『横川夜咄(よこがわよばなし)』 ―和菓子と夢と、小さな嘘―

バーガヤマスター

文字の大きさ
16 / 16

エピローグ「春の上生菓子」

しおりを挟む
エピローグ「春の上生菓子」

 咲餡が開店して半年が経った、九月の土曜日の午後。
 横川の路地は、まだ少し夏の名残を引きずっていたが、店の中に入ると、かすかに秋の気配があった。凛が選んだほうじ茶の香りと、葵が炊いた栗の餡の甘い匂いが混ざり合っている。
 午後三時になると、引き戸が開いて、ランドセル姿の子どもたちが入ってきた。
 向井蓮と、友達が三人。
「こんにちは」と四人は声を揃えて言った。
「いらっしゃい」と葵は言った。
「今日も作っていい?」と蓮が聞いた。先週も、先々週も来て、練り切りを作って帰っていた。ランドセルを背負ったまましゃがんでいた蓮は、いつの間にか、この店の一番若い常連になっていた。
「もちろん」と葵は言って、奥のワークショップ室に案内した。
 菓子型の木箱が棚に並んでいる。桜、菊、松、鶴。「桐島」の刻印が入った、祖父の記憶。
 四人の子どもたちが机に座って、練り切り餡を手にした。始めは「なにこれ」「気持ちいい」と騒いでいたが、しばらくすると静かになった。一人ひとりが、自分の形を作ることに集中している。
 葵はその様子を、入口から見ていた。
 凛がカメラを持って隣に来た。「撮ってもいい?」とワークショップ室の子どもたちに聞くと、四人は「いいよ」と言って、でもすぐカメラのことを忘れてまた自分の餡に向き直った。
「いい絵だね」と凛は葵に小さく言った。
「うん」と葵は言った。
 その日の夕方、沙織が仕事帰りに立ち寄った。顔色がよくなっていた。新しい仕事が決まって、昼間の仕事に変えたと、先月話してくれていた。
「蓮、迷惑かけてないですか」と沙織はいつも言う。
「迷惑どころか、助かってます」と葵はいつも答える。
「いつもありがとうございます」と沙織は言って、今日も栗の上生菓子を二つ買って帰った。一つは蓮のためだろう、と葵は思った。
 閉店後、葵と凛は二人でカウンターに並んで、お茶を飲んだ。
 凛が「拓海から今日、電話来た」と言った。
「どうだった?」と葵は聞いた。
「会社、畳むことにしたって。ちゃんと整理して、また一から始めるって」と凛は言った。「どう思う?」
「凛がどう思うかだよ」と葵は言った。
「わかってるけど、聞きたかっただけ」と凛は笑った。「私はね、もう少し、見てみようと思ってる。正直に話してくれるようになったし」
「うん」
「先のことはわからないけど、今は、それでいい」
 葵は頷いた。
 店内が片付いて、葵は工房の準備をした。明日の仕込みのために、今夜のうちにやっておくことがある。
 銅鍋に水を張って、小豆を入れる。火にかける。沸騰したら一度湯を捨てる。これを二度繰り返す。アクを取る。砂糖を加えて、弱火で練る。
 葵はひとり、木べらを動かしながら思った。
 あの夜、東広島の工房で泣きながら炊いた餡のことを。捨てられなくて、冷凍して、五ヶ月後に開店日の菓子に使ったことを。あの餡に込めたものが何だったかを、今は少しわかる気がした。
 終わりではなかった。始まりだった。
 泣いていた夜も、言えなかった夜も、全部が今夜この工房に繋がっている。
 いつか、この話を子どもたちにしよう、と葵は思った。蓮に、蓮の友達に、これからここに来るすべての子どもたちに。
 和菓子が好きだったおばあちゃんのことを泣きながら思い出した子どもも、大丈夫って言い続けた夜も、全部、餡の中に入っている。そういう話を、いつか。
 あの夜、横川で炊いた餡の話を、いつか子どもたちにしよう、と葵は思った。
 木べらが、餡の上をゆっくりと動く。甘い香りが、工房に満ちていく。
 横川の夜は、静かで、やさしかった。

しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~

二階堂吉乃
恋愛
 同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。  1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。  一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。

隠れた花嫁を迎えに

星乃和花
恋愛
(完結済:本編8話+後日談1話) 結婚式を控えた同居中の婚約者・リリィには、ひとつだけ困った癖がある。 それは、寝癖が直らないだけで、角砂糖を落としただけで、屋敷のどこかに“こっそり”隠れてしまうこと。 けれど、完璧超人と噂される婚約者・レオンは、彼女が隠れるたび必ず見つけ出し、叱らず、急かさず、甘く寄り添って迎えに来る。 「本当に私でいいのかな」——花嫁になる前夜、ベッドの下で震えるリリィに、レオンが差し出したのは“答え”ではなく、同じ目線と温かな手だった。 ほのぼの王都、屋敷内かくれんぼ溺愛ラブ。 「隠れてもいい。迎えに行くから。」

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました

美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?

✿ 私は夫のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい 

設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀ 結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。 結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。 それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて しなかった。 呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。 それなのに、私と別れたくないなんて信じられない 世迷言を言ってくる夫。 だめだめ、信用できないからね~。 さようなら。 *******.✿..✿.******* ◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才   会社員 ◇ 日比野ひまり 32才 ◇ 石田唯    29才          滉星の同僚 ◇新堂冬也    25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社) 2025.4.11 完結 25649字 

処理中です...