邪神さまのペット

水無月

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邪神さまとお風呂

 急いで袖で涙を拭う。チャリッと、重い音がした。

『なんで手錠してるの? そんなに暴れるの?』

 手錠を見て不思議そうに呟くと、少年は細い指で手錠に触れる。
 音もなく、手錠は砂となって落ちた。

「……な」

 砂になった手錠が床に落ちるも、瞬きと共に消滅する。
 俺はずずっと鼻をすすった。

「なんで……」
『お風呂行こうか』

 急いで涙を拭う。人前で泣いたことを恥じた。
 クッキー缶を仕舞うと、少年は膝の上に乗っかってくる。向かい合うように。

「え?」

 ち、近っ。
 髪の毛と同じ色のまつ毛が一本一本はっきり見え、きめの細かい肌は思わず触れてしまいそうになるほど。膝から伝わる体温はあったかく、見た目通りもちもちしている。俺に変な趣味があったらやばかった。形の良い耳は少し尖り、香水だろうか。クッキーとは違う甘い香りがする。

『お風呂行くからねー。脱ぎましょうねー』

 役人の上着をするりと肩から下ろし、破かれた衣服を脱がしていく。

「え、あ。自分で、脱ぎますよ……」
『あ、喋った。んふふ。いい子』

 くすくす笑う表情も愛らしいが、もちろん油断してはならない。これは恐ろしい化け物なわけで――
 少年は俺の肩に手を置くと、口に唇を押し当ててきた。

 ふにっ。

「……?」

 俺の頭に、大量のハテナが整列した。

 え、え?
 キス? キス、されている……? されている、な? うん。されてるわ。
 なん、え、なんで? 汚いですよ俺は。いや、そもそもキスなのか? モンスター的には「今から殺す」な意味だったらどうしよう。その前にこいつは絶対、モンスターじゃない。そんな気がしてならない。モンスターでも獣人でもない。地上を這う生物より、どこか、一段上の存在のような――

 初めての口づけに完璧に硬直していると、少年は顔の角度を変え、二回、三回とついばんでくる。最後にぺろっと俺の上唇を舐めると顔を離した。

『じゃ、脱いでね。服は……服っていうかボロ布だよね。その辺に置いといて』

 背もたれがなければ絶対にひっくり返っている。
 俺のファーストキッス。顔を覆って蹲り、奇声を上げたかったが「脱げ」という命令が出ている。異種族に逆らえない人間(俺)は速やかに衣服を取っ払った。

『ひょろい、ね』

 憐みの目が向けられる。いちいち感想を言わなくていいです。心に刺さるんで。

「俺は、どうすれば……?」
『部屋のお風呂使おっか。こっちおいで』

 手招きされ、ついていこうと腰を上げるも膝に力が入らなかった。

「あっ」

 カーペットの上に倒れ込んでしまう。

 「いってぇ」と顔を上げ、カーペットにはっと目を落とした。

(しまった! 汚した。罰せられるんじゃ……)

 獣人の怒りを思い出し、腕が小刻みに震える。起き上がれずにいると、視界に部屋用のスリッパ(うさちゃんの顔と耳付き)が入り込んだ。
 シャンデリアの明かりが逆光となり、青い目が二つ、口で弧を描いた少年が見下ろしてくる。死んだかと思った。

『お風呂嫌い?』

 必死の思いで首を振る。

「すみません! ろくに食べてなくて、歩けなくて……」
『そうなの? こけちゃうなんてかわいいね』

 可愛いの基準が謎だったが、怒ってないのならどうでも良かった。少年はしゃがむと腕を伸ばしてくる。てっきり引きずって行かれるのかと思ったが、

『じっとしててね?』
「え? はい」

 頼りない腕でひょいと俺を抱き上げた。

「⁉」

 真面目に驚いてから、「ああそうじゃん。人間じゃないんだった」と思い出す。

「お……俺に、ふれると、汚れますよ?」

 きれいな純白のシャツが。カフスが青い宝石で、これ一枚で(働いていた頃の)俺の年収を使い切りそう。
 それに引きかえ俺はうっすら泥でコーティングされているかのように汚れている。体臭も、ちょっとした小動物なら殺せそうだ。今思えば俺を抱えた役人たちよく顔をしかめなかったなと思う。

