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校則撤廃。――僕たちは、再び立ち上がるためにルールを壊した。第二章
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第二章:白磁の沈黙、あるいは無言の反乱
横川駅のガード下、電車の通過に伴う微かな震動が止むのを待って、佐伯永遠は深く息を吐き出した。昨夜、謎の男・阿澄から投げかけられた言葉が、耳の奥で不快な耳鳴りのように残り続けている。「校則は、ある大きな秘密を隠すための蓋だ」。その言葉の意味を反芻すればするほど、通い慣れた通学路が、自分を飲み込もうとする巨大な生物の喉の奥のように思えてくる。誠和学園へと向かう坂道を登り切ると、そこには昨日までと同じ、白く無機質な校舎が立っていた。しかし、正門を潜る生徒たちの顔には、一様に張り詰めたような緊張感が漂っている。昨日の全校集会での日向海斗の「宣戦布告」は、SNSを通じてまたたく間に全校生徒の間に共有されていた。
「佐伯、こっちだ」
昇降口の影から、低く鋭い声がした。日向だった。彼は昨日と同じように、制服の着こなしをあえて崩していたが、その瞳には冷徹な知性が宿っていた。日向の背後には、数人の生徒たちが控えている。中には、昨日の事件の当事者である七海汐里の姿もあった。彼女は学校側の命令通り、その美しい髪を不自然なほどの漆黒に染めていた。その色は、彼女の意志を屈服させた証というよりは、むしろ内側に秘めたどろりとした怒りを際立たせているように、永遠には見えた。
「作戦を始める。いいか、暴力も、大声も必要ない。俺たちがやるのは『完全順法闘争』だ」
日向が手にしたスマートフォンの画面には、学園の分厚い「校則集」がPDFで表示されていた。彼はそれをスクロールしながら、唇の端を吊り上げた。「学校側が、ルールこそが学園の秩序を守る唯一の手段だと言うのなら、俺たちはそのルールを完璧に、一文字一句違わずに守り抜いてやるんだ。そうすれば、あいつらは自分たちが作った檻の狭さに、自分自身で窒息するはずだ」。日向の計画は、あまりにも静かで、かつ破壊的なものだった。
一時間目のチャイムが鳴ると同時に、誠和学園からは一切の「雑音」が消え失せた。校則には「授業開始のチャイムと同時に着席し、静粛を保つこと」とある。生徒たちは、教科書通りの角度で背筋を伸ばし、一分の隙もなく前を見据えた。本来なら、教師が教室に入るまでの数分間は、昨日のテレビの話や部活の連絡で賑わうはずの時間だ。しかし、どの教室も、まるで葬儀の最中のように静まり返っていた。廊下を歩く生活指導部長・古谷の足音だけが、不気味に響き渡る。
「……授業を始める」
教壇に立った英語教師が、困惑を隠しきれない様子で声を絞り出した。いつもなら、私語を注意することから始まる彼の授業は、あまりにも完璧な静寂を前にして、かえってリズムを崩されていた。教師が問いを投げかけても、生徒たちは挙手をしない。ただ、指名されれば立ち上がり、教科書に記載された通りの解答を、感情を排した無機質な声で読み上げる。その光景は、精巧に作られたマリオネットの群れを相手にしているような、薄気味悪い恐怖を教師たちに植え付けていった。
休み時間になっても、状況は変わらなかった。校則第十五条には「校内での私語を慎み、他者の学習環境を尊重すること」という曖昧な規定がある。日向たちはこれを拡大解釈し、休み時間中の会話を一切禁じた。生徒たちは必要なやり取りをすべて付箋や筆談で行い、廊下ですれ違う際も、校則に定められた通りの角度で、無言の会釈を交わすだけだった。いつもなら騒がしいはずの学食も、フォークと皿が触れ合う金属音だけが響く異様な空間へと変貌していた。
永遠は、自分の席で冷めた弁当を口に運びながら、隣の席の七海に視線をやった。彼女は一言も発さず、ただノートの端に、小さな、しかし鋭い線で幾何学的な模様を書き込み続けていた。彼女の横顔は、昨日の涙が嘘のように硬く、冷たい。彼女にとってこの「闘争」は、奪われた尊厳を取り戻すための唯一の縋りどころなのだ。
