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1章
2.悪役令嬢との出会い
しおりを挟むあれから幾度となくアランと接触するために学園中を奔走した。
アランの目の前で転んでみたり、わざとぶつかりに行ったり、目の前で落し物をしてみたり。
けれど全て失敗した。
しかも、うまくいきそうなときに限ってアランの近くに攻略対象キャラがいて、何故かそちらとの出会いのイベントが発生してしまった。
これがゲームのシナリオの力!
そんなに強力ならゲームの設定通り借金なんてなかったことにしてよ!!
とにかく、このままではよくない。
そう思ってセブラム刺繍を施したハンカチを何枚も用意した。
リボンタイやブラウスにも刺繍をしたし、髪を結うためのリボンも刺繍入りだ。
セブラム刺繍は繊細で技術も時間もかかる。他の刺繍に比べてどうしても値が張ってしまう。
だから町に来る観光客相手に商売するのは難しい。
けれど貴族ならそれは問題にならない。
そして学園に通う生徒は全員が貴族。
つまり彼らにこの刺繍を気に入ってもらうことが出来ればお得意様になってもらえるかもしれない。
完璧な作戦だ。
こちらの方がアランに頼るより正攻法なのかもしれない。
もちろんアランへのアピールは続けていくつもりだけれど、ひとつの作戦だけに頼っていては目的を達成できないかもしれないから。
そうして三日が経った。
落としたハンカチを何人かが拾ってくれたけれど誰も刺繍に興味を持ってくれない。
ブラウスやリボンの刺繍にも触れられなかった。
何故だろう。
義母から貴族令嬢の嗜みは刺繍なのだと聞いていたのに。
セブラム刺繍は貴族の好みに合わないのだろうか。
それとも王都で売っている糸や道具で代用したのがいけないのだろうか。
素材も違うし技術も足りないから本来のセブラム刺繍の美しさより幾分も劣っていることはわかっていた。
それでも興味を持ってもらえるきっかけくらいにはなると思っていたのに。
本来のセブラム刺繍は繊細で美しい。
どうやってこの魅力を広めていけばいいのか。
いっそ仲のいい職人に小さな刺繍を送ってもらおうか。でもセブラム刺繍はとにかく高価なのだ。
私のお小遣いで足りるかどうか。
図書館のバイトのシフトをもっと入れてもらって食費をもう少し切り詰めて……。
そんなことを思案しながら校内を歩いている時、私は石に躓き転んでしまった。
大事に抱えていたはずの教科書の入ったバッグ――もちろんこれにも刺繍している――から教科書やノートが飛び出す。
派手に転んだから手のひらや膝を擦りむいてしまったし、左手には3センチほどの切り傷ができて血が流れている。
制服には……少しだけど血がついて汚れてしまった。
最悪だ。
早くどこかで洗わないと。血液の汚れは時間が経ってしまうと落ちなくなってしまう。
慌てて散乱したものを拾い集めていると、近くを通りがかった同級生が手伝ってくれた。
「ご、ごめんなさい。ありがとうございました」
差し出されたものを受け取りながら慌てて謝罪とお礼の言葉を述べ顔を上げる。
そこには艶やかな銀の髪と青い瞳の美しい女生徒がいた。
心臓が止まるかと思った。
今目の前にいる人を、私は知っている。
セネット公爵家の長女、フローレンス・セネット。
才色兼備、傾城傾国といった言葉が良く似合う完璧を体現した人。
そしてこの国の王太子の婚約者であり、ゲームの中ではヒロインである私を虐める人。
つまり、悪役令嬢と呼ばれる人だ。
「どういたしまして。けれど考え事をしながら歩くのは感心しないわ。貴族としてこのような振る舞いは許されないの。次からは気を付けなさい」
「は、はい……」
「あら、怪我してるのね。そのままではいけないわ。ついてきなさい」
動揺のあまり固まる私を気にすることなく彼女は私の手を取って近くの建物へと入っていく。
水道のある場所までたどり着くと丁寧に洗ってくれて傷口にハンカチを巻いてくれた。
それには小さな百合の刺繍がされている。
義母から聞いた話では、貴族令嬢はみなハンカチに刺繍をするのだそう。
それらを大切な人に渡すのだと聞いたけど、そうだとしたらこのハンカチは誰かがフローレンスに贈ったものなのだろう。
だとしたら私の血で汚すわけにはいかない。
いや、もう汚れているしフローレンスがやってくれたことだけれど。
「あ、あの、これ……」
「気にしなくてもいいのよ。この後の授業はお休みして保健室へ行きなさい。薬を塗ればこの程度の傷ならすぐに治るわ。場所はわかるかしら?」
「え、は、はい。じゃなくて、フローレンス様、ハンカチが……すぐに洗わないと汚れがとれなくなってしまいます。せっかくの刺繍が……」
白いハンカチには既に私の血がついてしまっている。
真っ白だからすぐに洗わないと汚れが目立ってしまうかもしれない。
それに百合の部分も僅かに汚れてしまっている。これは洗って落とせるものなのだろうか。胃が痛くなってきた。
このハンカチ、弁償するのに私のバイト代が何ヶ月分必要になるのだろう。
「大丈夫。それはまた刺せばいいもの」
「刺すって……もしかしてフローレンス様がこのハンカチに刺繍したんですか?」
百合の刺繍は小さいけれど品があってとても可愛らしい。
糸のよれも布の皺もない、綺麗な刺繍だ。
「ええ。古い作品だから未熟なものだけど……」
「そんなことないです。とても素敵です」
「貴女も刺繍が好きなの?」
彼女は近い未来私を虐める人物だ。
ここで仲良くするのは避けるべきだろう。
けれど……。
「はい! 私の地元ではセブラム刺繍という少し特殊な刺繍がありまして、幼い頃から職人が刺しているのを見てきました」
彼女は公爵令嬢だ。
貴族の中でも特に位が高く資金力もある。
そして何より私の刺繍に興味を持ってくれた唯一の人なのだ。
ゲームのシナリオなんて気にしている場合じゃない。
一人でも多くの人にセブラム刺繍を知ってもらわなければならないのだから。
「ロワール刺繍で使う糸とは違った糸を使っていて、道具も刺し方も変わっているんです」
「ええ、知っているわ。王都で見かけることはほとんどないけれど……。もしかしてそのブラウスやリボンタイの刺繍もそうなのかしら?」
フローレンスの言葉に頷いて身につけていたリボンタイと共に刺繍入りのハンカチを手渡す。
ブラウスの刺繍も見てほしかったけれど、さすがに脱ぐわけにはいかないから諦めた。
「…………私の知っているセブラム刺繍とは違うわ」
「それは…………本来はセブラム特産の細い糸と針を使用するのですが、高価なものなので私には購入することができなくて……」
「そう。ならこれを『セブラム刺繍』と称するべきではないわね」
その言葉は私の心の奥底に深く突き刺さった。
「偽物をあたかも本物のように触れ回るのは職人に対する侮辱に等しい行為よ。我が国の貴族として相応しい振る舞いとは言えないわ」
私の刺繍が職人たちの刺繍の足元にも及ばないことなんてわかっていた。
けれど他に方法が思いつかなかったから。
私にできる最大限のことがこれだと思ってやっていたのに。
私がしていることは、こんなふうに言われるほど悪いことだったのだろうか。
悔しかったけど何も言うことはできない。
私は貴族の血を引かないただの平民だから。もし公爵家の人間に嫌われてしまったら、私だけでなく家族にも迷惑がかかってしまう。
今は私を守ってくれる人は居ないのだから。
フローレンスは厳しい口調で私を叱責した後、小さくため息をついて去っていった。
私は彼女の言葉をなかなか受け入れることができず、暫くその場から動くことが出来なかった。
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