 この少年にも当てはまることだが。

『だからお風呂に入るんでしょ? お風呂でできれいにしようね』

 にこっと笑みを浮かべる。ペットが手に入り、喜んでいる子どもの顔だった。汚れなどまるで気にしていないように。

「……はい」
『大人しいねー。いい子いい子』

 重みを感じていないように歩く。

「あの、質問をしても、よろしいですか?」
『うん? もしかしてお風呂知らない?』
「あ、いえ。……あなたは、誰なの、ですか?」
『ああ、僕?』

 眼球だけ俺に向けられる。それだけで寒さなのか恐怖なのか、どっちで震えているのか自分でも分からなくなった。
 ゴクリと息を呑む。

「モンスター……では、ないですよね」
『へー。そういうの分かるんだ。たまにいるよね。そういう子』

 扉がこれまた独りでに開き、無駄に広い空間が現れる。床と天井が石畳の円形部屋。室内をぐるりと取り囲むのはガラスで、外の風景がよく見えた。晴れた空の下で、白い花が可憐に咲いている。
 バスチェアではなく、カフェなどに置いてそうな椅子にやさしく置いてくれた。

『君は僕のペットなんだし。名前……付けてあげなきゃ駄目だよね?』
「え? はい……」

 頷いておく。変な名前を付けられるのは嫌だが、「人間」と呼ばれても複雑だ。

『んー? ドール(お人形)ちゃんでいっか』
「ヲっ」

 色々言いたいが、俺にそんな権利はないだろう。現に少年も「これでいい?」と俺の意志を聞いてこなかった。

 パチンと指を鳴らすと、雨が降ってくる。

 雨?

「え?」
『シャワーだよ。怖くない怖くない』

 天井全面から、お湯が雨となって降り注ぎ石畳を叩いた。大雨の日を錯覚させるような音が響く。お湯は溜まることなく、床に数か所空いた穴に流れていく。凍え切った身体が、ほぐれていくようだ。無意識に入っていた力が抜ける。

「……ほう」
『気持ちいい? ドールちゃん』

 はっと横を見る。これじゃあ少年もずぶ濡れなんじゃないかと……

「気持ちいい、です……」

 少年はまるでこの場にいないかのように、濡れていなかった。角も服も。

『そっか。僕はシュリオン。シュリオン・ベルフェニス。よろしく』
「――」

 開いた口が塞がらないという現象を体験した。
 シュリオン・ベルフェニス。神の中でも最も知名度が高いのではないだろうか。

 邪神――

 人間の創造神がアクティさまならこの神は。モンスターの生みの親であり、闇サイドの最高神でもある。
 もちもち太ももの少年姿だが、れっきとした神の一柱。

(俺……邪神とお風呂に入ってる……?)

 衝撃のあまり、思考がアホになった。
 シュリオンは手を叩いてシャワーを止める。

『そこに石けんがあるから、身体洗ってね』
「は、い……」

 思考が纏まらないまま、身体を洗う。信じられないほど気持ちが良い。髪も肌も泡まみれになるとシャワーが降ってくる。

 ……久しぶりだった。全身ピカピカ。「人間」になれたような爽快感。

 感動していると「湯船に入ってね」と声がした。振り返るとチェアに腰掛け、足をぶらぶらさせている。無邪気でかわ……やっぱ怖いな。

「入ります……」
『んふっ。いちいち報告してくるの。かわいい』

 にっこにこ笑顔だ。怒らせたら命はないという緊張感が、足先を冷たくさせる。
 足がゴールドの白い猫足バスタブ。ご丁寧に置かれた踏み台に足を乗せてから跨った。お湯に片足を浸ける。少し熱めで、白い花びらが浮いていた。

 肩までざぶんと浸かる。

「ああ~~~」

 邪神さまが真横にいるというのに、おっさんのような声を出してしまう。でもこれは仕方がないと思う。出る。お湯に入ると。こういう声が。

「ああ……。こんな、こんな幸せなんて、もう無いと思ってたのに……」

 甘く清涼感のある香り。うっとりしているとお湯が波打った。

「え?」

 目を開けると、正面に全裸の少年が同じように湯に浸かっていた。

「邪神さまっ⁉」

 恐れ多くて名前など、口にできるはずもなく。しかしそれで正解だったように邪神さまは片目を開けた。

『うーん。真っ黒じゃ、ないね』

 何のことかと思ったが、すぐ髪のことだと気がついた。
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