母が生きていれば、それで十分

希臘楽園

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 断頭台の冷たい風を、私はよく覚えている。

 罪状は王家転覆の陰謀。婚約者である庶子王子ルイ殿下がアルノー王太子殿下の排除を企てた、その黒幕が私だというものだった。断罪の場で袖で目をおおい、しくしくと泣いて見せていたのは、侯爵家に義妹として迎えられたマリアだった。ルイ殿下はその隣で、憐れむような目を私に向けていた。

 馬鹿馬鹿しい。

 私、レリーナ・ヴァンクール侯爵令嬢は、そう思いながら死んだ。

 真実はこうだ。マリアがルイ殿下に野心を吹き込んだ。庶子とはいえ長男であるルイ殿下が王太子を排除すれば王位継承権が手に入る、と。そそのかされた殿下が実際に動き始めたところで、マリアは全てを私の罪になすりつけた。殿下をたぶらかして王家転覆を企てた悪女、と。

 しかしその計画は最初から破綻していた。王太子殿下が排除されたとして、発覚すればルイ殿下もマリアも処刑は免れない。マリアが王妃になれる保証などどこにもなかった。私が処刑された後、二人がどうなったかは知らない。ただ、死後に私の名誉が回復されたらしい。ということは、真実が明らかになったのだろう。全員が不幸な結末だ。

 馬鹿馬鹿しい、と私は繰り返す。そんな理由で死んだのかと。

 気がつくと、私は八歳の身体に戻っていた。

 逆行だ、と理解するのに時間はかからなかった。前世の記憶が、嘘のように鮮明なまま残っていたから。

 領地の領主館、私の子供部屋。窓の外には見慣れた庭が広がっている。そして廊下の向こうから聞こえてくる、母の声。

「セバン、東の小作人への麦の配分を見直しなさい。このままでは冬に不足が出ます」

「かしこまりました、奥様」

 エルゼ・ヴァンクール侯爵夫人。私の母だ。

 前世では、私が十歳の時に死んだ。長く続くせきと、じわじわとむしばまれていく体力。当時は原因もわからないまま逝ってしまったが、母の死から数年後、同じ症状を持つ患者に効く薬草の処方が医学会で発表されたと聞いた。肺をおかす特定の菌に、山の北斜面に自生するセルフィという薬草が有効だと。

 あの発表がもう少し早ければ、と何度思ったことか。

 でも今は違う。私はその答えを知っている。

 私はベッドから降りて、廊下へ出た。

「あら、リーナ。もう目が覚めたの」

 母が振り返る。四十前の、まだ若くて凛とした顔。この顔が病で痩せ細っていくのを、私は前世で見ていた。

「お母様、セバンに少し聞いてもいいですか」

「どうぞ。セバンも構いませんね」

「もちろんでございます、お嬢様」

 執事のセバンは白髪混じりの誠実な顔をした老人で、母が最も信頼する人物だった。前世でも、母の死後は私を陰から支えてくれた。

「あのね、書庫で薬草の本を読んでいたら、気になることがあって」

 私は事前に考えていた口実を、できるだけ自然に口にした。

「セルフィという薬草を知っていますか? 北の山の斜面に生えるもので、肺の病に効くって書いてあったんです。どこで手に入るのかしら、と思って」

 セバンは少し考えてから、穏やかに微笑んだ。

「よく珍しいものをお調べになりますね、お嬢様。確かにセルフィは薬効が高いと古い文献にも記述があります。ただ流通はほとんどしておらず、専門の薬師を通じなければ入手は難しいかと」

「では、調べてもらえますか? なんとなく、手元に置いておきたくて」

 母が少し驚いた顔で私を見た。

「まあ、リーナったら。勉強熱心ね」

「お母様が領地のことにいつも一生懸命だから、私も色々覚えたくて」

 嘘ではなかった。ただ、理由が少し違うだけで。

 セバンはその後、几帳面に薬師への伝手つて辿たどり、三ヶ月後にはセルフィの乾燥薬を確保してくれた。私はそれを自室の引き出しに大切にしまった。

 母のせきが出始めたのは、それから半年後のことだった。

「お母様、これを」

 私が差し出すと、母は怪訝けげんそうな顔をしたが、セバンが横から「以前お嬢様がご用意されていた薬草でございます。一度、かかりつけの医師にご確認いただいてはいかがでしょう」と添えてくれた。

 医師はセルフィの薬効に半信半疑だったが、試してみる価値はあると判断した。母は素直に処方に従った。

 二ヶ月後、母のせきは止まっていた。

 半年後、医師は首をかしげながらも「すっかり快復された」と言った。

 私はその夜、一人で泣いた。前世では間に合わなかったから。今世では間に合ったから。どちらの涙かわからないまま、ただ泣いた。


 母が快復した同じ年、私の婚約が決まった。

 お相手は庶子王子、ルイ・フォーレ殿下。王家にはアルノー王太子殿下とルイ殿下の二人しかおらず、殿下は側室腹の長男ではあるが王位継承とは無縁の立場だった。穏やかで誠実な方だという評判に偽りはなく、初めてお会いした時から気さくに話しかけてくださった。

 婚約の儀は王都の侯爵館で執り行われた。普段は父が入り浸っており側室を囲っている場所だが、母はいつもと変わらぬ顔で全てを仕切り、父は隅で小さくなっていた。

 父、ヴァルト・ヴァンクール侯爵。領地経営は母に任せきり、自身は王都で側室と気ままに暮らしている人だ。母の部下が王都での父の行動を逐一報告しているのを、私は知っていた。父もそれを知っているから、母の前では借りてきた猫のように小さくなる。

 前世では母が死んで、その均衡が崩れた。父は側室を侯爵家に迎え入れ、その娘が私の義妹として収まった。それがマリアだ。侯爵家の令嬢として貴族学校に入り、ルイ殿下に近づき、野心を吹き込んだ。

 今世では、その均衡は崩れない。母が生きている限り、父が側室を家に迎え入れることなど出来ない。マリアは存在するかもしれないが、侯爵家の令嬢にはなれない。貴族学校にも入れない。ルイ殿下に近づく機会もない。

 それで十分だった。


 貴族学校の六年間は、前世より随分穏やかだった。

 前世では一年後、義妹マリアも入学した直後から私への嫌がらせが始まり、ルイ殿下との仲も少しずつ引き裂かれていった。今世では、そもそも義妹がいない。ルイ殿下は相変わらず穏やかで、私の隣に自然といる。

 在学中にアルノー王太子殿下が公爵令嬢と婚約され、卒業と同時に即位された。華やかな戴冠式を遠目に眺めながら、ルイ殿下が穏やかに言った。

「アルノーが王になった。これで私たちは本当に、王位とは無縁に生きていけるね」

 その声に野心の欠片もなかった。当然だ。誰も殿下に野心など吹き込んでいないのだから。

「それが一番良うございます」と私は答えた。心からそう思った。

 王太子の即位を見届けて、私たちの結婚式も王宮で執り行われた。母がヴァンクール侯爵家の代表として、父はやはり隅で居心地悪そうにしていた。王都の侯爵館で側室と、間に生まれた娘、それを侯爵家に迎え入れられない鬱憤うっぷんを抱えているらしかったが、知ったことではない。

 誓いの言葉を述べながら、私はそっと母を見た。元気で、凛として、相変わらず父より十倍頼りになる顔で立っている。

 前世では此処に辿り着けなかった。断頭台の風の冷たさだけを知って死んだ。

 今世では、母が生きている。それだけで、全てが違った。

 断罪も、処刑も、どこにもない未来が、今日から続いていく。父はこの先も賢妻の監視下で萎縮し続けるだろう。王太子を排除しようなどと誰にもそそのかされなかったルイ殿下は、今日も私の隣で穏やかに微笑んでいる。

 私は前を向いて、微笑んだ。母が生きていれば、それで十分だった。
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