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エピローグ「春の上生菓子」
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エピローグ「春の上生菓子」
咲餡が開店して半年が経った、九月の土曜日の午後。
横川の路地は、まだ少し夏の名残を引きずっていたが、店の中に入ると、かすかに秋の気配があった。凛が選んだほうじ茶の香りと、葵が炊いた栗の餡の甘い匂いが混ざり合っている。
午後三時になると、引き戸が開いて、ランドセル姿の子どもたちが入ってきた。
向井蓮と、友達が三人。
「こんにちは」と四人は声を揃えて言った。
「いらっしゃい」と葵は言った。
「今日も作っていい?」と蓮が聞いた。先週も、先々週も来て、練り切りを作って帰っていた。ランドセルを背負ったまましゃがんでいた蓮は、いつの間にか、この店の一番若い常連になっていた。
「もちろん」と葵は言って、奥のワークショップ室に案内した。
菓子型の木箱が棚に並んでいる。桜、菊、松、鶴。「桐島」の刻印が入った、祖父の記憶。
四人の子どもたちが机に座って、練り切り餡を手にした。始めは「なにこれ」「気持ちいい」と騒いでいたが、しばらくすると静かになった。一人ひとりが、自分の形を作ることに集中している。
葵はその様子を、入口から見ていた。
凛がカメラを持って隣に来た。「撮ってもいい?」とワークショップ室の子どもたちに聞くと、四人は「いいよ」と言って、でもすぐカメラのことを忘れてまた自分の餡に向き直った。
「いい絵だね」と凛は葵に小さく言った。
「うん」と葵は言った。
その日の夕方、沙織が仕事帰りに立ち寄った。顔色がよくなっていた。新しい仕事が決まって、昼間の仕事に変えたと、先月話してくれていた。
「蓮、迷惑かけてないですか」と沙織はいつも言う。
「迷惑どころか、助かってます」と葵はいつも答える。
「いつもありがとうございます」と沙織は言って、今日も栗の上生菓子を二つ買って帰った。一つは蓮のためだろう、と葵は思った。
閉店後、葵と凛は二人でカウンターに並んで、お茶を飲んだ。
凛が「拓海から今日、電話来た」と言った。
「どうだった?」と葵は聞いた。
「会社、畳むことにしたって。ちゃんと整理して、また一から始めるって」と凛は言った。「どう思う?」
「凛がどう思うかだよ」と葵は言った。
「わかってるけど、聞きたかっただけ」と凛は笑った。「私はね、もう少し、見てみようと思ってる。正直に話してくれるようになったし」
「うん」
「先のことはわからないけど、今は、それでいい」
葵は頷いた。
店内が片付いて、葵は工房の準備をした。明日の仕込みのために、今夜のうちにやっておくことがある。
銅鍋に水を張って、小豆を入れる。火にかける。沸騰したら一度湯を捨てる。これを二度繰り返す。アクを取る。砂糖を加えて、弱火で練る。
葵はひとり、木べらを動かしながら思った。
あの夜、東広島の工房で泣きながら炊いた餡のことを。捨てられなくて、冷凍して、五ヶ月後に開店日の菓子に使ったことを。あの餡に込めたものが何だったかを、今は少しわかる気がした。
終わりではなかった。始まりだった。
泣いていた夜も、言えなかった夜も、全部が今夜この工房に繋がっている。
いつか、この話を子どもたちにしよう、と葵は思った。蓮に、蓮の友達に、これからここに来るすべての子どもたちに。
和菓子が好きだったおばあちゃんのことを泣きながら思い出した子どもも、大丈夫って言い続けた夜も、全部、餡の中に入っている。そういう話を、いつか。
あの夜、横川で炊いた餡の話を、いつか子どもたちにしよう、と葵は思った。
木べらが、餡の上をゆっくりと動く。甘い香りが、工房に満ちていく。
横川の夜は、静かで、やさしかった。
完
咲餡が開店して半年が経った、九月の土曜日の午後。
横川の路地は、まだ少し夏の名残を引きずっていたが、店の中に入ると、かすかに秋の気配があった。凛が選んだほうじ茶の香りと、葵が炊いた栗の餡の甘い匂いが混ざり合っている。
午後三時になると、引き戸が開いて、ランドセル姿の子どもたちが入ってきた。
向井蓮と、友達が三人。
「こんにちは」と四人は声を揃えて言った。
「いらっしゃい」と葵は言った。
「今日も作っていい?」と蓮が聞いた。先週も、先々週も来て、練り切りを作って帰っていた。ランドセルを背負ったまましゃがんでいた蓮は、いつの間にか、この店の一番若い常連になっていた。
「もちろん」と葵は言って、奥のワークショップ室に案内した。
菓子型の木箱が棚に並んでいる。桜、菊、松、鶴。「桐島」の刻印が入った、祖父の記憶。
四人の子どもたちが机に座って、練り切り餡を手にした。始めは「なにこれ」「気持ちいい」と騒いでいたが、しばらくすると静かになった。一人ひとりが、自分の形を作ることに集中している。
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凛がカメラを持って隣に来た。「撮ってもいい?」とワークショップ室の子どもたちに聞くと、四人は「いいよ」と言って、でもすぐカメラのことを忘れてまた自分の餡に向き直った。
「いい絵だね」と凛は葵に小さく言った。
「うん」と葵は言った。
その日の夕方、沙織が仕事帰りに立ち寄った。顔色がよくなっていた。新しい仕事が決まって、昼間の仕事に変えたと、先月話してくれていた。
「蓮、迷惑かけてないですか」と沙織はいつも言う。
「迷惑どころか、助かってます」と葵はいつも答える。
「いつもありがとうございます」と沙織は言って、今日も栗の上生菓子を二つ買って帰った。一つは蓮のためだろう、と葵は思った。
閉店後、葵と凛は二人でカウンターに並んで、お茶を飲んだ。
凛が「拓海から今日、電話来た」と言った。
「どうだった?」と葵は聞いた。
「会社、畳むことにしたって。ちゃんと整理して、また一から始めるって」と凛は言った。「どう思う?」
「凛がどう思うかだよ」と葵は言った。
「わかってるけど、聞きたかっただけ」と凛は笑った。「私はね、もう少し、見てみようと思ってる。正直に話してくれるようになったし」
「うん」
「先のことはわからないけど、今は、それでいい」
葵は頷いた。
店内が片付いて、葵は工房の準備をした。明日の仕込みのために、今夜のうちにやっておくことがある。
銅鍋に水を張って、小豆を入れる。火にかける。沸騰したら一度湯を捨てる。これを二度繰り返す。アクを取る。砂糖を加えて、弱火で練る。
葵はひとり、木べらを動かしながら思った。
あの夜、東広島の工房で泣きながら炊いた餡のことを。捨てられなくて、冷凍して、五ヶ月後に開店日の菓子に使ったことを。あの餡に込めたものが何だったかを、今は少しわかる気がした。
終わりではなかった。始まりだった。
泣いていた夜も、言えなかった夜も、全部が今夜この工房に繋がっている。
いつか、この話を子どもたちにしよう、と葵は思った。蓮に、蓮の友達に、これからここに来るすべての子どもたちに。
和菓子が好きだったおばあちゃんのことを泣きながら思い出した子どもも、大丈夫って言い続けた夜も、全部、餡の中に入っている。そういう話を、いつか。
あの夜、横川で炊いた餡の話を、いつか子どもたちにしよう、と葵は思った。
木べらが、餡の上をゆっくりと動く。甘い香りが、工房に満ちていく。
横川の夜は、静かで、やさしかった。
完
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