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校則撤廃。――僕たちは、再び立ち上がるためにルールを壊した。第一章
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第一章:鉄輪の咆哮、沈黙の箱庭
広島、横川。JR山陽本線と可部線が複雑に交差し、路面電車のレールが街の表面を銀色の血管のように這うこの街は、どこか奇妙な二面性を抱えている。高架下には、戦後の煤を吸い込んだような古い飲み屋がひしめき、昼間から煮込み料理の香りと排気ガスの匂いが入り混じる。再開発で整えられた駅前広場から一歩路地へ踏み込めば、そこには行き止まりだらけの迷路のような暗がりが広がっていた。佐伯永遠(さえき とわ)は、その迷路の一部であるかのような、くたびれたコンクリート壁に囲まれた私立誠和学園の三年生だった。
六月の湿気は、まるで濡れた綿を喉の奥に詰め込まれたような不快感を伴っていた。全校生徒が体育館に集められたその日、天井の大型扇風機は生温い空気をかき回すだけで、床に座り込む生徒たちの熱気は飽和状態に達していた。永遠は、体育館の窓から見える黄色い山陽本線の車両が、金属音を立てて通過していくのを眺めていた。あの列車に乗れば、この息苦しい場所からわずか数分で、見知らぬ景色へと抜け出せる。しかし、自分たちの足首には、見えない鎖が幾重にも巻き付いている。それが「校則」という名の、逆らうことの許されない絶対的な秩序だった。
誠和学園の校則は、近隣の公立校に比べても異常なほど厳格だった。靴は白、靴下は三つ折り、髪型は耳にかかってはならず、地毛が茶色い者には「地毛証明書」の提出だけでなく、定期的な面談が課される。そして何より、この街の象徴でもある「高架下の飲食店街」への立ち入りは、保護者同伴であっても厳禁とされていた。理由は「生徒の品位を保ち、犯罪から守るため」という建前だったが、生徒たちにとっては、自分たちの生活圏の半分を不当に奪われているに等しかった。この街で生まれ育った者にとって、高架下は単なる飲食店街ではなく、日常そのものであり、誰かの生活を支える血の通った場所なのだ。それを「不衛生」「治安の悪化」という記号で塗りつぶす学校側の姿勢に、生徒たちは静かな、しかし確かな反発を抱いていた。
「静粛に」
壇上に立った生活指導部長、古谷の声がマイクを通じて体育館に響き渡った。その声は、錆びた鉄を擦り合わせるような不快な高音を含んでいる。古谷は「歩く校則」と呼ばれ、生徒たちの間では死神のように恐れられていた。彼の視線に射抜かれれば、どんなに血気の盛んな男子生徒も蛇に睨まれた蛙のように硬直する。古谷の眼鏡の奥にある瞳は、常に「違反者」を探しており、そこには教育者としての慈しみなど欠片も存在しなかった。彼は、手に持っていた透明なビニール袋を高く掲げた。中には、泥に汚れた安物の黒いスニーカーが入っていた。
「七海汐里(ななみ しおり)、前へ」
名指しされた瞬間、永遠の三列ほど前に座っていた少女の背中が、目に見えて震えた。七海汐里。クラスでは常に窓際の席で静かに本を読んでいる、影の薄い女子生徒だった。彼女は消え入りそうな足取りで、何百人もの視線が突き刺さる壇上へと歩みを進める。彼女が履いているのは、校則で指定された真っ白な通学靴だった。しかし、古谷が掲げた黒いスニーカーは、明らかに彼女のものとして提示されていた。体育館の空気は一瞬にして凍りつき、床を這う湿気さえもが鋭い針のように感じられた。
「七海。昨夜、横川駅高架下の居酒屋で、お前がこの靴を履いて働いているという報告があった。さらに、報告によればお前の髪は今よりもずっと明るい色をしていたという。学校へ来るために、わざわざ色を戻したのか? それとも、あの場所の不潔な光に染まっていただけか?」
古谷の言葉には、明白な蔑みが込められていた。生徒たちの間に、どよめきが走る。驚きよりも「次は自分かもしれない」という恐怖が伝染していく。七海は俯いたまま、握りしめた拳を震わせていた。彼女の家が経済的に困難な状況にあることは、一部の教師しか知らないはずだった。彼女にとってアルバイトは小遣い稼ぎではなく、病床にある母親を支え、自らの生活を繋ぎ止めるための命綱だったのだ。しかし、校則という機械的な刃は、そのような個別の事情など考慮しない。
