人女性は、だいたいがイタコになる。イタコの修行も大変な苦行で知られる。後にニタロウの妻になるマンがイタコであった。
仕方なく、タキゾウは、自分の耳で、これぞと思う坊様には誰でも、教えも乞うた。その際には小銭を払う。それが、タキゾウの強みだった。
しかし、タキゾウはニタロウにだけはそれをしなかった。
なぜか。
理由は上手く説明できないが、強いて言えば、やはり「じょっぱり」(津軽弁で頑固者)だからだ。
「ニタロウさんではねえ、瞽女さだ」
しかし、そう都合よく瞽女は現れず、時は過ぎていった。
明治十八年六月、タキゾウは満十六歳となった。
唄に三味線に、情熱は冷めてはいなかったが、行き詰まりを感じていた。
来る六月二十二日(旧暦)には、毎年の川倉地蔵例大祭があり、腕利きの坊様が集まってくる。
六月頭のその日、タキゾウはいつものように、十三の願竜寺参道にゴザを敷き、三味線を弾いた。
タキゾウならではのやり方であった。
前奏の三味線を、この日、少し長く弾いてみた。
同じ節を、少しずつ変えて、何度も繰り返した。
参道に入る前から、ハマの耳には、そのタキゾウの三味線が聴こえていた。
そして、右に折れるや、それは本当に三味線であることが解ったのだ。
しばらくして、ハマは足を止める。
タケも、手を引っ張られて、立ち止まった。
間もなく、前奏が終わり、唄が始まった。
十三の砂山ナーヤーエ
米ならよかろナー
西の弁財衆にゃエー
ただ積ましょ ただ積ましょ ただ積ましょ
弁財衆にゃナーヤェ
弁財衆にゃ 西のナー
西の弁財衆にゃエー
ただ積ましょ ただ積ましょ
(盆踊り唄「十三の砂山」)
ハマは、その唄声に聴き惚れていた。
声変わりして間もない男子の、伸びやかな発声であった。
もう一度聴きたい、と率直に思うハマであった。
ただただ、いい唄であった。
その唄は、ハマの心に、ストンと落ちてきた。
「この唄は、何という唄ですか」
突然、そう問われて、タキゾウは驚き、一瞬間があった。
このあたりで、この唄を知らない者などない。旅の人か。
「十三の砂山、だ」
「トサのスナヤマ」
ハマは繰り返した。
「そうだ。盆踊りの唄で、十三の砂山唄った唄だ」
「十三の砂山、というのは本当にある山か」
再び、ハマはそう尋ねる。
「はい、この近ぐにあります。あどで案内するべが」
「いや、それには及びません」
ここで、タケが初めて口を開いた。
その青年も目が見えないので、そう言っても良いと想ったのであった。
「母は、目が見えねえのだ」
その言葉を、タキゾウはなぜか噛みしめるように、心で反芻した。
(まなぐが見えね女、、、ゴゼ)
そして、ビクっと、一瞬、無意識に体に力は入った。
心の臓に、針を立てられたような感覚に襲われたのであった。
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