「……佐伯君、少し話せるかしら」
静寂を破ったのは、生徒会長の神崎雅だった。彼女は、この「無言の反乱」の渦中にあっても、毅然とした態度を崩していなかった。彼女の背後には、動揺を隠せない生徒会役員たちが、まるで救いを求めるように付き従っている。永遠は日向との約束通り、一切の声を出さず、ただ静かに立ち上がって、神崎の後に続いた。
案内されたのは、最上階にある生徒会室だった。そこからは、横川の街が一望できる。路面電車が玩具のように小さく走り、遠く太田川の流れが鈍色に光っている。神崎は窓の外を見つめたまま、静かに口を開いた。
「日向君が考えていることはわかります。ルールを逆手に取って、学校の機能を麻痺させる。非常に彼らしい、知的で悪質なやり方だわ。でも、永遠君。あなたまで、どうしてこんな無益なことに加担するの?」
永遠は、ポケットから小さなメモ帳とペンを取り出した。そして、迷いのない筆致で一行だけ書き、神崎に差し出した。
『校則を守っているだけです。何が問題なのですか?』
神崎は、そのメモを一瞥し、深い溜息をついた。彼女の瞳には、怒りよりも深い落胆の色が滲んでいた。「あなたは、ルールというものの本質を履き違えている。校則は、単なる文字の羅列じゃない。私たちがこの学園で、お互いを尊重しながら共生するための『合意』なのよ。それを、攻撃の道具に使うなんて……。そんな自由の先に、何があると思っているの?」
永遠は再びペンを走らせた。
『合意には、対等な立場が必要です。七海さんの件、あなたはどう思っていますか?』
神崎の眉が、一瞬だけぴくりと動いた。彼女は視線を窓の外へと戻し、独り言のように呟いた。「……七海さんの件は、残念だと思っているわ。でも、例外を認めれば、秩序は崩壊する。私は、この学園の三六二名の生徒を守る責任があるの。一人の犠牲を厭わない冷酷な人間だと、あなたは思っているかもしれないけれど」
神崎の言葉には、嘘はないように思えた。彼女もまた、自分なりの「正義」を背負って、この息苦しい箱庭を維持しようとしている。しかし、その「正義」からはみ出してしまう者を救う手立てを、彼女は持っていなかった。
放課後、永遠は日向に呼び出された。場所は、旧校舎の裏手にある、今は使われていない焼却炉の影だった。そこには日向と、数名の中心的なメンバーが集まっていた。
「上出来だ、佐伯。古谷の奴、職員室で顔を真っ赤にして叫んでたぜ。『生徒たちが不気味だ、何とかしろ』ってな。自分たちが望んだ通りの『理想的な生徒』が現れたっていうのに、皮肉なもんだよな」
日向は、窮屈そうな冬服のジャケットを脱ぎ捨て、コンクリートの上に座り込んだ。彼の瞳には、かつてない高揚感が宿っている。しかし、永遠の心は晴れなかった。この「沈黙」が続けば続くほど、学園という組織は確かに傷ついていくが、同時に、生徒たちの心もまた、摩耗していくのを感じていたからだ。
「日向、いつまでこれを続けるつもりだ? 神崎は、さらに厳しい処置を考えているみたいだぞ」
永遠が声を出して尋ねると、日向は鋭い視線を向けた。「あいつらが折れるまでだ。校則そのものを、俺たちが選べるようになるまでだ。……ところで、佐伯。お前、阿澄に会ったんだろ」
日向の言葉に、心臓が跳ねた。阿澄――昨夜出会った、父を知る男。
「あいつの言うことを、全部真に受けるなよ。あいつは、この街の『闇』で飯を食っているハイエナだ。だが、あいつが持っている情報は、時として劇薬になる。……お前の親父さんのこと、俺も少しだけ知ってるぜ。誠和学園の『会計監査』をしていたんだろ。十年前、この学校が多額の寄付金を巡って揉めていた時期に、忽然と消えた」
日向の口から語られる父の断片。それは、母が決して語ろうとしなかった、父の背負っていたものの重さを物語っていた。
「校則撤廃は、ただのスタートラインだ。俺はこの学園の奥底に眠っている、泥水を全部掻き出してやるつもりだ。佐伯、お前もついてくるだろ? 親父さんの無念を晴らしたくないか」
日向の言葉は、強い引力を持って永遠の心を揺さぶった。しかし、同時に強烈な違和感も覚えた。日向の目的は、本当に「生徒の自由」なのだろうか。彼の瞳の奥に見えるのは、もっと個人的で、もっと暗い、復讐に近い感情ではないのか。
その夜、永遠は一人で図書室に残っていた。誠和学園の図書室は、旧校舎の三階にある。古い紙の匂いと、埃っぽい沈黙が支配するその場所で、永遠は「十年前の卒業アルバム」を探していた。
阿澄の言葉、そして日向の推測。それを確かめるには、過去を遡るしかない。棚の隅、色褪せた背表紙が並ぶ中から、十年前のものを引き出した。ページをめくると、そこには今の自分たちと同じように、制服を正しく着こなした少年少女たちの笑顔があった。
ページをめくる手が、ある一点で止まった。
教職員の紹介ページ。そこには、今よりもずっと若く、しかし鋭い眼光を持った古谷の姿があった。そしてその隣、学園の理事として紹介されていた人物の顔を見て、永遠は息を呑んだ。
神崎宗一郎。神崎雅の父親であり、この学園の絶対的な権力者だ。
そして、その集合写真の隅、事務職員の欄に、一人の男が写っていた。控えめな笑みを浮かべ、眼鏡の奥で穏やかな瞳をした男。間違いなかった。佐伯航。永遠の父親だ。
「……父さん」
写真の中の父は、何かを隠しているようにも、何かに怯えているようにも見えた。そしてそのページの下部、誰かが故意に傷をつけたような跡があることに気づいた。それは、細い針で引っ掻いたような、小さな文字だった。
『ルールに従う者は、ルールの下で死ぬ。ルールを作る者は、ルールの外で生きる』
その言葉が、誰によるものかはわからなかった。しかし、その筆跡は、幼い頃の自分の記憶にある父の字に酷似していた。
背後で、ドアの開く音がした。
永遠は慌ててアルバムを閉じた。振り向くと、そこには生徒会会長・神崎雅が立っていた。彼女は、誰もいないはずの図書室に自分がいたことに驚いた様子だったが、すぐにその視線は永遠が抱えているアルバムへと向けられた。
「……そんな古いものを調べて、どうするつもり?」
「……神崎さんの父親、ここに乗っているね」
永遠が言うと、彼女の表情は瞬時に凍りついた。それは、単なる「厳格な会長」の仮面が剥がれ落ち、一人の少女としての怯えが顔を出した瞬間だった。
「私の父は、学園の秩序そのものよ。あなたが何を企んでいるのか知らないけれど、父の領域に踏み込むことだけはやめて。それは、あなたにとっても、日向君にとっても、決して良い結果を招かないわ」
「踏み込むつもりはない。ただ、知りたいだけなんだ。父がなぜ消えたのか。そして、なぜこの学校が、これほどまでに校則という鎖に固執するのか」
神崎は何も答えず、ただ永遠を射抜くような視線を向けた後、背を向けて立ち去った。その足音は、静まり返った旧校舎に、いつまでも虚しく響いていた。
永遠は、アルバムを元の場所に戻し、窓の外を見た。横川の街に、夜の帳が降りようとしている。街のネオンが一つ、また一つと灯り、高架下では今日も酔客たちの喧騒が始まっているだろう。
校則を守ることで始まった「沈黙の反乱」。しかし、その水面下では、十年前から続く巨大な因縁の歯車が、音を立てて回り始めていた。
永遠は、図書室の窓を閉めた。金属製の鍵がカチリと音を立てる。それが、自分の平和な日常に別れを告げる、最後の一撃のように感じられた。
翌朝、学園の門には、昨日までとは異なる、新たな立て札が掲げられていた。
『生活指導強化期間につき、全生徒の持ち物検査を実施する。違反物所持者は即刻、自宅謹慎とする』
古谷の、そして学校側の、なりふり構わぬ反撃が始まろうとしていた。
永遠は、ポケットの中でメモ帳を握りしめた。日向海斗が提案した「校則撤廃」の向こう側に、光があるのか、それとも底なしの闇が広がっているのか、今はまだ誰にもわからなかった。
ただ一つ確かなのは、もう誰も、この沈黙の中に留まり続けることはできないということだ。
横川駅のホームに滑り込んできた黄色い電車の警笛が、朝の静寂を切り裂いた。
つづく
横川駅のガード下、電車の通過に伴う微かな震動が止むのを待って、佐伯永遠は深く息を吐き出した。昨夜、謎の男・阿澄から投げかけられた言葉が、耳の奥で不快な耳鳴りのように残り続けている。「校則は、ある大きな秘密を隠すための蓋だ」。その言葉の意味を反芻すればするほど、通い慣れた通学路が、自分を飲み込もうとする巨大な生物の喉の奥のように思えてくる。誠和学園へと向かう坂道を登り切ると、そこには昨日までと同じ、白く無機質な校舎が立っていた。しかし、正門を潜る生徒たちの顔には、一様に張り詰めたような緊張感が漂っている。昨日の全校集会での日向海斗の「宣戦布告」は、SNSを通じてまたたく間に全校生徒の間に共有されていた。
「佐伯、こっちだ」
昇降口の影から、低く鋭い声がした。日向だった。彼は昨日と同じように、制服の着こなしをあえて崩していたが、その瞳には冷徹な知性が宿っていた。日向の背後には、数人の生徒たちが控えている。中には、昨日の事件の当事者である七海汐里の姿もあった。彼女は学校側の命令通り、その美しい髪を不自然なほどの漆黒に染めていた。その色は、彼女の意志を屈服させた証というよりは、むしろ内側に秘めたどろりとした怒りを際立たせているように、永遠には見えた。
「作戦を始める。いいか、暴力も、大声も必要ない。俺たちがやるのは『完全順法闘争』だ」
日向が手にしたスマートフォンの画面には、学園の分厚い「校則集」がPDFで表示されていた。彼はそれをスクロールしながら、唇の端を吊り上げた。「学校側が、ルールこそが学園の秩序を守る唯一の手段だと言うのなら、俺たちはそのルールを完璧に、一文字一句違わずに守り抜いてやるんだ。そうすれば、あいつらは自分たちが作った檻の狭さに、自分自身で窒息するはずだ」。日向の計画は、あまりにも静かで、かつ破壊的なものだった。
一時間目のチャイムが鳴ると同時に、誠和学園からは一切の「雑音」が消え失せた。校則には「授業開始のチャイムと同時に着席し、静粛を保つこと」とある。生徒たちは、教科書通りの角度で背筋を伸ばし、一分の隙もなく前を見据えた。本来なら、教師が教室に入るまでの数分間は、昨日のテレビの話や部活の連絡で賑わうはずの時間だ。しかし、どの教室も、まるで葬儀の最中のように静まり返っていた。廊下を歩く生活指導部長・古谷の足音だけが、不気味に響き渡る。
「……授業を始める」
教壇に立った英語教師が、困惑を隠しきれない様子で声を絞り出した。いつもなら、私語を注意することから始まる彼の授業は、あまりにも完璧な静寂を前にして、かえってリズムを崩されていた。教師が問いを投げかけても、生徒たちは挙手をしない。ただ、指名されれば立ち上がり、教科書に記載された通りの解答を、感情を排した無機質な声で読み上げる。その光景は、精巧に作られたマリオネットの群れを相手にしているような、薄気味悪い恐怖を教師たちに植え付けていった。
休み時間になっても、状況は変わらなかった。校則第十五条には「校内での私語を慎み、他者の学習環境を尊重すること」という曖昧な規定がある。日向たちはこれを拡大解釈し、休み時間中の会話を一切禁じた。生徒たちは必要なやり取りをすべて付箋や筆談で行い、廊下ですれ違う際も、校則に定められた通りの角度で、無言の会釈を交わすだけだった。いつもなら騒がしいはずの学食も、フォークと皿が触れ合う金属音だけが響く異様な空間へと変貌していた。
永遠は、自分の席で冷めた弁当を口に運びながら、隣の席の七海に視線をやった。彼女は一言も発さず、ただノートの端に、小さな、しかし鋭い線で幾何学的な模様を書き込み続けていた。彼女の横顔は、昨日の涙が嘘のように硬く、冷たい。彼女にとってこの「闘争」は、奪われた尊厳を取り戻すための唯一の縋りどころなのだ。
「……佐伯君、少し話せるかしら」
静寂を破ったのは、生徒会長の神崎雅だった。彼女は、この「無言の反乱」の渦中にあっても、毅然とした態度を崩していなかった。彼女の背後には、動揺を隠せない生徒会役員たちが、まるで救いを求めるように付き従っている。永遠は日向との約束通り、一切の声を出さず、ただ静かに立ち上がって、神崎の後に続いた。
案内されたのは、最上階にある生徒会室だった。そこからは、横川の街が一望できる。路面電車が玩具のように小さく走り、遠く太田川の流れが鈍色に光っている。神崎は窓の外を見つめたまま、静かに口を開いた。
「日向君が考えていることはわかります。ルールを逆手に取って、学校の機能を麻痺させる。非常に彼らしい、知的で悪質なやり方だわ。でも、永遠君。あなたまで、どうしてこんな無益なことに加担するの?」
永遠は、ポケットから小さなメモ帳とペンを取り出した。そして、迷いのない筆致で一行だけ書き、神崎に差し出した。
『校則を守っているだけです。何が問題なのですか?』
神崎は、そのメモを一瞥し、深い溜息をついた。彼女の瞳には、怒りよりも深い落胆の色が滲んでいた。「あなたは、ルールというものの本質を履き違えている。校則は、単なる文字の羅列じゃない。私たちがこの学園で、お互いを尊重しながら共生するための『合意』なのよ。それを、攻撃の道具に使うなんて……。そんな自由の先に、何があると思っているの?」
永遠は再びペンを走らせた。
『合意には、対等な立場が必要です。七海さんの件、あなたはどう思っていますか?』
神崎の眉が、一瞬だけぴくりと動いた。彼女は視線を窓の外へと戻し、独り言のように呟いた。「……七海さんの件は、残念だと思っているわ。でも、例外を認めれば、秩序は崩壊する。私は、この学園の三六二名の生徒を守る責任があるの。一人の犠牲を厭わない冷酷な人間だと、あなたは思っているかもしれないけれど」
神崎の言葉には、嘘はないように思えた。彼女もまた、自分なりの「正義」を背負って、この息苦しい箱庭を維持しようとしている。しかし、その「正義」からはみ出してしまう者を救う手立てを、彼女は持っていなかった。
放課後、永遠は日向に呼び出された。場所は、旧校舎の裏手にある、今は使われていない焼却炉の影だった。そこには日向と、数名の中心的なメンバーが集まっていた。
「上出来だ、佐伯。古谷の奴、職員室で顔を真っ赤にして叫んでたぜ。『生徒たちが不気味だ、何とかしろ』ってな。自分たちが望んだ通りの『理想的な生徒』が現れたっていうのに、皮肉なもんだよな」
日向は、窮屈そうな冬服のジャケットを脱ぎ捨て、コンクリートの上に座り込んだ。彼の瞳には、かつてない高揚感が宿っている。しかし、永遠の心は晴れなかった。この「沈黙」が続けば続くほど、学園という組織は確かに傷ついていくが、同時に、生徒たちの心もまた、摩耗していくのを感じていたからだ。
「日向、いつまでこれを続けるつもりだ? 神崎は、さらに厳しい処置を考えているみたいだぞ」
永遠が声を出して尋ねると、日向は鋭い視線を向けた。「あいつらが折れるまでだ。校則そのものを、俺たちが選べるようになるまでだ。……ところで、佐伯。お前、阿澄に会ったんだろ」
日向の言葉に、心臓が跳ねた。阿澄――昨夜出会った、父を知る男。
「あいつの言うことを、全部真に受けるなよ。あいつは、この街の『闇』で飯を食っているハイエナだ。だが、あいつが持っている情報は、時として劇薬になる。……お前の親父さんのこと、俺も少しだけ知ってるぜ。誠和学園の『会計監査』をしていたんだろ。十年前、この学校が多額の寄付金を巡って揉めていた時期に、忽然と消えた」
日向の口から語られる父の断片。それは、母が決して語ろうとしなかった、父の背負っていたものの重さを物語っていた。
「校則撤廃は、ただのスタートラインだ。俺はこの学園の奥底に眠っている、泥水を全部掻き出してやるつもりだ。佐伯、お前もついてくるだろ? 親父さんの無念を晴らしたくないか」
日向の言葉は、強い引力を持って永遠の心を揺さぶった。しかし、同時に強烈な違和感も覚えた。日向の目的は、本当に「生徒の自由」なのだろうか。彼の瞳の奥に見えるのは、もっと個人的で、もっと暗い、復讐に近い感情ではないのか。
その夜、永遠は一人で図書室に残っていた。誠和学園の図書室は、旧校舎の三階にある。古い紙の匂いと、埃っぽい沈黙が支配するその場所で、永遠は「十年前の卒業アルバム」を探していた。
阿澄の言葉、そして日向の推測。それを確かめるには、過去を遡るしかない。棚の隅、色褪せた背表紙が並ぶ中から、十年前のものを引き出した。ページをめくると、そこには今の自分たちと同じように、制服を正しく着こなした少年少女たちの笑顔があった。
ページをめくる手が、ある一点で止まった。
教職員の紹介ページ。そこには、今よりもずっと若く、しかし鋭い眼光を持った古谷の姿があった。そしてその隣、学園の理事として紹介されていた人物の顔を見て、永遠は息を呑んだ。
神崎宗一郎。神崎雅の父親であり、この学園の絶対的な権力者だ。
そして、その集合写真の隅、事務職員の欄に、一人の男が写っていた。控えめな笑みを浮かべ、眼鏡の奥で穏やかな瞳をした男。間違いなかった。佐伯航。永遠の父親だ。
「……父さん」
写真の中の父は、何かを隠しているようにも、何かに怯えているようにも見えた。そしてそのページの下部、誰かが故意に傷をつけたような跡があることに気づいた。それは、細い針で引っ掻いたような、小さな文字だった。
『ルールに従う者は、ルールの下で死ぬ。ルールを作る者は、ルールの外で生きる』
その言葉が、誰によるものかはわからなかった。しかし、その筆跡は、幼い頃の自分の記憶にある父の字に酷似していた。
背後で、ドアの開く音がした。
永遠は慌ててアルバムを閉じた。振り向くと、そこには生徒会会長・神崎雅が立っていた。彼女は、誰もいないはずの図書室に自分がいたことに驚いた様子だったが、すぐにその視線は永遠が抱えているアルバムへと向けられた。
「……そんな古いものを調べて、どうするつもり?」
「……神崎さんの父親、ここに乗っているね」
永遠が言うと、彼女の表情は瞬時に凍りついた。それは、単なる「厳格な会長」の仮面が剥がれ落ち、一人の少女としての怯えが顔を出した瞬間だった。
「私の父は、学園の秩序そのものよ。あなたが何を企んでいるのか知らないけれど、父の領域に踏み込むことだけはやめて。それは、あなたにとっても、日向君にとっても、決して良い結果を招かないわ」
「踏み込むつもりはない。ただ、知りたいだけなんだ。父がなぜ消えたのか。そして、なぜこの学校が、これほどまでに校則という鎖に固執するのか」
神崎は何も答えず、ただ永遠を射抜くような視線を向けた後、背を向けて立ち去った。その足音は、静まり返った旧校舎に、いつまでも虚しく響いていた。
永遠は、アルバムを元の場所に戻し、窓の外を見た。横川の街に、夜の帳が降りようとしている。街のネオンが一つ、また一つと灯り、高架下では今日も酔客たちの喧騒が始まっているだろう。
校則を守ることで始まった「沈黙の反乱」。しかし、その水面下では、十年前から続く巨大な因縁の歯車が、音を立てて回り始めていた。
永遠は、図書室の窓を閉めた。金属製の鍵がカチリと音を立てる。それが、自分の平和な日常に別れを告げる、最後の一撃のように感じられた。
翌朝、学園の門には、昨日までとは異なる、新たな立て札が掲げられていた。
『生活指導強化期間につき、全生徒の持ち物検査を実施する。違反物所持者は即刻、自宅謹慎とする』
古谷の、そして学校側の、なりふり構わぬ反撃が始まろうとしていた。
永遠は、ポケットの中でメモ帳を握りしめた。日向海斗が提案した「校則撤廃」の向こう側に、光があるのか、それとも底なしの闇が広がっているのか、今はまだ誰にもわからなかった。
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