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第五章「父の反対と、母のひとこと」
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第五章「父の反対と、母のひとこと」
桐島屋の朝は、午前五時に始まる。
父の隆司がまず起きて工房の火を入れる。葵が起きる六時には、すでに工房に餡の香りが満ちている。母の文江は七時に店の掃除を始める。この順序は、葵が物心ついた頃から変わらない。桐島屋の一日は、この朝の手順に従って、静かに、確実に始まる。
葵が父に「話がある」と切り出したのは、その朝の作業が一段落した、九時過ぎのことだった。
隆司は「なんじゃ」と言いながら、作業台の上の餡を木べらでならし続けた。葵に正面から向き合うより、作業をしながら話す方が性に合っているのを、葵は知っていた。
「横川で、和菓子カフェを開きたい」と葵は言った。
隆司の木べらが、一瞬止まった。
止まったのはほんの一秒だったが、葵には見えた。
「凛ちゃんと?」と隆司は木べらを再び動かしながら言った。
「うん。凛がライバーとして発信して、私が和菓子を作る。若い人たちに和菓子を身近に感じてもらえる場所を作りたい」
隆司はしばらく黙っていた。木べらが餡の上をゆっくり動く音だけが、工房に響いた。
「あかん」と隆司はやがて言った。
「なんで」
「なんでって、ここはどうするんじゃ。桐島屋は」
「続けるよ。週の半分は横川、半分は東広島。最初のうちは週末だけ横川にいて、様子を見ながら」
「そんな器用なことができるか」
「やってみないとわからない」
「わからんからあかんと言っとる」
隆司の声は荒げていなかった。静かで、でも揺れない。葵はこの父の静かな反対が、怒鳴り声よりずっと応えることを知っていた。
「お父さん」と葵は言った。「和菓子屋って、このままで大丈夫だと思う?」
隆司は木べらを止めた。今度は長く止まった。
「大丈夫じゃないかもしれん」と隆司はゆっくり言った。「それはわかっとる」
「だったら」
「だからといって、お前が横川に行く理由にはならん」
葵は反論の言葉を探したが、父の声の奥にある何かが、その言葉を遮った。
伝統が大事だから、という反対ではない。葵にはそれがわかった。父は伝統の話をしているふりをして、別のことを言っている。別のこととは何か。葵にはまだ、わからなかった。
その夜、葵が自分の部屋で事業計画書の数字と睨み合っていると、母の文江が「お茶でも」と言って入ってきた。
文江は湯呑みを二つ持って、葵の机の横に腰を下ろした。緑茶の湯気が、静かに上がっている。
「お父さんのこと、怒ってる?」と文江は聞いた。
「怒ってないよ」と葵は言った。「でも、納得もしてない」
「そうじゃろうね」と文江は言って、湯呑みを両手で包んだ。「ねえ葵、一つだけ言っていい?」
「うん」
「お父さんね」と文江は言った。「横川に、何かあるのよ」
「何か?」
「若い頃の話。私も詳しくは知らないんだけど」と文江は続けた。「お父さんが横川の話を、一度もしないでしょ。二十数年一緒にいて、横川の話を自分からしたことが一回もない。それって不自然じゃない?」
葵はその言葉を、しばらく転がした。
確かに、不自然だった。父は饒舌な方ではないが、修業時代の話、昔の広島の話、職人仲間の話は、折に触れてする。横川の話だけが、すっぽりと抜け落ちている。
「ちゃんと聞いてみたら」と文江は言った。「反対されたからって、引き下がる必要はないけど、お父さんが何を考えてるかくらいは聞いてみたらいい。話すかどうかはお父さんが決めることだけど」
「話してくれると思う?」
「さあ」と文江は笑った。「でも聞かれなかったら、絶対話さない人だから」
その夜遅く、葵と凛はLINEの音声通話で話した。