「……違います。私は、そんなところには」
七海の声は震えていた。それは嘘をつく者の声ではなく、あまりにも重い現実に押し潰されそうな者の声だった。しかし、古谷はその微かな抵抗を、暴力的な叱責でねじ伏せた。
「嘘をつくな! 目撃したのは本校の教員だ。嘘を重ねることは、自らの品位をさらに貶める行為だ。七海、お前には一週間の自宅謹慎、および校則に則った頭髪の黒染め、そして反省文千枚を命じる。わかったか。この学園の秩序を乱す毒は、徹底的に排除しなければならない」
七海の瞳から、大粒の涙が床にこぼれ落ちた。彼女が守ろうとしていた慎ましい生活が、たった一つのルールの剣によって切り裂かれた瞬間だった。永遠はそれを見ていた。拳を強く握り、爪が掌に食い込む痛みを感じていたが、声は出せなかった。自分もまた、この箱庭の中で飼い慣らされた一匹の羊に過ぎない。その無力さが、酸っぱい胃液のようにこみ上げてくる。
その時、静まり返った体育館の最後列から、乾いた拍手の音が響いた。パチ、パチ、パチ。ゆっくりとした、しかし確実な挑発。生徒たちが一斉に振り返る。そこに立っていたのは、制服の第一ボタンを外し、ネクタイを緩めた日向海斗(ひゅうが かいと)だった。彼は端正な顔立ちに、どこか人を食ったような笑みを浮かべていた。
「素晴らしい、古谷先生。一人の女子高生を大勢の前で晒し者にして、彼女の生活の糧まで奪う。それが教育ですか。それとも、単なる嗜虐趣味ですか? 品位、品位と繰り返しますが、あんたが今やっていることが最も品位に欠けるとは思わないんですか?」
日向の声は、よく通った。彼は壇上に向かって、ポケットに手を突っ込んだまま堂々と歩き出した。教師たちが慌てて彼を止めようとするが、日向はそれを軽やかにかわし、壇上のすぐ下で足を止めた。彼は、震える七海の肩にそっと手を置いた。
「先生、あんたの言う『守る』ってのは、檻の中に閉じ込めておくことと同義なのか。七海がなぜあそこで働いていたか、その背景を一度でも調べたのかよ。校則っていうのは、思考停止した大人がガキを管理しやすくするためのマニュアルに過ぎないんだ。それに従わない奴を『悪』と決めつけるのは、教育じゃなくて調教だろ」
全校生徒が息を呑んだ。日向の言葉は、彼らが心の奥底に封じ込めていた不満と怒りを、一気に解き放つトリガーとなった。体育館の空気は爆発寸前の圧力を持ち、古谷の顔は怒りで赤黒く染まっていく。
「日向君、そこまでになさい」
冷静だが、冷徹な響きを持つ声が響いた。壇上の脇に控えていた生徒会長、神崎雅(かんざき みやび)だった。彼女は常に完璧だった。背筋を伸ばし、一分の隙もない着こなしで、この学園の秩序を象徴する存在として君臨していた。彼女はマイクを受け取ると、静かに日向を見下ろした。彼女の瞳には、感情の揺らぎなど一切見えない。
「日向君、あなたの主張には一部、同情すべき点があるかもしれません。ですが、ルールを破ることは、この学園というコミュニティを維持するための契約を反故にすることです。正義があるなら、なぜ正当な手続きで校則の変更を訴えないのですか。このような暴力的な言動は、何も生み出しません。七海さんの件についても、学則に基づいた適切な処置が行われているだけです」
「正当な手続き、か。さすがは優等生の神崎さんだ」
日向は鼻で笑った。
「その手続きとやらで、今まで何が変わった? 生徒会の目安箱は、実質的には教師たちの検閲を通った意見しか反映されない。あんたが守っているのは秩序じゃない、ただの『自分たちの都合』だ。俺はね、神崎。この腐った箱庭を、一度更地にしてみたいんだよ。校則撤廃。それが俺の出す、最初の提案だ」
二人の視線がぶつかり合い、体育館の空気が発火しそうなほどに緊張する。永遠は、その光景を呆然と見守っていた。日向の激しさと、神崎の冷徹さ。そのどちらもが、自分とは無縁の世界の住人のように思えた。しかし、七海の震える肩を見た時、永遠の胸の奥で、何かが確かに軋んだ。あの日、自分が七海が高架下の居酒屋に入るのを見かけた時、なぜ声をかけなかったのか。なぜ、彼女の孤独に気づいていながら、見て見ぬふりをしたのか。
集会は、強制的な解散という形で幕を閉じた。日向は教員たちに取り押さえられ、指導室へと連行された。七海は、幽霊のような足取りで体育館を後にした。永遠は、彼女を追いかけることも、日向に加勢することもできず、ただそこに立ち尽くしていた。
