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第十一章「凛への告白、あるいは亀裂——そして沙織と会う」
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第十一章「凛への告白、あるいは亀裂——そして沙織と会う」
葵が凛に話そうと決めたのは、十二月の下旬のことだった。
年が変わる前に言わなければ、と葵は思った。新年を迎えてしまえば、また「タイミングを見て」という言い訳が生まれる。タイミングを見ていたら、永遠に話せない。
待ち合わせたのは、閉店後の「豆と月」だった。川本マスターに頼んで、閉店後に少しだけ使わせてもらった。カウンターに二人で並んで、コーヒーを前に置いた。
「話があるんだけど」と葵は言った。
「うん」と凛は言った。凛はすでに、何かを感じていたのかもしれない。いつもより静かだった。
葵は話した。九月の終わりに拓海から電話があったこと。桐島屋のレシピをフードテック事業に提供するよう求められたこと。断ったこと。それを凛に言えなかったこと。クラウドファンディングへの業界関係者の批判が、おそらく拓海の軽率な情報漏洩から来ている可能性があること。
話している間、凛は一言も口を挟まなかった。
話し終えると、静寂があった。
長い静寂だった。
「知ってた」と凛はやがて言った。
「え?」と葵は思わず声を上げた。
「全部じゃないけど」と凛は続けた。「レシピの話、拓海から先週聞いた。断られたって。でも、葵に電話したことは言ってなくて、なんか変だなとは思ってたんだけど」
「……なんで言ってくれなかったの」と葵は言った。
「それ、私のセリフだと思うんだけど」と凛は静かに言った。
葵は黙った。
「なんで言ってくれなかったの」と今度は凛が言った。声が低かった。「三ヶ月も。私のフィアンセが、親友に変なことを頼んでたのに、三ヶ月も黙ってたの?」
「傷つけたくなかった」と葵は言った。
「傷つけたくなかったから、黙ってた?」と凛は言った。「それって、私のためじゃなくて、葵のためじゃないの。言って傷つけることへの、葵自身の怖さじゃないの」
葵は反論できなかった。
凛は正しい。葵は凛のために黙っていたつもりだったが、本当は自分が怖かったのかもしれない。凛に怒られることが。関係が変わることが。
「ごめん」と葵は言った。
「謝らないでよ」と凛は言った。声が震えていた。「謝られたら、終わった気がする。まだ終わってないじゃん、私たちの話は」
沈黙が続いた後、凛が口を開いた。
「私も言ってないことがある」と凛は言った。
「うん」と葵は待った。
「拓海のこと、ちゃんとわかってなかった。会社のこと、お金のこと、全然聞いてなかった。聞こうとしなかった。好きだから信じてたんじゃなくて、怖かったから聞かなかったのかもしれない」と凛は言った。「それに、両親への婚約の報告、まだしてない。ずっと先延ばしにしてる。なんでかわかる?」
「なんで?」と葵は聞いた。
「決定的にしたくないんだと思う。正式に報告したら、本当にそうなっちゃうから。まだはっきりさせたくない何かが、自分の中にあるのかもしれない」
凛はそう言って、コーヒーを飲んだ。冷めているはずのコーヒーを、ゆっくり飲んだ。
「お互い、嘘ついてたね」と凛は言った。
「うん」と葵は言った。
「しばらく、頭冷やす時間が欲しい」と凛は言った。「葵のことを怒ってるわけじゃない。でも、いろんなことを一人で整理したい」
「わかった」と葵は言った。
「カフェの計画は、続けるよ。それは変わらない。ただ、少し距離を置く」
「うん」
凛は立ち上がって、コートを羽織った。「ねえ葵」と出口の前で振り返った。
「なに」
「正直でいてよ、これからは。怖くても」
葵は頷いた。凛は出て行った。
翌日の昼、葵のスマートフォンに里佳からメッセージが届いた。
「向井くんのお母さんと、話す機会を作れそうです。時間があれば、一緒に来てもらえますか」
里佳に蓮のことを相談してから、里佳は素早く動いていた。学校のソーシャルワーカーに連絡を取り、向井家の状況を確認し、沙織が学校に来られる日程を調整してくれていた。