「お父さん、反対した」と葵は言った。
「やっぱり」と凛は言った。「でも想定内じゃない? 最初から賛成するとは思ってなかったよ」
「そうなんだけど……なんか、反対の仕方が変だった。伝統が大事とか、店はどうするとかは言うんだけど、本音じゃないような気がして」
「本音じゃない?」
「うまく言えないんだけど」と葵は言った。「お母さんが、お父さんの横川に何かあるって言ってた」
凛はしばらく黙った。「菓子型の『桐島』の刻印と、関係あるのかな」
「かもしれない」
「調べてみたら? 山路屋の先代のこと」
「うん」と葵は言った。「でも、まずお父さんに直接聞いてみる。時間がかかるかもしれないけど」
「焦らなくていいよ」と凛は言った。それから少し間を置いて「ねえ、話変わるんだけど」と続けた。
「うん」
「拓海のこと」と凛は言った。
葵は身体が少し固くなるのを感じた。
「両親に、まだ婚約の話してないんだよね、私」と凛は言った。「なんか、タイミングがなくて。ずっと先延ばしにしてて」
「なんで?」と葵は聞いた。
「わからない」と凛は正直に言った。「拓海のことは好きだし、一緒にいたいとは思ってるんだけど。なんか、親に紹介するって、決定的な感じがして。怖いのかな、私」
「何が怖いの」
「……はっきりさせることが、かな」と凛はゆっくり言った。
葵はその言葉を聞きながら、凛が何かを感じているのだと思った。拓海のことを、凛も全部は信じきれていないのかもしれない。でも凛がそれを直接言うことはなかったし、葵も聞かなかった。
「ゆっくりでいいんじゃない」と葵は言った。
「そうだね」と凛は言った。声が少し安心したように聞こえた。
電話を切ってから、葵は天井を見上げた。
凛はまだ何も知らない。拓海からの電話のことを。葵が断ったことを。そしてそれを誰にも言えずにいることを。
知らせるべきだ、という気持ちと、知らせることで凛を傷つけてしまうかもしれないという気持ちが、葵の中で引っ張り合っていた。
その綱引きは、今夜も決着がつかなかった。
つづく
桐島屋の朝は、午前五時に始まる。
父の隆司がまず起きて工房の火を入れる。葵が起きる六時には、すでに工房に餡の香りが満ちている。母の文江は七時に店の掃除を始める。この順序は、葵が物心ついた頃から変わらない。桐島屋の一日は、この朝の手順に従って、静かに、確実に始まる。
葵が父に「話がある」と切り出したのは、その朝の作業が一段落した、九時過ぎのことだった。
隆司は「なんじゃ」と言いながら、作業台の上の餡を木べらでならし続けた。葵に正面から向き合うより、作業をしながら話す方が性に合っているのを、葵は知っていた。
「横川で、和菓子カフェを開きたい」と葵は言った。
隆司の木べらが、一瞬止まった。
止まったのはほんの一秒だったが、葵には見えた。
「凛ちゃんと?」と隆司は木べらを再び動かしながら言った。
「うん。凛がライバーとして発信して、私が和菓子を作る。若い人たちに和菓子を身近に感じてもらえる場所を作りたい」
隆司はしばらく黙っていた。木べらが餡の上をゆっくり動く音だけが、工房に響いた。
「あかん」と隆司はやがて言った。
「なんで」
「なんでって、ここはどうするんじゃ。桐島屋は」
「続けるよ。週の半分は横川、半分は東広島。最初のうちは週末だけ横川にいて、様子を見ながら」
「そんな器用なことができるか」
「やってみないとわからない」
「わからんからあかんと言っとる」
隆司の声は荒げていなかった。静かで、でも揺れない。葵はこの父の静かな反対が、怒鳴り声よりずっと応えることを知っていた。
「お父さん」と葵は言った。「和菓子屋って、このままで大丈夫だと思う?」
隆司は木べらを止めた。今度は長く止まった。
「大丈夫じゃないかもしれん」と隆司はゆっくり言った。「それはわかっとる」
「だったら」
「だからといって、お前が横川に行く理由にはならん」
