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第十章「菓子型の刻印と、蓮の秘密」
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第十章「菓子型の刻印と、蓮の秘密」
本田から連絡が来たのは、十二月の第三週だった。
「山路の息子さんと話しました。一度、直接会って話を聞きたいと言っています。年明けでいいですか」というメッセージとともに、「ついでに、物件のことで少し話したいことがあって、事務所に来てもらえますか」と書いてあった。
葵と凛は翌日、本田の事務所に向かった。
本田の事務所は横川商店街の外れにある、古い雑居ビルの二階だ。ドアを開けると、本田は電話をしながら手で「座って座って」と示した。電話を終えた本田は、湯呑みを二つ出しながら「急に呼んで悪かったね」と言った。
「実はね」と本田は言った。「山路屋のことを少し調べてたんですよ。二人のために。それで、いくつかわかったことがあって」
本田が話してくれた内容は、こういうことだった。
山路屋の先代、山路惣一は、戦後間もなく横川で菓子屋を開いた職人だった。腕は確かで、昭和の横川では知る人ぞ知る店だったという。惣一は若い頃、東広島の老舗で修業をしていた。その老舗というのが——
「桐島屋さんなんです」と本田は言った。
葵は湯呑みを持ったまま、動きを止めた。
「惣一さんは、桐島屋の先代、つまり葵さんのお祖父さんに弟子入りして、腕を磨いて、その後横川に出て山路屋を開いた。だから菓子型に『桐島』の刻印があるのは、お祖父さんが独立祝いに贈ったからだと思います」
「祖父が」と葵は言った。
「そうなんです。で、もう一つ」と本田はお茶を一口飲んだ。「葵さんのお父さん、隆司さんが若い頃に山路屋で修業されてた、というのも確認が取れました。山路さんの息子さんが覚えていました」
凛が「やっぱり」と言って葵を見た。
葵は頷いたが、声が出なかった。
祖父の弟子が山路惣一で、惣一の店で父が修業した。桐島屋と山路屋は、師弟の縁で二代にわたって繋がっていた。そして今、三代目の娘である葵が、山路屋の跡に店を出そうとしている。
「山路さんの息子さんはね」と本田は続けた。「父親の店を継ぐことはできなかったけど、父親が大切にしていた場所で、和菓子に関わる人が商売をするのは嬉しいと言っていました。条件は一つだけで、ちゃんと和菓子を大切にしてくれること」
「大切にします」と葵は言った。即座に、迷いなく。
「わかりました」と本田は笑った。「じゃあ年明けに、息子さんと正式に話しましょう」
事務所を出て、本田と別れてから、葵と凛はしばらく商店街を歩いた。
「葵、お父さんに話してみた?」と凛が聞いた。
「まだ」と葵は言った。「話すつもりだけど、切り出し方が」
「こんだけ縁があるんだから、話しやすいんじゃない?」
「逆なんだよ」と葵は言った。「縁が深ければ深いほど、お父さんが言えなかった何かが、深いところにあるってことだから」
凛は「そっか」と言って、それ以上は言わなかった。
その夕方、葵は一人で横川の商店街を歩いていた。凛とは「また後で」と言って別れ、葵は物件の前に立ち寄った。
山路屋の跡。古い格子窓。木の引き戸。
引き戸には鍵がかかっているが、本田が「ちょっと見るくらいなら」と言って鍵を預けてくれていた。葵は引き戸を開けて、中に入った。
昼間の光が、格子窓から斜めに差し込んでいた。埃の中で、光が柱のように立っている。葵はその光の中に立って、しばらく動かなかった。
祖父の弟子が開いた店。父が修業した店。
自分がここに立っていることは、偶然ではないかもしれない。
奥の部屋に入って、菓子型の木箱を開けた。桜の型を手に取る。裏の「桐島」の刻印に指を当てた。祖父の字かどうかはわからないが、祖父の意志がここに残っている気がした。
商店街を歩いて帰ろうとしたとき、路地の向こうから小さな人影が来るのが見えた。
向井蓮だった。
蓮は葵を見て、「あ」と言った。驚いたような、でも嬉しそうな顔。
「どこ行くの?」と葵は聞いた。
「コンビニ」と蓮は言った。「晩ご飯、買いに」
葵は「一緒に行こう」と言った。
コンビニまでの短い道を歩きながら、葵は蓮に「最近、お母さんの調子はどう?」と聞いた。
蓮は少し黙った。
「あんまりよくない」とやがて言った。「仕事も、あんまり行けてないみたいで」
「そっか」と葵は言った。「それで心配してるんだ」
蓮は頷いた。
「蓮くん」と葵は言った。「一つ聞いていい?」
「うん」
「お家のこと、何か困ってることある?」
蓮は足を止めた。葵も止まった。路地の街灯が、蓮の頭の上でぼんやり光っている。
蓮はしばらく下を向いていた。それから、ゆっくり顔を上げた。
「……家賃」と蓮は言った。小さな声だった。「なんか、家賃が払えないかもって、母ちゃんが電話で話してるの、聞こえちゃって」
葵は「聞こえちゃったんだ」と静かに言った。
「うん。聞いてないふりしてたけど」と蓮は言った。「母ちゃんに心配させたくないから、俺も聞こえなかったふりしてるんだけど」
知っているのに知らないふりをする。
葵は自分が蓮と全く同じことをしていると、改めて思った。
「蓮くん、それ、一人で抱えてたの?」
「うん、誰にも言ったことなかった」と蓮は言った。
「そっか」と葵は静かに言った。
「言ってくれてありがとう。一緒に考えよう。あなたのお母さんのこと、助けられるかもしれない人を、私は知ってるから」
「誰?」
「学校の西村先生。先生に相談していい?」
蓮は少し考えた。長い間だった。十歳が「助けを求める」ことを決める時間だった。
「……いい」と蓮は言った。
つづく
本田から連絡が来たのは、十二月の第三週だった。
「山路の息子さんと話しました。一度、直接会って話を聞きたいと言っています。年明けでいいですか」というメッセージとともに、「ついでに、物件のことで少し話したいことがあって、事務所に来てもらえますか」と書いてあった。
葵と凛は翌日、本田の事務所に向かった。
本田の事務所は横川商店街の外れにある、古い雑居ビルの二階だ。ドアを開けると、本田は電話をしながら手で「座って座って」と示した。電話を終えた本田は、湯呑みを二つ出しながら「急に呼んで悪かったね」と言った。
「実はね」と本田は言った。「山路屋のことを少し調べてたんですよ。二人のために。それで、いくつかわかったことがあって」
本田が話してくれた内容は、こういうことだった。
山路屋の先代、山路惣一は、戦後間もなく横川で菓子屋を開いた職人だった。腕は確かで、昭和の横川では知る人ぞ知る店だったという。惣一は若い頃、東広島の老舗で修業をしていた。その老舗というのが——
「桐島屋さんなんです」と本田は言った。
葵は湯呑みを持ったまま、動きを止めた。
「惣一さんは、桐島屋の先代、つまり葵さんのお祖父さんに弟子入りして、腕を磨いて、その後横川に出て山路屋を開いた。だから菓子型に『桐島』の刻印があるのは、お祖父さんが独立祝いに贈ったからだと思います」
「祖父が」と葵は言った。
「そうなんです。で、もう一つ」と本田はお茶を一口飲んだ。「葵さんのお父さん、隆司さんが若い頃に山路屋で修業されてた、というのも確認が取れました。山路さんの息子さんが覚えていました」
凛が「やっぱり」と言って葵を見た。
葵は頷いたが、声が出なかった。
祖父の弟子が山路惣一で、惣一の店で父が修業した。桐島屋と山路屋は、師弟の縁で二代にわたって繋がっていた。そして今、三代目の娘である葵が、山路屋の跡に店を出そうとしている。
「山路さんの息子さんはね」と本田は続けた。「父親の店を継ぐことはできなかったけど、父親が大切にしていた場所で、和菓子に関わる人が商売をするのは嬉しいと言っていました。条件は一つだけで、ちゃんと和菓子を大切にしてくれること」
「大切にします」と葵は言った。即座に、迷いなく。
「わかりました」と本田は笑った。「じゃあ年明けに、息子さんと正式に話しましょう」
事務所を出て、本田と別れてから、葵と凛はしばらく商店街を歩いた。
「葵、お父さんに話してみた?」と凛が聞いた。
「まだ」と葵は言った。「話すつもりだけど、切り出し方が」
「こんだけ縁があるんだから、話しやすいんじゃない?」
「逆なんだよ」と葵は言った。「縁が深ければ深いほど、お父さんが言えなかった何かが、深いところにあるってことだから」
凛は「そっか」と言って、それ以上は言わなかった。
その夕方、葵は一人で横川の商店街を歩いていた。凛とは「また後で」と言って別れ、葵は物件の前に立ち寄った。
山路屋の跡。古い格子窓。木の引き戸。
引き戸には鍵がかかっているが、本田が「ちょっと見るくらいなら」と言って鍵を預けてくれていた。葵は引き戸を開けて、中に入った。
昼間の光が、格子窓から斜めに差し込んでいた。埃の中で、光が柱のように立っている。葵はその光の中に立って、しばらく動かなかった。
祖父の弟子が開いた店。父が修業した店。
自分がここに立っていることは、偶然ではないかもしれない。
奥の部屋に入って、菓子型の木箱を開けた。桜の型を手に取る。裏の「桐島」の刻印に指を当てた。祖父の字かどうかはわからないが、祖父の意志がここに残っている気がした。
商店街を歩いて帰ろうとしたとき、路地の向こうから小さな人影が来るのが見えた。
向井蓮だった。
蓮は葵を見て、「あ」と言った。驚いたような、でも嬉しそうな顔。
「どこ行くの?」と葵は聞いた。
「コンビニ」と蓮は言った。「晩ご飯、買いに」
葵は「一緒に行こう」と言った。
コンビニまでの短い道を歩きながら、葵は蓮に「最近、お母さんの調子はどう?」と聞いた。
蓮は少し黙った。
「あんまりよくない」とやがて言った。「仕事も、あんまり行けてないみたいで」
「そっか」と葵は言った。「それで心配してるんだ」
蓮は頷いた。
「蓮くん」と葵は言った。「一つ聞いていい?」
「うん」
「お家のこと、何か困ってることある?」
蓮は足を止めた。葵も止まった。路地の街灯が、蓮の頭の上でぼんやり光っている。
蓮はしばらく下を向いていた。それから、ゆっくり顔を上げた。
「……家賃」と蓮は言った。小さな声だった。「なんか、家賃が払えないかもって、母ちゃんが電話で話してるの、聞こえちゃって」
葵は「聞こえちゃったんだ」と静かに言った。
「うん。聞いてないふりしてたけど」と蓮は言った。「母ちゃんに心配させたくないから、俺も聞こえなかったふりしてるんだけど」
知っているのに知らないふりをする。
葵は自分が蓮と全く同じことをしていると、改めて思った。
「蓮くん、それ、一人で抱えてたの?」
「うん、誰にも言ったことなかった」と蓮は言った。
「そっか」と葵は静かに言った。
「言ってくれてありがとう。一緒に考えよう。あなたのお母さんのこと、助けられるかもしれない人を、私は知ってるから」
「誰?」
「学校の西村先生。先生に相談していい?」
蓮は少し考えた。長い間だった。十歳が「助けを求める」ことを決める時間だった。
「……いい」と蓮は言った。
つづく
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