35 / 152
第4章 野山獄
2 明倫館の大学生
しおりを挟む
寅次郎が野山獄で囚人達と切磋琢磨していたちょうどこの時期、晋作は明倫館の大学生となり、日々館内の講堂に出ては会講をしていた。
この頃の明倫館は専ら経書の訓古ばかりに終始し、その学風は保守的でかつ時勢の論議を圧殺して、幕府中心主義に追随しようとするものであったため、晋作は日々不満をためにため込んで鬱屈した日々を過ごしていた。
この日も晋作は館内の講堂に出て、儒者の平田新右衛門が行う経学の会講に嫌々参加していた。
「『論語』の一節である朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりとは」
新右衛門は仏頂面で『論語』の内容の講釈を行っており、晋作以外の大学生達はそれを熱心に聴いている。
「朝に人としての道理、在り方を聞くことができれば、夕暮れに死んだとしても構わないという内容の教えであります。そしてこの人としての道理、在り方とは主君に一心不乱にお仕えする忠誠心や、親への孝行、民百姓への思いやりの心である仁をさすのであります。そしてこの忠誠心の対象となる主君とは毛利家、ひいては幕府のことであり……」
新右衛門はその後も同じような声の調子で論語の講釈をし、他の大学生達が真面目にその講釈を聴いているのに対して、晋作は退屈そうな表情で、ただ会講が終わる時が来るのを今か今かと心待ちにしていた。
その夜、晋作が武芸修行とうっぷん晴らしの名目で、いつものように屋敷の庭で素振りをしていると、隠居した祖父の又兵衛が姿を現して近況を尋ねてきた。
「武芸に精を出すのはええが、学問の方も疎かにせずにしかと励んじょるか? 晋作よ」
又兵衛が穏やかな口調で孫に言うと、晋作は竹刀を振っていた手を止め、後ろにいた祖父の方に振り返る。
「学問など一体何の役に立ちましょうか。四書五経の内容を解釈したとて、外夷からこの防長二ヶ国を守り切れる訳ではございません。それならいっそ剣術にのみ、一心不乱に打ち込む方が外夷を打ち払う道にも通づるかと存じちょります」
晋作は祖父に対して皮肉を言った。又兵衛はむっとした表情になるも、黙ったまま何も言わない。
「それよりもちょうど今、新しい詩を作成致しましたので、ぜひ聞いて頂けますでしょうか」
晋作は竹刀で素振りしながら即興で思いついた詩を祖父に披露し始める。
「自ら笑う、百年一夢の如し」
晋作は高らかに自作の詩の一節を吟じ、それに対し又兵衛は、驚きあっけに取られながらも、ただそれを黙って聞いているより他ないといった様子だ。
「何を以てか歓娯を得ん、自ら笑う平生の拙」
茫然としている又兵衛を尻目に、晋作は引き続き詩を吟じる。
「区区として腐儒を学ぶ」
自身の不平不満を表現した詩を全て吟じ終えると、晋作は深呼吸をしてそのまま竹刀片手に屋敷へ戻ろうとしたが、我に返った又兵衛に「待ちんさい!」と呼び止められ、その場で足を止めた。
「ええか、晋作。高杉家は洞春公以来、代々毛利家にお仕えしてきた譜代の家柄。儂も、そしてお前の父様もその事をしかと肝に銘じた上で、御殿様に奉公してきたのじゃ。決して大それたことをしてくれるな。父様の迷惑になるようなことだけはしてくれるな」
又兵衛は諭すような口調で孫に言うと、足早に屋敷へと引き上げていった。
この頃の明倫館は専ら経書の訓古ばかりに終始し、その学風は保守的でかつ時勢の論議を圧殺して、幕府中心主義に追随しようとするものであったため、晋作は日々不満をためにため込んで鬱屈した日々を過ごしていた。
この日も晋作は館内の講堂に出て、儒者の平田新右衛門が行う経学の会講に嫌々参加していた。
「『論語』の一節である朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりとは」
新右衛門は仏頂面で『論語』の内容の講釈を行っており、晋作以外の大学生達はそれを熱心に聴いている。
「朝に人としての道理、在り方を聞くことができれば、夕暮れに死んだとしても構わないという内容の教えであります。そしてこの人としての道理、在り方とは主君に一心不乱にお仕えする忠誠心や、親への孝行、民百姓への思いやりの心である仁をさすのであります。そしてこの忠誠心の対象となる主君とは毛利家、ひいては幕府のことであり……」
新右衛門はその後も同じような声の調子で論語の講釈をし、他の大学生達が真面目にその講釈を聴いているのに対して、晋作は退屈そうな表情で、ただ会講が終わる時が来るのを今か今かと心待ちにしていた。