葵は反論の言葉を探したが、父の声の奥にある何かが、その言葉を遮った。
伝統が大事だから、という反対ではない。葵にはそれがわかった。父は伝統の話をしているふりをして、別のことを言っている。別のこととは何か。葵にはまだ、わからなかった。
その夜、葵が自分の部屋で事業計画書の数字と睨み合っていると、母の文江が「お茶でも」と言って入ってきた。
文江は湯呑みを二つ持って、葵の机の横に腰を下ろした。緑茶の湯気が、静かに上がっている。
「お父さんのこと、怒ってる?」と文江は聞いた。
「怒ってないよ」と葵は言った。「でも、納得もしてない」
「そうじゃろうね」と文江は言って、湯呑みを両手で包んだ。「ねえ葵、一つだけ言っていい?」
「うん」
「お父さんね」と文江は言った。「横川に、何かあるのよ」
「何か?」
「若い頃の話。私も詳しくは知らないんだけど」と文江は続けた。「お父さんが横川の話を、一度もしないでしょ。二十数年一緒にいて、横川の話を自分からしたことが一回もない。それって不自然じゃない?」
葵はその言葉を、しばらく転がした。
確かに、不自然だった。父は饒舌な方ではないが、修業時代の話、昔の広島の話、職人仲間の話は、折に触れてする。横川の話だけが、すっぽりと抜け落ちている。
「ちゃんと聞いてみたら」と文江は言った。「反対されたからって、引き下がる必要はないけど、お父さんが何を考えてるかくらいは聞いてみたらいい。話すかどうかはお父さんが決めることだけど」
「話してくれると思う?」
「さあ」と文江は笑った。「でも聞かれなかったら、絶対話さない人だから」
その夜遅く、葵と凛はLINEの音声通話で話した。
「お父さん、反対した」と葵は言った。
「やっぱり」と凛は言った。「でも想定内じゃない? 最初から賛成するとは思ってなかったよ」
「そうなんだけど……なんか、反対の仕方が変だった。伝統が大事とか、店はどうするとかは言うんだけど、本音じゃないような気がして」
「本音じゃない?」
「うまく言えないんだけど」と葵は言った。「お母さんが、お父さんの横川に何かあるって言ってた」
凛はしばらく黙った。「菓子型の『桐島』の刻印と、関係あるのかな」
「かもしれない」
「調べてみたら? 山路屋の先代のこと」
「うん」と葵は言った。「でも、まずお父さんに直接聞いてみる。時間がかかるかもしれないけど」
「焦らなくていいよ」と凛は言った。それから少し間を置いて「ねえ、話変わるんだけど」と続けた。
「うん」
「拓海のこと」と凛は言った。
葵は身体が少し固くなるのを感じた。
「両親に、まだ婚約の話してないんだよね、私」と凛は言った。「なんか、タイミングがなくて。ずっと先延ばしにしてて」
「なんで?」と葵は聞いた。
「わからない」と凛は正直に言った。「拓海のことは好きだし、一緒にいたいとは思ってるんだけど。なんか、親に紹介するって、決定的な感じがして。怖いのかな、私」
「何が怖いの」
「……はっきりさせることが、かな」と凛はゆっくり言った。
葵はその言葉を聞きながら、凛が何かを感じているのだと思った。拓海のことを、凛も全部は信じきれていないのかもしれない。でも凛がそれを直接言うことはなかったし、葵も聞かなかった。
「ゆっくりでいいんじゃない」と葵は言った。
「そうだね」と凛は言った。声が少し安心したように聞こえた。
電話を切ってから、葵は天井を見上げた。
凛はまだ何も知らない。拓海からの電話のことを。葵が断ったことを。そしてそれを誰にも言えずにいることを。
知らせるべきだ、という気持ちと、知らせることで凛を傷つけてしまうかもしれないという気持ちが、葵の中で引っ張り合っていた。
その綱引きは、今夜も決着がつかなかった。
つづく
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