葵は「行きます」と返信した。
横川小学校の相談室で、葵は向井沙織と初めて会った。
沙織は三十代半ばで、蓮と同じ目をしていた。くりっとした、少し疲れた目。やつれているが、きちんとした服装で来ていた。蓮の「礼儀正しさ」は、この人から来ているのだとわかった。
「蓮くんから話を聞いて、心配していました」と葵は言った。
「すみません、息子が」と沙織は頭を下げた。
「いいえ、蓮くんは何も悪くないです」と葵は言った。「蓮くん、すごく頑張ってますよ。お母さんに心配かけないようにって、一人で抱えてたみたいで」
沙織は顔を歪めた。「……知りませんでした。そんな風に考えてたなんて」
「大丈夫って言い続けてたんですよね、蓮くんに」
「言い続けてました。心配させたくなくて」と沙織は言った。「でも全然大丈夫じゃなくて。母が去年亡くなってから体調を崩して、仕事も思うように行けなくて、家賃が」
沙織は途中で口をつぐんだ。知らない人にこんなことを話すつもりじゃなかった、という顔をした。
「話してくれてよかったです」と葵は言った。「里佳先生に相談すれば、使える制度のことも教えてもらえるはずだから」
里佳が「住居確保給付金のことや、フードバンクのことも調べてあります」と言った。
沙織は「知らなかった」と言った。恥ずかしそうな、でも少し安心した顔で。
葵は沙織を見ながら、「息子に心配させたくないから大丈夫と言い続けた」という言葉を、頭の中で繰り返した。
自分も同じだ。凛に心配させたくないから、黙り続けた。でも黙ることで、かえって傷つけた。
大丈夫と言い続けることが、いつの間にか相手を遠ざけることになる。
相談室を出て、葵は一人で横川の商店街を歩いた。
年の瀬の商店街は、どこか慌ただしい。正月の飾りつけをしている店がある。歳末セールの張り紙がある。
葵は立ち止まって、山路屋の跡の前に来た。古い格子窓が、夕暮れの光を受けている。
来年、この窓の向こうに光が入るようになる。
それは確かなことだ、と葵は思った。凛との亀裂も、父との話も、拓海のことも、全部まだ終わっていない。でも、ここに光が入ることだけは、確かだ。
葵はコートのポケットに手を入れて、歩き始めた。
つづく
葵が凛に話そうと決めたのは、十二月の下旬のことだった。
年が変わる前に言わなければ、と葵は思った。新年を迎えてしまえば、また「タイミングを見て」という言い訳が生まれる。タイミングを見ていたら、永遠に話せない。
待ち合わせたのは、閉店後の「豆と月」だった。川本マスターに頼んで、閉店後に少しだけ使わせてもらった。カウンターに二人で並んで、コーヒーを前に置いた。
「話があるんだけど」と葵は言った。
「うん」と凛は言った。凛はすでに、何かを感じていたのかもしれない。いつもより静かだった。
葵は話した。九月の終わりに拓海から電話があったこと。桐島屋のレシピをフードテック事業に提供するよう求められたこと。断ったこと。それを凛に言えなかったこと。クラウドファンディングへの業界関係者の批判が、おそらく拓海の軽率な情報漏洩から来ている可能性があること。
話している間、凛は一言も口を挟まなかった。
話し終えると、静寂があった。
長い静寂だった。
「知ってた」と凛はやがて言った。
「え?」と葵は思わず声を上げた。
「全部じゃないけど」と凛は続けた。「レシピの話、拓海から先週聞いた。断られたって。でも、葵に電話したことは言ってなくて、なんか変だなとは思ってたんだけど」
「……なんで言ってくれなかったの」と葵は言った。
「それ、私のセリフだと思うんだけど」と凛は静かに言った。
葵は黙った。
「なんで言ってくれなかったの」と今度は凛が言った。声が低かった。「三ヶ月も。私のフィアンセが、親友に変なことを頼んでたのに、三ヶ月も黙ってたの?」
「傷つけたくなかった」と葵は言った。
「傷つけたくなかったから、黙ってた?」と凛は言った。「それって、私のためじゃなくて、葵のためじゃないの。言って傷つけることへの、葵自身の怖さじゃないの」
葵は反論できなかった。
凛は正しい。葵は凛のために黙っていたつもりだったが、本当は自分が怖かったのかもしれない。凛に怒られることが。関係が変わることが。
