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第三章 動揺
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春の陽射しが、ようやく王城の石壁をやわらかく照らす頃。
婚約から半年が過ぎていた。
王太子レオンハルトとクラウディアの名は、宮廷の中で静かに並び称されるようになっていた。
聡明な王太子と、理知的な公爵令嬢。
華やかさよりも、堅実さ。
舞踏会でも二人は必要以上に寄り添わない。ただ隣に立ち、言葉を交わし、場を整える。その姿は不思議な安定感をもたらしていた。
だが、南塔の書庫では、また別の顔があった。
「東部の治水計画ですが」
クラウディアは机上の図面を広げる。
「アストリア家の案では費用がかさみすぎます。三年計画を五年に延ばし、段階的に実施すれば民の負担は軽減できます」
「だが速度が落ちる」
「ええ。しかし急ぎすぎれば、反発が出ます。王家主導の改革は、支持があってこそ成り立つものです」
言葉は穏やかだが、芯がある。
レオンハルトは図面から顔を上げ、彼女を見る。
「君は、なぜそこまで王家の立場を慮る」
「婚約者ですもの」
さらりと返され、彼はわずかに目を細めた。
「それだけか」
クラウディアは少しだけ考え、答える。
「……殿下が、王家を守ろうとなさっているからです。でしたら、私も同じ方向を向くべきでしょう」
その言葉に、レオンハルトは沈黙した。
守ろうとしている。
自覚はあった。だがそれを口にしたことはなかった。
王家は、二大公爵家の均衡の上に立つ存在だ。
父王は中立を保ち続けてきた。
母はアストリア家の誇りを背負っている。
その間で、次代の王としてどう在るべきか。
彼は常に考えていた。
クラウディアは静かに続ける。
「均衡は、守るだけでは衰えます。ですが急に動かせば崩れます。……殿下なら、その中庸を選べると信じております」
信じている。
その言葉は、不思議な重みを持っていた。
誰も彼に、そう言ったことはなかった。
その日、書庫を出た後も、彼女の言葉は胸に残り続けた。
――中庸を選べると、信じている。
だが宮廷の空気は、穏やかではなかった。
会議の場で、アストリア家の重臣が発言する。
「近頃、王太子殿下のご判断は、いささかベルンハルト家寄りに見受けられますな」
婉曲な非難。
レオンハルトは表情を変えず答える。
「王家は王国に寄る」
「もちろん。しかし妃となられる方の影響が強すぎれば、周囲は不安を抱きましょう」
不安。
それは脅しではない。
だが確かな圧力だった。
夜、私室に戻ったレオンハルトは、灯りを落とさぬまま椅子に身を沈めた。
もしクラウディアが妃となれば。
ベルンハルト家の発言力は増す。
アストリア家は警戒を強める。
均衡は揺らぐ。
では、婚約を解消すれば。
均衡は保たれる。
だが彼女は政治の駒として遠ざけられる。
彼は目を閉じる。
いつの間にか、彼女との議論は、ただの政策検討ではなくなっていた。
対等に言葉を交わし、否定も肯定も恐れずに済む相手。
それを、失う。
窓の外で風が鳴った。
均衡とは何だ。
守るべきものか。
それとも、いずれ変えるべきものか。
数日後、書庫で向き合ったとき、クラウディアは彼の沈黙に気づいた。
「お悩みですか」
「少しな」
「私に関わることでしたら、率直にお話しください」
逃げ場を与えない、まっすぐな視線。
レオンハルトはわずかに笑った。
「君は、強いな」
「殿下が弱くならぬために、です」
冗談めかして言うが、その実、真剣だった。
彼はそのとき、はっきりと自覚する。
自分は彼女を、ただの均衡の駒として見てはいない。
尊敬している。
信頼している。
そして――好ましく思っている。
だからこそ。
彼女が、宮廷の軋轢の中心に立つ未来を想像すると、胸が重くなる。
均衡は、静かに揺らいでいる。
まだ崩れてはいない。
だが、何も選ばねば、いずれ崩れる。