その日の放課後、永遠はいつものように横川駅へと向かう道を歩いていた。いつもと変わらない、列車の音。いつもと変わらない、高架下の喧騒。だが、景色はどこか歪んで見えた。駅前の広場を横切るとき、ふと視線を感じて振り返ると、高架の影に一人の男が立っていた。教員でも生徒でもない、見慣れない風貌の男だった。男は永遠と目が合うと、不敵な笑みを浮かべて、ゆっくりと近づいてきた。
「……面白いものを見せてもらったよ、佐伯君」
男は、自分の名前を「阿澄(あすみ)」だと名乗った。彼は古びたライターで煙草に火を点け、紫煙を夜の闇へと吐き出した。
「君、あの壇上のドラマをどんな気持ちで見ていた? どちらが正しいと思う? 自由を叫ぶ少年か、秩序を守る少女か。それとも、どちらも間違っていると思うかい?」
「……僕は、ただの生徒です。そんなこと、考えたこともありません」
永遠が足早に立ち去ろうとすると、阿澄は背後から低い声で続けた。
「校則撤廃。それは甘美な響きだが、その向こう側には地獄が待っていることもある。君の父親なら、その意味が分かったはずなんだがね」
永遠の足が、凍りついたように止まった。父。十年前、この街から忽然と姿を消した、佐伯航の名前が、なぜこの男の口から出るのか。
「……父を、知っているんですか?」
阿澄は答えず、煙草を地面に落として踏み消した。
「誠和学園。あの場所は、君たちが思っている以上に深い闇を抱えている。校則はね、生徒を守るためのものじゃない。ある大きな『秘密』を隠すための蓋なんだよ。日向海斗がその蓋を開けようとしている。君はどうする? 蓋の上で震え続けるか、それとも闇の中に手を突っ込むか」
男はそれだけ言い残すと、横川の入り組んだ路地の奥へと消えていった。
永遠は、一人残された歩道橋の上で、激しく波打つ鼓動を鎮めようとしていた。父の失踪と、学園の校則。バラバラだったピースが、不気味な形を成して繋がろうとしていた。空からは、いつの間にか霧雨が降り始めていた。
横川の駅に滑り込んできた列車の警笛が、街の沈黙を切り裂く。それは、平穏だった永遠の日常が終わりを告げる、弔鐘のように聞こえた。
つづく
広島、横川。JR山陽本線と可部線が複雑に交差し、路面電車のレールが街の表面を銀色の血管のように這うこの街は、どこか奇妙な二面性を抱えている。高架下には、戦後の煤を吸い込んだような古い飲み屋がひしめき、昼間から煮込み料理の香りと排気ガスの匂いが入り混じる。再開発で整えられた駅前広場から一歩路地へ踏み込めば、そこには行き止まりだらけの迷路のような暗がりが広がっていた。佐伯永遠(さえき とわ)は、その迷路の一部であるかのような、くたびれたコンクリート壁に囲まれた私立誠和学園の三年生だった。
六月の湿気は、まるで濡れた綿を喉の奥に詰め込まれたような不快感を伴っていた。全校生徒が体育館に集められたその日、天井の大型扇風機は生温い空気をかき回すだけで、床に座り込む生徒たちの熱気は飽和状態に達していた。永遠は、体育館の窓から見える黄色い山陽本線の車両が、金属音を立てて通過していくのを眺めていた。あの列車に乗れば、この息苦しい場所からわずか数分で、見知らぬ景色へと抜け出せる。しかし、自分たちの足首には、見えない鎖が幾重にも巻き付いている。それが「校則」という名の、逆らうことの許されない絶対的な秩序だった。
誠和学園の校則は、近隣の公立校に比べても異常なほど厳格だった。靴は白、靴下は三つ折り、髪型は耳にかかってはならず、地毛が茶色い者には「地毛証明書」の提出だけでなく、定期的な面談が課される。そして何より、この街の象徴でもある「高架下の飲食店街」への立ち入りは、保護者同伴であっても厳禁とされていた。理由は「生徒の品位を保ち、犯罪から守るため」という建前だったが、生徒たちにとっては、自分たちの生活圏の半分を不当に奪われているに等しかった。この街で生まれ育った者にとって、高架下は単なる飲食店街ではなく、日常そのものであり、誰かの生活を支える血の通った場所なのだ。それを「不衛生」「治安の悪化」という記号で塗りつぶす学校側の姿勢に、生徒たちは静かな、しかし確かな反発を抱いていた。
「静粛に」
壇上に立った生活指導部長、古谷の声がマイクを通じて体育館に響き渡った。その声は、錆びた鉄を擦り合わせるような不快な高音を含んでいる。古谷は「歩く校則」と呼ばれ、生徒たちの間では死神のように恐れられていた。彼の視線に射抜かれれば、どんなに血気の盛んな男子生徒も蛇に睨まれた蛙のように硬直する。古谷の眼鏡の奥にある瞳は、常に「違反者」を探しており、そこには教育者としての慈しみなど欠片も存在しなかった。彼は、手に持っていた透明なビニール袋を高く掲げた。中には、泥に汚れた安物の黒いスニーカーが入っていた。
「七海汐里(ななみ しおり)、前へ」
名指しされた瞬間、永遠の三列ほど前に座っていた少女の背中が、目に見えて震えた。七海汐里。クラスでは常に窓際の席で静かに本を読んでいる、影の薄い女子生徒だった。彼女は消え入りそうな足取りで、何百人もの視線が突き刺さる壇上へと歩みを進める。彼女が履いているのは、校則で指定された真っ白な通学靴だった。しかし、古谷が掲げた黒いスニーカーは、明らかに彼女のものとして提示されていた。体育館の空気は一瞬にして凍りつき、床を這う湿気さえもが鋭い針のように感じられた。
「七海。昨夜、横川駅高架下の居酒屋で、お前がこの靴を履いて働いているという報告があった。さらに、報告によればお前の髪は今よりもずっと明るい色をしていたという。学校へ来るために、わざわざ色を戻したのか? それとも、あの場所の不潔な光に染まっていただけか?」
古谷の言葉には、明白な蔑みが込められていた。生徒たちの間に、どよめきが走る。驚きよりも「次は自分かもしれない」という恐怖が伝染していく。七海は俯いたまま、握りしめた拳を震わせていた。彼女の家が経済的に困難な状況にあることは、一部の教師しか知らないはずだった。彼女にとってアルバイトは小遣い稼ぎではなく、病床にある母親を支え、自らの生活を繋ぎ止めるための命綱だったのだ。しかし、校則という機械的な刃は、そのような個別の事情など考慮しない。
「……違います。私は、そんなところには」
七海の声は震えていた。それは嘘をつく者の声ではなく、あまりにも重い現実に押し潰されそうな者の声だった。しかし、古谷はその微かな抵抗を、暴力的な叱責でねじ伏せた。
「嘘をつくな! 目撃したのは本校の教員だ。嘘を重ねることは、自らの品位をさらに貶める行為だ。七海、お前には一週間の自宅謹慎、および校則に則った頭髪の黒染め、そして反省文千枚を命じる。わかったか。この学園の秩序を乱す毒は、徹底的に排除しなければならない」
七海の瞳から、大粒の涙が床にこぼれ落ちた。彼女が守ろうとしていた慎ましい生活が、たった一つのルールの剣によって切り裂かれた瞬間だった。永遠はそれを見ていた。拳を強く握り、爪が掌に食い込む痛みを感じていたが、声は出せなかった。自分もまた、この箱庭の中で飼い慣らされた一匹の羊に過ぎない。その無力さが、酸っぱい胃液のようにこみ上げてくる。
その時、静まり返った体育館の最後列から、乾いた拍手の音が響いた。パチ、パチ、パチ。ゆっくりとした、しかし確実な挑発。生徒たちが一斉に振り返る。そこに立っていたのは、制服の第一ボタンを外し、ネクタイを緩めた日向海斗(ひゅうが かいと)だった。彼は端正な顔立ちに、どこか人を食ったような笑みを浮かべていた。
「素晴らしい、古谷先生。一人の女子高生を大勢の前で晒し者にして、彼女の生活の糧まで奪う。それが教育ですか。それとも、単なる嗜虐趣味ですか? 品位、品位と繰り返しますが、あんたが今やっていることが最も品位に欠けるとは思わないんですか?」
日向の声は、よく通った。彼は壇上に向かって、ポケットに手を突っ込んだまま堂々と歩き出した。教師たちが慌てて彼を止めようとするが、日向はそれを軽やかにかわし、壇上のすぐ下で足を止めた。彼は、震える七海の肩にそっと手を置いた。
「先生、あんたの言う『守る』ってのは、檻の中に閉じ込めておくことと同義なのか。七海がなぜあそこで働いていたか、その背景を一度でも調べたのかよ。校則っていうのは、思考停止した大人がガキを管理しやすくするためのマニュアルに過ぎないんだ。それに従わない奴を『悪』と決めつけるのは、教育じゃなくて調教だろ」
全校生徒が息を呑んだ。日向の言葉は、彼らが心の奥底に封じ込めていた不満と怒りを、一気に解き放つトリガーとなった。体育館の空気は爆発寸前の圧力を持ち、古谷の顔は怒りで赤黒く染まっていく。
「日向君、そこまでになさい」
冷静だが、冷徹な響きを持つ声が響いた。壇上の脇に控えていた生徒会長、神崎雅(かんざき みやび)だった。彼女は常に完璧だった。背筋を伸ばし、一分の隙もない着こなしで、この学園の秩序を象徴する存在として君臨していた。彼女はマイクを受け取ると、静かに日向を見下ろした。彼女の瞳には、感情の揺らぎなど一切見えない。
「日向君、あなたの主張には一部、同情すべき点があるかもしれません。ですが、ルールを破ることは、この学園というコミュニティを維持するための契約を反故にすることです。正義があるなら、なぜ正当な手続きで校則の変更を訴えないのですか。このような暴力的な言動は、何も生み出しません。七海さんの件についても、学則に基づいた適切な処置が行われているだけです」
「正当な手続き、か。さすがは優等生の神崎さんだ」
日向は鼻で笑った。
「その手続きとやらで、今まで何が変わった? 生徒会の目安箱は、実質的には教師たちの検閲を通った意見しか反映されない。あんたが守っているのは秩序じゃない、ただの『自分たちの都合』だ。俺はね、神崎。この腐った箱庭を、一度更地にしてみたいんだよ。校則撤廃。それが俺の出す、最初の提案だ」
二人の視線がぶつかり合い、体育館の空気が発火しそうなほどに緊張する。永遠は、その光景を呆然と見守っていた。日向の激しさと、神崎の冷徹さ。そのどちらもが、自分とは無縁の世界の住人のように思えた。しかし、七海の震える肩を見た時、永遠の胸の奥で、何かが確かに軋んだ。あの日、自分が七海が高架下の居酒屋に入るのを見かけた時、なぜ声をかけなかったのか。なぜ、彼女の孤独に気づいていながら、見て見ぬふりをしたのか。
集会は、強制的な解散という形で幕を閉じた。日向は教員たちに取り押さえられ、指導室へと連行された。七海は、幽霊のような足取りで体育館を後にした。永遠は、彼女を追いかけることも、日向に加勢することもできず、ただそこに立ち尽くしていた。
その日の放課後、永遠はいつものように横川駅へと向かう道を歩いていた。いつもと変わらない、列車の音。いつもと変わらない、高架下の喧騒。だが、景色はどこか歪んで見えた。駅前の広場を横切るとき、ふと視線を感じて振り返ると、高架の影に一人の男が立っていた。教員でも生徒でもない、見慣れない風貌の男だった。男は永遠と目が合うと、不敵な笑みを浮かべて、ゆっくりと近づいてきた。
「……面白いものを見せてもらったよ、佐伯君」
男は、自分の名前を「阿澄(あすみ)」だと名乗った。彼は古びたライターで煙草に火を点け、紫煙を夜の闇へと吐き出した。
「君、あの壇上のドラマをどんな気持ちで見ていた? どちらが正しいと思う? 自由を叫ぶ少年か、秩序を守る少女か。それとも、どちらも間違っていると思うかい?」
「……僕は、ただの生徒です。そんなこと、考えたこともありません」
永遠が足早に立ち去ろうとすると、阿澄は背後から低い声で続けた。
「校則撤廃。それは甘美な響きだが、その向こう側には地獄が待っていることもある。君の父親なら、その意味が分かったはずなんだがね」
永遠の足が、凍りついたように止まった。父。十年前、この街から忽然と姿を消した、佐伯航の名前が、なぜこの男の口から出るのか。
「……父を、知っているんですか?」
阿澄は答えず、煙草を地面に落として踏み消した。
「誠和学園。あの場所は、君たちが思っている以上に深い闇を抱えている。校則はね、生徒を守るためのものじゃない。ある大きな『秘密』を隠すための蓋なんだよ。日向海斗がその蓋を開けようとしている。君はどうする? 蓋の上で震え続けるか、それとも闇の中に手を突っ込むか」
男はそれだけ言い残すと、横川の入り組んだ路地の奥へと消えていった。
永遠は、一人残された歩道橋の上で、激しく波打つ鼓動を鎮めようとしていた。父の失踪と、学園の校則。バラバラだったピースが、不気味な形を成して繋がろうとしていた。空からは、いつの間にか霧雨が降り始めていた。
横川の駅に滑り込んできた列車の警笛が、街の沈黙を切り裂く。それは、平穏だった永遠の日常が終わりを告げる、弔鐘のように聞こえた。
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