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第七章「最初の一歩は泥だらけ」
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第七章「最初の一歩は泥だらけ」
「息子に店を継がせたいとは思わない。ここで終わらせたくないだけだ。息子には、もっと広い場所で生きてほしい」——ある男の日記より
物件が決まったのは十一月の下旬だった。
商店街の中ほどにある元雑貨店。シャッターが下りてから七年。オーナーは宇部市内に住む六十代の男性で、凛が商工会議所の人脈を通じてアポイントを取った。最初は「今さら貸しても……」と乗り気でなかったが、凛が粘り強く交渉し、「三ヶ月間、月三万円で試してみてください」という条件を引き出した。
「どうせすぐ辞めるだろう」とオーナーは言った。
「辞めません」と凛は言い返した。その言い方が気に入ったのか、オーナーは苦笑して「わかった」と言った。
鍵を受け取った日、チームの全員が集まった。シャッターを上げると、七年分の埃と黴の匂いが押し出してきた。床には黒い染みがあちこちに広がり、天井の一部が黄ばんで膨らんでいた。壁には棚の取り付け跡が残り、ところどころに謎の穴が空いている。
咲が真っ先に中に入って、ぐるりと見回した。
「いい」と言った。
「何がいいんですか」と蒼が呆れたように言った。
「骨格がいい。天井高がある。壁の素材が面白い。これ、ちゃんとやれば絶対いい空間になる」
咲はその場でスケッチブックを開き、鉛筆を走らせ始めた。
翌週末から清掃・改修作業が始まった。
壁の染みを落とし、床を磨き、天井の膨らみを修繕し、棚の跡を埋める。本来なら業者に頼む仕事だったが、予算がない。全員で分担して手を動かすことになった。
健太がSNSでライブ配信を始めると、意外にも反響があった。「手伝いに行きます」というコメントが数件届き、翌週末には知らない顔が三人増えた。一人は宇部市内の会社員、一人は山口大学の別学部の学生、一人は高校生だった。
「繋がれるじゃないか」と蒼は思った。
しかし問題は次々と出てきた。
電気の容量が足りず、改修に必要な工具が使えない。排水管が詰まっており、水を流すと逆流してくる。近隣の商店主から「何をやる気だ、うるさい」という苦情が来た。床を磨くための洗剤を間違えて、一部を変色させてしまった。
蒼は問題の解決に追われ続けた。電気屋に電話し、水道業者に連絡し、苦情の出た隣の店主に頭を下げに行き、変色した床の補修方法を調べた。本来の「設計」に考えが向く余裕がなかった。
問題が続いた三日目の夜、蒼と咲の間でやりとりが起きた。
壁の仕上げについて、意見が割れた。蒼は「予算の都合上、壁はそのままにして什器のレイアウトで勝負する」と言い、咲は「壁が死んでいたら空間が死ぬ。ここを妥協したら全部崩れる」と言った。
「予算がない以上は仕方がない」
「仕方ないで諦めるのが嫌だから来てるんじゃないの?」
「理想論だ。今持っているお金の中でやるしかない」
「あなたはいつもデータと数字で決めようとする。でも人の心はデータで動かない」
声が少し大きくなった。他のメンバーが静まり返って作業の手を止めた。
「じゃあ何で動くんですか」と蒼が言った。冷静を保とうとしているが、声が硬かった。
「感動だよ! この空間に来て何かを感じた、あの場所にもう一度行きたい、そう思わせるものがなかったら人は来ない。それがデザインの仕事だ」
しばらく沈黙が続いた。
健太が「今日はここまでにしましょう」とそっと言った。
作業を片付けて全員が出ていき、蒼と咲だけが残った。お互い背を向けて、違う方向の壁を見ていた。
「怒らせた」と咲は思った。でも言い過ぎたとは思わなかった。
「正論だ」と蒼は思った。でも今の自分には処理できる余裕がなかった。
その夜遅く、蒼のスマートフォンにメッセージが届いた。坂本だった。
「二人の言い分、どっちが正しいと思いますか」
誰かが報告したのか、と蒼は思った。いや、毎回そういうタイミングで連絡が来る。偶然じゃないとしたら、坂本には何かが見えているのかもしれない。
蒼は返信を打った。「……どっちも」。
送信ボタンを押そうとして、止めた。消した。
でも打った瞬間に、何かが決まった気がした。
翌朝、蒼は材料店に電話をかけた。「珪藻土の壁材、一番安いのはいくらですか」。
咲がやりたいことを、予算の中でできる範囲に落とし込む方法を探す。それが自分の仕事だ、と思った。
アパートを出ると、空が明るかった。
その日の夜、凛が作業の合間に思い出したように言った。
「そういえば」と凛が切り出した。「坂本さんって、五年前に宇部に来てたよな。確か父の友人の葬儀の時に商店街で見かけた気がするんだよな。雰囲気が独特だから、よく覚えてる」
蒼が手を止めた。「え、五年前に? 彼、二十七年帰ってないって言ってましたよね」
「……そうだっけか。俺の見間違いかな。似た人だったのかも」
凛は自分でも確信が持てなかったようで、それ以上追わなかった。話題はすぐに作業の段取りに戻った。
でも蒼はそのまま考え続けた。二十七年帰っていない、と言った。でも五年前に見かけた、という人間がいる。
この二つは、どちらが本当なのか。あるいは両方、ある意味で本当なのか。
蒼はその問いをメモ帳の隅に小さく書いてから、また工具を手にした。
つづく
「息子に店を継がせたいとは思わない。ここで終わらせたくないだけだ。息子には、もっと広い場所で生きてほしい」——ある男の日記より
物件が決まったのは十一月の下旬だった。
商店街の中ほどにある元雑貨店。シャッターが下りてから七年。オーナーは宇部市内に住む六十代の男性で、凛が商工会議所の人脈を通じてアポイントを取った。最初は「今さら貸しても……」と乗り気でなかったが、凛が粘り強く交渉し、「三ヶ月間、月三万円で試してみてください」という条件を引き出した。
「どうせすぐ辞めるだろう」とオーナーは言った。
「辞めません」と凛は言い返した。その言い方が気に入ったのか、オーナーは苦笑して「わかった」と言った。
鍵を受け取った日、チームの全員が集まった。シャッターを上げると、七年分の埃と黴の匂いが押し出してきた。床には黒い染みがあちこちに広がり、天井の一部が黄ばんで膨らんでいた。壁には棚の取り付け跡が残り、ところどころに謎の穴が空いている。
咲が真っ先に中に入って、ぐるりと見回した。
「いい」と言った。
「何がいいんですか」と蒼が呆れたように言った。
「骨格がいい。天井高がある。壁の素材が面白い。これ、ちゃんとやれば絶対いい空間になる」
咲はその場でスケッチブックを開き、鉛筆を走らせ始めた。
翌週末から清掃・改修作業が始まった。
壁の染みを落とし、床を磨き、天井の膨らみを修繕し、棚の跡を埋める。本来なら業者に頼む仕事だったが、予算がない。全員で分担して手を動かすことになった。
健太がSNSでライブ配信を始めると、意外にも反響があった。「手伝いに行きます」というコメントが数件届き、翌週末には知らない顔が三人増えた。一人は宇部市内の会社員、一人は山口大学の別学部の学生、一人は高校生だった。
「繋がれるじゃないか」と蒼は思った。
しかし問題は次々と出てきた。
電気の容量が足りず、改修に必要な工具が使えない。排水管が詰まっており、水を流すと逆流してくる。近隣の商店主から「何をやる気だ、うるさい」という苦情が来た。床を磨くための洗剤を間違えて、一部を変色させてしまった。
蒼は問題の解決に追われ続けた。電気屋に電話し、水道業者に連絡し、苦情の出た隣の店主に頭を下げに行き、変色した床の補修方法を調べた。本来の「設計」に考えが向く余裕がなかった。
問題が続いた三日目の夜、蒼と咲の間でやりとりが起きた。
壁の仕上げについて、意見が割れた。蒼は「予算の都合上、壁はそのままにして什器のレイアウトで勝負する」と言い、咲は「壁が死んでいたら空間が死ぬ。ここを妥協したら全部崩れる」と言った。
「予算がない以上は仕方がない」
「仕方ないで諦めるのが嫌だから来てるんじゃないの?」
「理想論だ。今持っているお金の中でやるしかない」
「あなたはいつもデータと数字で決めようとする。でも人の心はデータで動かない」
声が少し大きくなった。他のメンバーが静まり返って作業の手を止めた。
「じゃあ何で動くんですか」と蒼が言った。冷静を保とうとしているが、声が硬かった。
「感動だよ! この空間に来て何かを感じた、あの場所にもう一度行きたい、そう思わせるものがなかったら人は来ない。それがデザインの仕事だ」
しばらく沈黙が続いた。
健太が「今日はここまでにしましょう」とそっと言った。
作業を片付けて全員が出ていき、蒼と咲だけが残った。お互い背を向けて、違う方向の壁を見ていた。
「怒らせた」と咲は思った。でも言い過ぎたとは思わなかった。
「正論だ」と蒼は思った。でも今の自分には処理できる余裕がなかった。
その夜遅く、蒼のスマートフォンにメッセージが届いた。坂本だった。
「二人の言い分、どっちが正しいと思いますか」
誰かが報告したのか、と蒼は思った。いや、毎回そういうタイミングで連絡が来る。偶然じゃないとしたら、坂本には何かが見えているのかもしれない。
蒼は返信を打った。「……どっちも」。
送信ボタンを押そうとして、止めた。消した。
でも打った瞬間に、何かが決まった気がした。
翌朝、蒼は材料店に電話をかけた。「珪藻土の壁材、一番安いのはいくらですか」。
咲がやりたいことを、予算の中でできる範囲に落とし込む方法を探す。それが自分の仕事だ、と思った。
アパートを出ると、空が明るかった。
その日の夜、凛が作業の合間に思い出したように言った。
「そういえば」と凛が切り出した。「坂本さんって、五年前に宇部に来てたよな。確か父の友人の葬儀の時に商店街で見かけた気がするんだよな。雰囲気が独特だから、よく覚えてる」
蒼が手を止めた。「え、五年前に? 彼、二十七年帰ってないって言ってましたよね」
「……そうだっけか。俺の見間違いかな。似た人だったのかも」
凛は自分でも確信が持てなかったようで、それ以上追わなかった。話題はすぐに作業の段取りに戻った。
でも蒼はそのまま考え続けた。二十七年帰っていない、と言った。でも五年前に見かけた、という人間がいる。
この二つは、どちらが本当なのか。あるいは両方、ある意味で本当なのか。
蒼はその問いをメモ帳の隅に小さく書いてから、また工具を手にした。
つづく
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