レオンハルトは、ゆっくりと息を吐いた。
選択の時は、近い。
春の蕾が、ほころび始めていた。
婚約から半年が過ぎていた。
王太子レオンハルトとクラウディアの名は、宮廷の中で静かに並び称されるようになっていた。
聡明な王太子と、理知的な公爵令嬢。
華やかさよりも、堅実さ。
舞踏会でも二人は必要以上に寄り添わない。ただ隣に立ち、言葉を交わし、場を整える。その姿は不思議な安定感をもたらしていた。
だが、南塔の書庫では、また別の顔があった。
「東部の治水計画ですが」
クラウディアは机上の図面を広げる。
「アストリア家の案では費用がかさみすぎます。三年計画を五年に延ばし、段階的に実施すれば民の負担は軽減できます」
「だが速度が落ちる」
「ええ。しかし急ぎすぎれば、反発が出ます。王家主導の改革は、支持があってこそ成り立つものです」
言葉は穏やかだが、芯がある。
レオンハルトは図面から顔を上げ、彼女を見る。
「君は、なぜそこまで王家の立場を慮る」
「婚約者ですもの」
さらりと返され、彼はわずかに目を細めた。
「それだけか」
クラウディアは少しだけ考え、答える。
「……殿下が、王家を守ろうとなさっているからです。でしたら、私も同じ方向を向くべきでしょう」
その言葉に、レオンハルトは沈黙した。
守ろうとしている。
自覚はあった。だがそれを口にしたことはなかった。
王家は、二大公爵家の均衡の上に立つ存在だ。
父王は中立を保ち続けてきた。
母はアストリア家の誇りを背負っている。
その間で、次代の王としてどう在るべきか。
彼は常に考えていた。
クラウディアは静かに続ける。
「均衡は、守るだけでは衰えます。ですが急に動かせば崩れます。……殿下なら、その中庸を選べると信じております」
信じている。
その言葉は、不思議な重みを持っていた。
誰も彼に、そう言ったことはなかった。
その日、書庫を出た後も、彼女の言葉は胸に残り続けた。
――中庸を選べると、信じている。
だが宮廷の空気は、穏やかではなかった。
会議の場で、アストリア家の重臣が発言する。
「近頃、王太子殿下のご判断は、いささかベルンハルト家寄りに見受けられますな」
婉曲な非難。
レオンハルトは表情を変えず答える。
「王家は王国に寄る」
「もちろん。しかし妃となられる方の影響が強すぎれば、周囲は不安を抱きましょう」
不安。
それは脅しではない。
だが確かな圧力だった。
夜、私室に戻ったレオンハルトは、灯りを落とさぬまま椅子に身を沈めた。
もしクラウディアが妃となれば。
ベルンハルト家の発言力は増す。
アストリア家は警戒を強める。
均衡は揺らぐ。
では、婚約を解消すれば。
均衡は保たれる。
だが彼女は政治の駒として遠ざけられる。
彼は目を閉じる。
いつの間にか、彼女との議論は、ただの政策検討ではなくなっていた。
対等に言葉を交わし、否定も肯定も恐れずに済む相手。
それを、失う。
窓の外で風が鳴った。
均衡とは何だ。
守るべきものか。
それとも、いずれ変えるべきものか。
数日後、書庫で向き合ったとき、クラウディアは彼の沈黙に気づいた。
「お悩みですか」
「少しな」
「私に関わることでしたら、率直にお話しください」
逃げ場を与えない、まっすぐな視線。
レオンハルトはわずかに笑った。
「君は、強いな」
「殿下が弱くならぬために、です」
冗談めかして言うが、その実、真剣だった。
彼はそのとき、はっきりと自覚する。
自分は彼女を、ただの均衡の駒として見てはいない。
尊敬している。
信頼している。
そして――好ましく思っている。
だからこそ。
彼女が、宮廷の軋轢の中心に立つ未来を想像すると、胸が重くなる。
均衡は、静かに揺らいでいる。
まだ崩れてはいない。
だが、何も選ばねば、いずれ崩れる。
レオンハルトは、ゆっくりと息を吐いた。
選択の時は、近い。
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