「ごめん」と葵は言った。
「謝らないでよ」と凛は言った。声が震えていた。「謝られたら、終わった気がする。まだ終わってないじゃん、私たちの話は」
沈黙が続いた後、凛が口を開いた。
「私も言ってないことがある」と凛は言った。
「うん」と葵は待った。
「拓海のこと、ちゃんとわかってなかった。会社のこと、お金のこと、全然聞いてなかった。聞こうとしなかった。好きだから信じてたんじゃなくて、怖かったから聞かなかったのかもしれない」と凛は言った。「それに、両親への婚約の報告、まだしてない。ずっと先延ばしにしてる。なんでかわかる?」
「なんで?」と葵は聞いた。
「決定的にしたくないんだと思う。正式に報告したら、本当にそうなっちゃうから。まだはっきりさせたくない何かが、自分の中にあるのかもしれない」
凛はそう言って、コーヒーを飲んだ。冷めているはずのコーヒーを、ゆっくり飲んだ。
「お互い、嘘ついてたね」と凛は言った。
「うん」と葵は言った。
「しばらく、頭冷やす時間が欲しい」と凛は言った。「葵のことを怒ってるわけじゃない。でも、いろんなことを一人で整理したい」
「わかった」と葵は言った。
「カフェの計画は、続けるよ。それは変わらない。ただ、少し距離を置く」
「うん」
凛は立ち上がって、コートを羽織った。「ねえ葵」と出口の前で振り返った。
「なに」
「正直でいてよ、これからは。怖くても」
葵は頷いた。凛は出て行った。
翌日の昼、葵のスマートフォンに里佳からメッセージが届いた。
「向井くんのお母さんと、話す機会を作れそうです。時間があれば、一緒に来てもらえますか」
里佳に蓮のことを相談してから、里佳は素早く動いていた。学校のソーシャルワーカーに連絡を取り、向井家の状況を確認し、沙織が学校に来られる日程を調整してくれていた。
葵は「行きます」と返信した。
横川小学校の相談室で、葵は向井沙織と初めて会った。
沙織は三十代半ばで、蓮と同じ目をしていた。くりっとした、少し疲れた目。やつれているが、きちんとした服装で来ていた。蓮の「礼儀正しさ」は、この人から来ているのだとわかった。
「蓮くんから話を聞いて、心配していました」と葵は言った。
「すみません、息子が」と沙織は頭を下げた。
「いいえ、蓮くんは何も悪くないです」と葵は言った。「蓮くん、すごく頑張ってますよ。お母さんに心配かけないようにって、一人で抱えてたみたいで」
沙織は顔を歪めた。「……知りませんでした。そんな風に考えてたなんて」
「大丈夫って言い続けてたんですよね、蓮くんに」
「言い続けてました。心配させたくなくて」と沙織は言った。「でも全然大丈夫じゃなくて。母が去年亡くなってから体調を崩して、仕事も思うように行けなくて、家賃が」
沙織は途中で口をつぐんだ。知らない人にこんなことを話すつもりじゃなかった、という顔をした。
「話してくれてよかったです」と葵は言った。「里佳先生に相談すれば、使える制度のことも教えてもらえるはずだから」
里佳が「住居確保給付金のことや、フードバンクのことも調べてあります」と言った。
沙織は「知らなかった」と言った。恥ずかしそうな、でも少し安心した顔で。
葵は沙織を見ながら、「息子に心配させたくないから大丈夫と言い続けた」という言葉を、頭の中で繰り返した。
自分も同じだ。凛に心配させたくないから、黙り続けた。でも黙ることで、かえって傷つけた。
大丈夫と言い続けることが、いつの間にか相手を遠ざけることになる。
相談室を出て、葵は一人で横川の商店街を歩いた。
年の瀬の商店街は、どこか慌ただしい。正月の飾りつけをしている店がある。歳末セールの張り紙がある。
葵は立ち止まって、山路屋の跡の前に来た。古い格子窓が、夕暮れの光を受けている。
来年、この窓の向こうに光が入るようになる。
それは確かなことだ、と葵は思った。凛との亀裂も、父との話も、拓海のことも、全部まだ終わっていない。でも、ここに光が入ることだけは、確かだ。
葵はコートのポケットに手を入れて、歩き始めた。
つづく
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