その夜、晋作が武芸修行とうっぷん晴らしの名目で、いつものように屋敷の庭で素振りをしていると、隠居した祖父の又兵衛が姿を現して近況を尋ねてきた。
「武芸に精を出すのはええが、学問の方も疎かにせずにしかと励んじょるか? 晋作よ」
又兵衛が穏やかな口調で孫に言うと、晋作は竹刀を振っていた手を止め、後ろにいた祖父の方に振り返る。
「学問など一体何の役に立ちましょうか。四書五経の内容を解釈したとて、外夷からこの防長二ヶ国を守り切れる訳ではございません。それならいっそ剣術にのみ、一心不乱に打ち込む方が外夷を打ち払う道にも通づるかと存じちょります」
晋作は祖父に対して皮肉を言った。又兵衛はむっとした表情になるも、黙ったまま何も言わない。
「それよりもちょうど今、新しい詩を作成致しましたので、ぜひ聞いて頂けますでしょうか」
晋作は竹刀で素振りしながら即興で思いついた詩を祖父に披露し始める。
「自ら笑う、百年一夢の如し」
晋作は高らかに自作の詩の一節を吟じ、それに対し又兵衛は、驚きあっけに取られながらも、ただそれを黙って聞いているより他ないといった様子だ。
「何を以てか歓娯を得ん、自ら笑う平生の拙」
茫然としている又兵衛を尻目に、晋作は引き続き詩を吟じる。
「区区として腐儒を学ぶ」
自身の不平不満を表現した詩を全て吟じ終えると、晋作は深呼吸をしてそのまま竹刀片手に屋敷へ戻ろうとしたが、我に返った又兵衛に「待ちんさい!」と呼び止められ、その場で足を止めた。
「ええか、晋作。高杉家は洞春公以来、代々毛利家にお仕えしてきた譜代の家柄。儂も、そしてお前の父様もその事をしかと肝に銘じた上で、御殿様に奉公してきたのじゃ。決して大それたことをしてくれるな。父様の迷惑になるようなことだけはしてくれるな」
又兵衛は諭すような口調で孫に言うと、足早に屋敷へと引き上げていった。
0
あなたにおすすめの小説
【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
半蔵門の守護者
裏耕記
歴史・時代
半蔵門。
江戸城の搦手門に当たる門の名称である。
由来は服部半蔵の屋敷が門の側に配されていた事による。
それは蔑まれてきた忍びへの無上の褒美。
しかし、時を経て忍びは大手門の番守に落ちぶれる。
既に忍びが忍びである必要性を失っていた。
忍家の次男坊として生まれ育った本田修二郎は、心形刀流の道場に通いながらも、発散できないジレンマを抱える。
彼は武士らしく生きたいという青臭い信条に突き動かされ、行動を起こしていく。
武士らしさとは何なのか、当人さえ、それを理解出来ずに藻掻き続ける日々。
奇しくも時は八代将軍吉宗の時代。
時代が変革の兆しを見せる頃である。
そしてこの時代に高い次元で忍術を維持していた存在、御庭番。
修二郎は、その御庭番に見出され、半蔵門の守護者になるべく奮闘する物語。
《連作短編となります。一話四~五万文字程度になります》
【完結】『からくり長屋の事件帖 ~変わり発明家甚兵衛と江戸人情お助け娘お絹~』
月影 朔
歴史・時代
江戸の長屋から、奇妙な事件を解き明かす! 発明家と世話焼き娘の、笑えて泣ける人情捕物帖!
江戸、とある長屋に暮らすは、風変わりな男。
名を平賀甚兵衛。元武士だが堅苦しさを嫌い、町の発明家として奇妙なからくり作りに没頭している。作る道具は役立たずでも、彼の頭脳と観察眼は超一流。人付き合いは苦手だが、困った人は放っておけない不器用な男だ。
そんな甚兵衛の世話を焼くのは、隣に住む快活娘のお絹。仕立て屋で働き、誰からも好かれる彼女は、甚兵衛の才能を信じ、持ち前の明るさと人脈で町の様々な情報を集めてくる。
この凸凹コンビが立ち向かうのは、岡っ引きも首をひねる不可思議な事件の数々。盗まれた品が奇妙に戻る、摩訶不思議な悪戯が横行する…。甚兵衛はからくり知識と観察眼で、お絹は人情と情報網で、難事件の謎を解き明かしていく!
これは、痛快な謎解きでありながら、不器用な二人や長屋の人々の温かい交流、そして甚兵衛の隠された過去が織りなす人間ドラマの物語。
時には、発明品が意外な鍵となることも…?
笑いあり、涙あり、そして江戸を揺るがす大事件の予感も――。
からくり長屋で巻き起こる、江戸情緒あふれる事件帖、開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる