1 / 4
第一章 均衡
しおりを挟む
ルーメンブルク王国の王都アルセリアの春は遅い。
白亜の王城を囲む庭園にもまだ硬い蕾しかなく、石造りの回廊を渡る風は冷たい。その冷気の中に、この国の均衡もまた、目に見えぬ形で張り詰めていた。
王国を支えるのは、二つの大公爵家である。
一つは公爵家アストリア。現王妃の実家であり、古くから王宮の中枢を担ってきた家だ。内政、財務、近衛の人事に至るまで、宮廷の要所には必ずアストリアの縁者がいる。秩序を重んじ、伝統を守ることを第一とするその姿勢は、多くの貴族に安心を与えてきた。
もう一つは公爵家ベルンハルト。西方諸国との交易路を掌握し、幾度もの外交危機を収めてきた家である。国外に広い人脈を持ち、柔軟な思考で時流を読む。王国の外へと視線を向ける役割を担ってきた。
両家は拮抗していた。
露骨に争うことはない。だが、王宮の会議室において、あるいは舞踏会の片隅において、常に見えぬ綱が張られている。どちらかが一歩踏み出せば、もう一方が必ず重石を置く。その均衡の上に、この王国は保たれてきた。
現王エドワルドは、その均衡の上に立つ存在だった。
隣国から迎えられた王配上がりの国王。血統としては正統だが、王国に根を張る両公爵家に比べれば基盤は弱い。ゆえに王は中立を保ち続けた。どちらにも深く与せず、どちらにも明確に逆らわない。
その王の一人息子、王太子レオンハルトは、母方であるアストリア公爵家の影響を色濃く受けて育った。
聡明で、冷静で、感情を表に出さぬ青年。
だが彼自身は知っている。己が立つ場所が、決して盤石ではないことを。
王家の威は、均衡の上にしか存在しない。
だからこそ、数年前に決まった婚約は、政治的必然だった。
王太子の婚約者として選ばれたのは、公爵家ベルンハルトの令嬢、クラウディア。
それは王家の明確な意思表示であった。二大公爵家の均衡を、次代にも持ち越すという宣言。
アストリア家にとっては不満を呑み込む決定であり、ベルンハルト家にとっては悲願に近い。
そして当のレオンハルトにとっては――
まだ、ただの政略に過ぎなかった。
初めて正式に対面したのは、王城南棟の小広間だった。
大仰な儀礼は省かれ、両家の重鎮が数名立ち会うだけの、控えめな顔合わせ。
クラウディアは淡い灰青のドレスをまとい、静かに一礼した。
「お目にかかれて光栄です、殿下」
声音は柔らかいが、揺らぎがない。
レオンハルトは一瞬、その目に宿る理知を見た。
「こちらこそ。今後、王国のために力を貸してほしい」
形式的な言葉。
だが彼女はわずかに微笑み、答えた。
「王国のため、というのであれば。まずは西方同盟との関係を整理なさるべきかと存じます」
立会人たちが息を呑む。
顔合わせの場で、いきなり外交の話題を出す令嬢は多くない。
だが彼女は続けた。
「近年、アストリア家主導の関税改定により、隣国との交易が停滞しております。均衡を保つには、外との流れを滞らせぬことが肝要かと」
穏やかな口調。だが、核心を突いている。
レオンハルトはわずかに目を細めた。
反発でも、挑発でもない。
ただ事実を述べている。
「……詳しく聞かせてもらおう」
その瞬間、彼は理解した。
この婚約は、単なる均衡の駒では終わらないかもしれない。
対等に言葉を交わせる相手。
それは、王太子という立場にあって、初めて得た感覚だった。
だが同時に、宮廷の空気が微かに軋むのも感じていた。
アストリア家の重鎮の視線が、わずかに硬い。
ベルンハルト家の当主は静かに成り行きを見守っている。
均衡は保たれている。
しかし、均衡とは常に不安定なものだ。
レオンハルトはその日、確かに予感していた。
この婚約が、王国の未来を左右することを。
それが、どのような形であれ。
春はまだ遠い。
王都の庭園に蕾がほころぶよりも早く、王宮の均衡は、わずかに軋み始めていた。
白亜の王城を囲む庭園にもまだ硬い蕾しかなく、石造りの回廊を渡る風は冷たい。その冷気の中に、この国の均衡もまた、目に見えぬ形で張り詰めていた。
王国を支えるのは、二つの大公爵家である。
一つは公爵家アストリア。現王妃の実家であり、古くから王宮の中枢を担ってきた家だ。内政、財務、近衛の人事に至るまで、宮廷の要所には必ずアストリアの縁者がいる。秩序を重んじ、伝統を守ることを第一とするその姿勢は、多くの貴族に安心を与えてきた。
もう一つは公爵家ベルンハルト。西方諸国との交易路を掌握し、幾度もの外交危機を収めてきた家である。国外に広い人脈を持ち、柔軟な思考で時流を読む。王国の外へと視線を向ける役割を担ってきた。
両家は拮抗していた。
露骨に争うことはない。だが、王宮の会議室において、あるいは舞踏会の片隅において、常に見えぬ綱が張られている。どちらかが一歩踏み出せば、もう一方が必ず重石を置く。その均衡の上に、この王国は保たれてきた。
現王エドワルドは、その均衡の上に立つ存在だった。
隣国から迎えられた王配上がりの国王。血統としては正統だが、王国に根を張る両公爵家に比べれば基盤は弱い。ゆえに王は中立を保ち続けた。どちらにも深く与せず、どちらにも明確に逆らわない。
その王の一人息子、王太子レオンハルトは、母方であるアストリア公爵家の影響を色濃く受けて育った。
聡明で、冷静で、感情を表に出さぬ青年。
だが彼自身は知っている。己が立つ場所が、決して盤石ではないことを。
王家の威は、均衡の上にしか存在しない。
だからこそ、数年前に決まった婚約は、政治的必然だった。
王太子の婚約者として選ばれたのは、公爵家ベルンハルトの令嬢、クラウディア。
それは王家の明確な意思表示であった。二大公爵家の均衡を、次代にも持ち越すという宣言。
アストリア家にとっては不満を呑み込む決定であり、ベルンハルト家にとっては悲願に近い。
そして当のレオンハルトにとっては――
まだ、ただの政略に過ぎなかった。
初めて正式に対面したのは、王城南棟の小広間だった。
大仰な儀礼は省かれ、両家の重鎮が数名立ち会うだけの、控えめな顔合わせ。
クラウディアは淡い灰青のドレスをまとい、静かに一礼した。
「お目にかかれて光栄です、殿下」
声音は柔らかいが、揺らぎがない。
レオンハルトは一瞬、その目に宿る理知を見た。
「こちらこそ。今後、王国のために力を貸してほしい」
形式的な言葉。
だが彼女はわずかに微笑み、答えた。
「王国のため、というのであれば。まずは西方同盟との関係を整理なさるべきかと存じます」
立会人たちが息を呑む。
顔合わせの場で、いきなり外交の話題を出す令嬢は多くない。
だが彼女は続けた。
「近年、アストリア家主導の関税改定により、隣国との交易が停滞しております。均衡を保つには、外との流れを滞らせぬことが肝要かと」
穏やかな口調。だが、核心を突いている。
レオンハルトはわずかに目を細めた。
反発でも、挑発でもない。
ただ事実を述べている。
「……詳しく聞かせてもらおう」
その瞬間、彼は理解した。
この婚約は、単なる均衡の駒では終わらないかもしれない。
対等に言葉を交わせる相手。
それは、王太子という立場にあって、初めて得た感覚だった。
だが同時に、宮廷の空気が微かに軋むのも感じていた。
アストリア家の重鎮の視線が、わずかに硬い。
ベルンハルト家の当主は静かに成り行きを見守っている。
均衡は保たれている。
しかし、均衡とは常に不安定なものだ。
レオンハルトはその日、確かに予感していた。
この婚約が、王国の未来を左右することを。
それが、どのような形であれ。
春はまだ遠い。
王都の庭園に蕾がほころぶよりも早く、王宮の均衡は、わずかに軋み始めていた。
0
あなたにおすすめの小説
王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~
由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。
両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。
そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。
王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。
――彼が愛する女性を連れてくるまでは。
いっとう愚かで、惨めで、哀れな末路を辿るはずだった令嬢の矜持
空月
ファンタジー
古くからの名家、貴き血を継ぐローゼンベルグ家――その末子、一人娘として生まれたカトレア・ローゼンベルグは、幼い頃からの婚約者に婚約破棄され、遠方の別荘へと療養の名目で送られた。
その道中に惨めに死ぬはずだった未来を、突然現れた『バグ』によって回避して、ただの『カトレア』として生きていく話。
※悪役令嬢で婚約破棄物ですが、ざまぁもスッキリもありません。
※以前投稿していた「いっとう愚かで惨めで哀れだった令嬢の果て」改稿版です。文章量が1.5倍くらいに増えています。
婚約なんてするんじゃなかったが口癖の貴方なんて要りませんわ
神々廻
恋愛
「天使様...?」
初対面の時の婚約者様からは『天使様』などと言われた事もあった
「なんでお前はそんなに可愛げが無いんだろうな。昔のお前は可愛かったのに。そんなに細いから肉付きが悪く、頬も薄い。まぁ、お前が太ったらそれこそ醜すぎるがな。あーあ、婚約なんて結ぶんじゃなかった」
そうですか、なら婚約破棄しましょう。
繰り返しのその先は
みなせ
ファンタジー
婚約者がある女性をそばに置くようになってから、
私は悪女と呼ばれるようになった。
私が声を上げると、彼女は涙を流す。
そのたびに私の居場所はなくなっていく。
そして、とうとう命を落とした。
そう、死んでしまったはずだった。
なのに死んだと思ったのに、目を覚ます。
婚約が決まったあの日の朝に。
真実の愛のおつりたち
毒島醜女
ファンタジー
ある公国。
不幸な身の上の平民女に恋をした公子は彼女を虐げた公爵令嬢を婚約破棄する。
その騒動は大きな波を起こし、大勢の人間を巻き込んでいった。
真実の愛に踊らされるのは当人だけではない。
そんな群像劇。
君を幸せにする、そんな言葉を信じた私が馬鹿だった
白羽天使
恋愛
学園生活も残りわずかとなったある日、アリスは婚約者のフロイドに中庭へと呼び出される。そこで彼が告げたのは、「君に愛はないんだ」という残酷な一言だった。幼いころから将来を約束されていた二人。家同士の結びつきの中で育まれたその関係は、アリスにとって大切な生きる希望だった。フロイドもまた、「君を幸せにする」と繰り返し口にしてくれていたはずだったのに――。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
【完結済】次こそは愛されるかもしれないと、期待した私が愚かでした。
こゆき
恋愛
リーゼッヒ王国、王太子アレン。
彼の婚約者として、清く正しく生きてきたヴィオラ・ライラック。
皆に祝福されたその婚約は、とてもとても幸せなものだった。
だが、学園にとあるご令嬢が転入してきたことにより、彼女の生活は一変してしまう。
何もしていないのに、『ヴィオラがそのご令嬢をいじめている』とみんなが言うのだ。
どれだけ違うと訴えても、誰も信じてはくれなかった。
絶望と悲しみにくれるヴィオラは、そのまま隣国の王太子──ハイル帝国の王太子、レオへと『同盟の証』という名の厄介払いとして嫁がされてしまう。
聡明な王子としてリーゼッヒ王国でも有名だったレオならば、己の無罪を信じてくれるかと期待したヴィオラだったが──……
※在り来りなご都合主義設定です
※『悪役令嬢は自分磨きに忙しい!』の合間の息抜き小説です
※つまりは行き当たりばったり
※不定期掲載な上に雰囲気小説です。ご了承ください
4/1 HOT女性向け2位に入りました。ありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる