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第十五章「咲餡、開店」
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第十五章「咲餡、開店」
三月の最後の土曜日、和菓子カフェ「咲餡(さきあん)」は、横川の路地で静かに扉を開けた。
前日の夜から、葵は東広島の工房にいた。
開店当日に出す上生菓子の最終確認をするためだったが、それだけではなかった。葵には、どうしても使いたい餡があった。
冷凍庫を開けると、白い容器が一つ、静かにそこにあった。
十月の終わり、田村に別れを告げられた夜。泣きながら炊いて、捨てられなくて、冷凍した餡。あれから五ヶ月が経っていた。
葵は容器を取り出して、手のひらで温度を確かめた。
使える。
解凍してみると、餡は変わらずきれいな色をしていた。炊いたときの丁寧さが、五ヶ月を経ても保たれている。葵はそれを少し口に入れた。甘い。ちゃんと甘い。甘さの奥に、影がある。祖父の言っていた通りの、影のある甘さ。
この餡で、今日の一番の上生菓子を作ろう、と葵は思った。
開店当日の朝、父・隆司が東広島から来た。
一人で、電車に乗って、横川に来た。葵に何も言わずに来た。
葵が開店準備をしていると、引き戸の外に父が立っていた。紺の作務衣姿で、菓子型の木箱を胸に抱えていた。
「来てくれたの」と葵は言った。
「来ただけじゃ」と隆司は言った。「手伝いはせん。ただ、見る」
「ありがとう」と葵は言った。
隆司は木箱を葵に渡した。「持って来い、と言ったから、持ってきた」
葵は木箱を受け取った。桜の型。菊の型。松の型。裏に「桐島」の刻印。祖父が山路惣一に贈った、桐島屋の記憶。
「ここで使います」と葵は言った。
隆司は頷いた。横川の路地を、少し見渡した。ゆっくりと、何かを確かめるように。それから「ええ場所じゃな」とだけ言った。
開店は十一時だった。
凛がカメラを回しながら、店の前の様子を配信した。十一時ちょうどに葵が引き戸を開けると、すでに数人が待っていた。里佳の広報のおかげで来てくれた保護者の方たち、クラウドファンディングの支援者たち、横川商店街の常連客たち。
本田哲也も来た。「祝いに来ましたよ」と言って、カウンター席に座った。
葵はカウンターに立って、一人ひとりにお茶と上生菓子を出した。
今日の一番の菓子は「春暁(しゅんぎょう)」と名付けた。夜明け前の空の色を、練り切りで表現した。薄い紫から白へのグラデーション。中はあの夜の餡だ。
凛は開店の合間に葵の隣に来て、小さな声で言った。
「お母さんから昨日、電話来た」
「お母さんから?」と葵は聞いた。
「うん。カフェのこと、応援してるって。拓海の話も、ちゃんと聞いてくれた」
「よかった」と葵は言った。
「泣かれたよ、なんで早く言わないのって」と凛は苦笑した。「それはそうだよねって思ったけど。でも言えてよかった。怖かったけど、言ったらすっきりした」
「正直でいてよ、って言ったの、凛だからね」
「知ってる」と凛は笑った。「お互いにね」
昼過ぎに、蓮が来た。
友達を二人連れて、照れくさそうに引き戸を開けた。いつものランドセルではなく、私服だった。髪がきちんと整えられていた。沙織が整えてあげたのだろう、と葵は思った。
「いらっしゃい」と葵は言った。
「来ました」と蓮は言った。また礼儀正しく。でも今日は緊張の礼儀正しさではなく、少し誇らしげな礼儀正しさだった。
三人に「春暁」を出すと、蓮は一口食べて、目を細めた。
「おいしい」と蓮は言った。それから「なんか、懐かしい」とつぶやいた。
「おばあちゃんの味に似てる?」と葵は小さく聞いた。
蓮はしばらく考えてから、「似てる気もするし、違う気もするけど」と言った。「でも、同じくらい好き」
「ありがとう」と葵は言った。
夕方近くに、田村誠が一人で来た。
コートのポケットに手を入れて、引き戸の前に立つ誠を、葵はカウンターの奥から見た。誠は少し躊躇してから、引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ」と葵は言った。
誠はカウンターに座って、メニューを眺めた。「上生菓子とお茶、お願いします」と言った。
葵は「春暁」を出した。
誠はそれをしばらく見てから、食べた。何も言わなかった。お茶を飲んで、会計をして、立ち上がった。
「きれいだな」と誠は言った。菓子のことか、店のことか、あるいは別の何かのことか、葵にはわからなかった。
「ありがとうございます」と葵は言った。
誠は出て行った。葵はその後ろ姿を見送って、それから次のお客さんに向き直った。
閉店は夜の八時だった。
最後のお客さんが帰って、引き戸を閉めて、葵と凛は二人でカウンターに並んで座った。疲れていたが、よい疲れだった。
「やったね」と凛が言った。
「やったね」と葵は言った。
カウンターの端に、菓子型の木箱が置いてある。「桐島」の刻印が、電球の光を受けていた。
「ねえ」と凛が言った。「拓海から今日、メッセージ来た。『開店おめでとう。ちゃんとやり直す』って」
「そっか」と葵は言った。
「まだ、よくわからない」と凛は言った。「拓海との先のことは、まだ」
「うん」
「でも今日は、それでいい」
「うん」と葵は言った。
二人はしばらく黙って、静かな店内を見渡した。
格子窓の向こうは、横川の夜だ。街灯がぼんやり光っていて、時折、人が通り過ぎる。
祖父の弟子が開いた店。父が想いを残した場所。蓮が一人でしゃがんでいた路地の近く。凛と葵が何度も夜を話した街。
この場所で、今日、何かが始まった。
隆司は閉店まで、入り口近くの小さな丸椅子に座って、静かに店を見ていた。
帰り際、葵に「ご苦労さん」と言った。桐島屋で毎日聞いている言葉だったが、今日はいつもと少し違う重さがあった。
「また来る?」と葵は聞いた。
「さあな」と隆司は言った。でも、来るだろう、と葵は思った。
父の後ろ姿が横川の夜に消えていくのを見送って、葵は店に戻った。
凛がカウンターで、スマートフォンで今日の動画を確認しながら「再生数、もう五千超えた」と言っていた。
「すごいね」と葵は言った。
「これからだよ」と凛は言った。
葵は「そうだね」と言って、冷蔵庫を開けた。今夜の残りの餡を、明日のために丁寧に保存する。
あの夜の餡は、今日使い切った。
冷凍庫はからっぽだ。でも明日からまた、新しい餡を炊く。
葵はエプロンの紐を結んで、片付けを始めた。
つづく
三月の最後の土曜日、和菓子カフェ「咲餡(さきあん)」は、横川の路地で静かに扉を開けた。
前日の夜から、葵は東広島の工房にいた。
開店当日に出す上生菓子の最終確認をするためだったが、それだけではなかった。葵には、どうしても使いたい餡があった。
冷凍庫を開けると、白い容器が一つ、静かにそこにあった。
十月の終わり、田村に別れを告げられた夜。泣きながら炊いて、捨てられなくて、冷凍した餡。あれから五ヶ月が経っていた。
葵は容器を取り出して、手のひらで温度を確かめた。
使える。
解凍してみると、餡は変わらずきれいな色をしていた。炊いたときの丁寧さが、五ヶ月を経ても保たれている。葵はそれを少し口に入れた。甘い。ちゃんと甘い。甘さの奥に、影がある。祖父の言っていた通りの、影のある甘さ。
この餡で、今日の一番の上生菓子を作ろう、と葵は思った。
開店当日の朝、父・隆司が東広島から来た。
一人で、電車に乗って、横川に来た。葵に何も言わずに来た。
葵が開店準備をしていると、引き戸の外に父が立っていた。紺の作務衣姿で、菓子型の木箱を胸に抱えていた。
「来てくれたの」と葵は言った。
「来ただけじゃ」と隆司は言った。「手伝いはせん。ただ、見る」
「ありがとう」と葵は言った。
隆司は木箱を葵に渡した。「持って来い、と言ったから、持ってきた」
葵は木箱を受け取った。桜の型。菊の型。松の型。裏に「桐島」の刻印。祖父が山路惣一に贈った、桐島屋の記憶。
「ここで使います」と葵は言った。
隆司は頷いた。横川の路地を、少し見渡した。ゆっくりと、何かを確かめるように。それから「ええ場所じゃな」とだけ言った。
開店は十一時だった。
凛がカメラを回しながら、店の前の様子を配信した。十一時ちょうどに葵が引き戸を開けると、すでに数人が待っていた。里佳の広報のおかげで来てくれた保護者の方たち、クラウドファンディングの支援者たち、横川商店街の常連客たち。
本田哲也も来た。「祝いに来ましたよ」と言って、カウンター席に座った。
葵はカウンターに立って、一人ひとりにお茶と上生菓子を出した。
今日の一番の菓子は「春暁(しゅんぎょう)」と名付けた。夜明け前の空の色を、練り切りで表現した。薄い紫から白へのグラデーション。中はあの夜の餡だ。
凛は開店の合間に葵の隣に来て、小さな声で言った。
「お母さんから昨日、電話来た」
「お母さんから?」と葵は聞いた。
「うん。カフェのこと、応援してるって。拓海の話も、ちゃんと聞いてくれた」
「よかった」と葵は言った。
「泣かれたよ、なんで早く言わないのって」と凛は苦笑した。「それはそうだよねって思ったけど。でも言えてよかった。怖かったけど、言ったらすっきりした」
「正直でいてよ、って言ったの、凛だからね」
「知ってる」と凛は笑った。「お互いにね」
昼過ぎに、蓮が来た。
友達を二人連れて、照れくさそうに引き戸を開けた。いつものランドセルではなく、私服だった。髪がきちんと整えられていた。沙織が整えてあげたのだろう、と葵は思った。
「いらっしゃい」と葵は言った。
「来ました」と蓮は言った。また礼儀正しく。でも今日は緊張の礼儀正しさではなく、少し誇らしげな礼儀正しさだった。
三人に「春暁」を出すと、蓮は一口食べて、目を細めた。
「おいしい」と蓮は言った。それから「なんか、懐かしい」とつぶやいた。
「おばあちゃんの味に似てる?」と葵は小さく聞いた。
蓮はしばらく考えてから、「似てる気もするし、違う気もするけど」と言った。「でも、同じくらい好き」
「ありがとう」と葵は言った。
夕方近くに、田村誠が一人で来た。
コートのポケットに手を入れて、引き戸の前に立つ誠を、葵はカウンターの奥から見た。誠は少し躊躇してから、引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ」と葵は言った。
誠はカウンターに座って、メニューを眺めた。「上生菓子とお茶、お願いします」と言った。
葵は「春暁」を出した。
誠はそれをしばらく見てから、食べた。何も言わなかった。お茶を飲んで、会計をして、立ち上がった。
「きれいだな」と誠は言った。菓子のことか、店のことか、あるいは別の何かのことか、葵にはわからなかった。
「ありがとうございます」と葵は言った。
誠は出て行った。葵はその後ろ姿を見送って、それから次のお客さんに向き直った。
閉店は夜の八時だった。
最後のお客さんが帰って、引き戸を閉めて、葵と凛は二人でカウンターに並んで座った。疲れていたが、よい疲れだった。
「やったね」と凛が言った。
「やったね」と葵は言った。
カウンターの端に、菓子型の木箱が置いてある。「桐島」の刻印が、電球の光を受けていた。
「ねえ」と凛が言った。「拓海から今日、メッセージ来た。『開店おめでとう。ちゃんとやり直す』って」
「そっか」と葵は言った。
「まだ、よくわからない」と凛は言った。「拓海との先のことは、まだ」
「うん」
「でも今日は、それでいい」
「うん」と葵は言った。
二人はしばらく黙って、静かな店内を見渡した。
格子窓の向こうは、横川の夜だ。街灯がぼんやり光っていて、時折、人が通り過ぎる。
祖父の弟子が開いた店。父が想いを残した場所。蓮が一人でしゃがんでいた路地の近く。凛と葵が何度も夜を話した街。
この場所で、今日、何かが始まった。
隆司は閉店まで、入り口近くの小さな丸椅子に座って、静かに店を見ていた。
帰り際、葵に「ご苦労さん」と言った。桐島屋で毎日聞いている言葉だったが、今日はいつもと少し違う重さがあった。
「また来る?」と葵は聞いた。
「さあな」と隆司は言った。でも、来るだろう、と葵は思った。
父の後ろ姿が横川の夜に消えていくのを見送って、葵は店に戻った。
凛がカウンターで、スマートフォンで今日の動画を確認しながら「再生数、もう五千超えた」と言っていた。
「すごいね」と葵は言った。
「これからだよ」と凛は言った。
葵は「そうだね」と言って、冷蔵庫を開けた。今夜の残りの餡を、明日のために丁寧に保存する。
あの夜の餡は、今日使い切った。
冷凍庫はからっぽだ。でも明日からまた、新しい餡を炊く。
葵はエプロンの紐を結んで、片付けを始めた。
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