『横川夜咄(よこがわよばなし)』 ―和菓子と夢と、小さな嘘―

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第十二章「父と、横川の話」

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第十二章「父と、横川の話」

 年が明けた。
 桐島屋の正月は忙しい。上生菓子の注文が集中し、父と葵と、手伝いに来るパートの女性二人で、年末から年始にかけてひたすら菓子を作り続ける。話をする時間も余裕もない。
 それが一段落したのは、一月の第二週だった。
 夜、父が縁側に座ってお茶を飲んでいるのを見つけて、葵は「隣、いい?」と声をかけた。隆司は「ええよ」と言って、少し詰めた。
 冬の夜の庭は暗く、遠くで犬の鳴き声がした。葵はお茶を一口飲んでから、切り出した。
「お父さん、山路屋のこと、知ってる?」
 隆司は答えなかった。
 答えない、ということが答えだった。
「本田さんに聞いた」と葵は続けた。「山路惣一さんが、桐島屋の先代——おじいちゃんの弟子だったこと。お父さんが若い頃、山路屋で修業してたこと。菓子型に桐島の刻印があることも」
 隆司はお茶を飲んだ。ゆっくり飲んで、庭を見た。
「なんで黙ってたの」と葵は言った。責める声ではなく、ただ聞く声で。
「言う必要がないと思っとった」と隆司はやがて言った。
「どうして」
 隆司はしばらく黙った。庭の暗さに目を向けたまま、黙っていた。
「山路屋の、惣一さんの娘さんがいた」と隆司は言った。「静江さんという。私が修業していた頃、一緒に働いていた」
 葵は黙って聞いた。
「好きだった」と隆司は言った。静かに、淡々と。でもその淡々さの奥に、何十年分かの重さがあった。「でも言えなかった。修業の身で、師匠の娘に、そんなことを言える立場じゃないと思っとった。言えないまま、東広島に戻った」
「静江さんは?」
「その後、山路屋を継がずに店を閉めたと聞いた。どこに行ったかは知らん。消息は聞いていない」と隆司は言った。「惣一さんが亡くなったのも、しばらくして知った。葬儀にも行けなかった」
 葵はしばらく何も言えなかった。
 父がずっと横川の話をしなかった理由が、今、わかった。横川は父にとって、果たせなかった何かが眠っている場所だ。言葉にすれば、その眠りが覚めてしまう。だから一度も、口にしなかった。
「お父さん」と葵は言った。「私が山路屋の跡に店を出したいのは、その縁があるからじゃない。でも、縁があることを知って、やっぱりそこでやりたいと思った」
「なんでや」と隆司は言った。
「桐島屋のものがあそこにある。菓子型が。おじいちゃんが贈った菓子型が、ずっとあそこで待ってたんだと思う。それを使いたい」
 隆司はまた黙った。
「お父さんが言えなかったこと、私には関係ない。でも、その場所に桐島屋の記憶があって、そこで私が和菓子を作るのは、たぶんおじいちゃんも喜ぶと思う」
「……おやじが喜ぶかどうかは、わからん」と隆司は言ったが、声に力がなかった。反対の力が、抜けていた。
「お父さん」と葵は言った。「菓子型、もらっていい?」
 長い沈黙があった。
 庭の暗さが、少し深くなった気がした。遠くの犬の声が、また聞こえた。
「……持って行け」と隆司はやがて言った。
 それだけだった。でもその一言に、二十数年分の何かが込められていることを、葵は感じた。
「ありがとう」と葵は言った。
 隆司は答えなかった。ただお茶を飲んで、庭を見続けた。その横顔が、葵には少しだけ、軽くなったように見えた。

つづく
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