乳酸飲料なダンディ

鈴木りん

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Episode1 宅配業者は二度鼻を鳴らす

Section1-5 ダンディ、あちこちを嗅ぎまわる

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 吉田精密設計株式会社の初訪問のときから、3日が過ぎた。

 ここ数日の新人研修の指導官の任を終え、ほっと一息をついた俺。今日から一人での販売が再開だ。
 同時にやって来た、少しの寂しさと大きな安堵感。
 人の親になったことはない俺ではあるが、きっと息子や娘が独り立ちした時に親はこんな気持ちになるのであろうと想像する。
 
 でもまあ、彼女――鈴木花子君――なら問題ないだろう。きっと、立派なミクリル・レディになれるはず。今頃は、あのキュートな笑顔でミクリルを売りまくっているに違いない。ゆくゆくは俺のライバルにも?
 ……まあ、それも望むところだ。彼女なら、ライバルとして申し分ないからな。

 だが、まずは試験雇用の卒業試験である。
 すでに今朝、彼女には伝えてあるのだ――今日が、正式なミクリル・レディになるための卒業試験であるということを。
 卒業試験の場所は、吉田精密設計を指定した。
 まずは分かれてそれぞれ販売するも、吉田精密設計にて合流し、その後に彼女の販売の様子を視察することになっている。
 もちろんそれは、あの会社内部を観察する目的もあるが――。

 その前に、俺も販売員の一人なのだ。
 彼女の試験の前に、通常の訪問販売を終わらせねばならない。
 通い慣れたビルの7階にある、ミリア電子のオフィスにいつものようにやって来た俺だったが、今日は知美さんの笑顔にあまり後ろ髪を引かれないよう頑張って、何とか早めに切り上げようと心に誓った。

「おはようございます、バーバラ課長」

 二日酔いで休み――なんてことが数日前にあったのかと思わせるほどの元気さで、朝から絶好調の彼女。英語訛りの流暢な日本語で、バリバリと部下に指示を与えていく。

「あら。ダンディさん、おはようございます。ミクリル一本、そこに置いといてくださいな。御代は明日まとめて……。ああ、それより知美さん、ちょっとこっちに来てくれる?」
「はい、課長!」

 暗闇を照らす日の出時の朝陽の如き、神々しいオーラで身を包んだ知美さんがカツカツとハイヒールを鳴らし、課長席へと向かう。
 と同時に、バーバラが俺に“向こうへ行け”と俺に視線を送って来た。
 きっと、話は社内機密に関することなのだろう。
 ここで、彼女に逆らっては元も子もない。すんなり机の横の位置から引き下がると、他の課員の机を回ることにした。
 だが、俺もスパイだ。それも一流の。
 他のメンバーの机上の書類や、パソコン画面の内容にも気を配ることも怠らない。

 そんなときだった。
 俺は、不覚にも今まで一人の人間の存在気配を見逃していたことに気付く。
 それはやはりあの男、五竜田路だった。負のオーラを纏いながらも、全くの存在感無しにひっそりと席についている。
 プロであるこの俺に気配を悟らせないとは……恐ろしい奴。
 もしかして、この男――。それならば――。

「おっとっと……うわっ」

 急にもつれた俺の足が、よく磨かれた白い床につまづいた。
 ミクリルを一本ずつ両手に持った俺が、べたんと突っ伏して倒れる。その拍子にミクリルの薄いプラスチック容器が俺の指によって左右より圧迫され、縦長に変形。アルミの蓋を突き破り、中から黄色がかった乳白色の液体が噴水の如く上空に向かって噴き上がる。

 ぱああ。

 左右の容器から噴き上がった液体は、ビルの窓から降り注ぐ朝陽を浴びて虹となり、俺の頭と床に着地した。

「す、すみません」

 急いで給湯室から雑巾を借り、リノリウムの床を吹く。
 ちらり、五竜田路の方を見遣ると、さすがの彼も笑いを堪えきれないらしく、唇の右部分を引きつらせるように吊り上げていた。

 ――なるほど。

 俺は、掃除を済ませると適当に周りに謝って、さっさとその場を去った。
 さて。次は、吉田精密設計だ。


 ☆


「よう、待たせてすまん」
「いいえ、全然待ってませーん。私も今来たところですー」

 傍から聴いているとちょっと誤解されそうな会話だが、そこはすんなりと受け流す。

「あれ? ダンディ先輩、頭が濡れてますよー」
「いいから。気にするな」
「そんな訳にもいきません、お客さんの前に出るんですからねー。ちょっと、しゃがんでもらえますぅ?」

 仕方ない。俺は観念し、路上でしゃがみこんだ。
 ポケットからピンクのハンカチを取り出した花子君がしゃがんだ俺に体を近づけ、頭を撫でるようにして拭きだした。
 爽やかな香りとともに俺の目前に現れたのは、彼女の胸部バスト
 彼女が腕を動かす度、二つの山が惜しげもなく揺れる。

 ――うむ。許す。

 誰に何を許可をしたのかわからない。だがとにかく俺は、そう思った。いつまでもこの状況を楽しみたいとも思ったが、そうもいかない。
 花子君に礼を云って、吉田精密設計の入り口へと向かう。

「ん? あれは?」

 黒く、小さな物体。
 建物横の狭い通路のようなスペースに、それは落ちていた。
 スパイである俺は、当然そういった小さなものでも見逃さない。
 だが最近……近くが少々ぼやけ、その代わり遠くが良く見えるようになった。これは、俺のスパイ生命を脅かす忌々しき事態ともいえる。
 だが、これは“老眼”などというものではない、“遠視”なのだ。誰が何と云おうと、絶対遠視なのだ!

 ……まあ、今はとにかくその物体の正体を確かめることが先決だ。
 少し怪しい行動となるがカートを置いて奥へと進み、それを確認する。どうやらそれは、マッチの“燃えさし”らしかった。

「花子君、君は煙草を?」
「いいえ。吸いませんよー」
「そうか……。いや、まさかお客さんの場所にゴミなど落としてはいないだろうな、という確認だ」
「まさか! もー、そんなことする訳ないじゃないですかぁ。酷いです、先輩っ」

 ぷんぷんと怒る彼女を横目に、頭上を見上げる。
 見えたのは、2階部分にある小さな窓だった。

「……。すまん、すまん。とりあえず、中に入ろう」

 会社の入り口付近まで戻って、階段を上る。
 ドアを開け、スリッパに履き替えようとしたときだった。花子君が、どうしたことか蹴躓けつまずき、横にある靴箱に体をぶつけてしまったのだ。
 床にばら撒かれたのは、彼女のショルダーから飛び出たいくつかのミクリルと、事務所の皆さんの外靴――男物のスニーカーと革靴がそれぞれ3つづつと、女物の革靴が1つ――だった。

「イタタタ……。すいません、先輩」
「……。まあ、仕方がないさ。直ぐに片づけよう」

 幸いなことに、それぞれが靴を置く場所までは決まっていないようだ。
 それぞれの靴を靴箱へと戻して、事務室へ向かった。

「おはようございまーす。ミクリルでーす」

 花子君が先頭を切って事務室へと入り、慣れた手つきで社員へとミクリルを配り出す。
 彼女のほんわりとした雰囲気が社内に充満し、若手男性の多い職場を明るくしていく。

 ――考えるまでもない。彼女は、もう立派なミクリル・レディだ。

 ゆっくりと二度頷いた俺は、事務室の一番奥にある席へと向かう。
 どうやらそこは、社長の席であるらしかった。ある時――失踪したあの日――を境に、時間が止まってしまったままの、やや大きめの木目調の机。
 机上で目を惹いたのは、どこかで見た気もする紙製のコースターだった。
 その上には、半分ほどコーヒーが入ったまま飲みかけ状態のコーヒーカップが置かれている。他に、小さめのガラス製灰皿もあったが、どうやらそれは最近使われていないらしく、うっすらと埃を被っていた。

 とそのとき近づいて来た、くスリッパの足音。
 歩幅からすれば、女性のものにちがいない。俺は、わざとミクリルをショルダーから取り出して、目前の机の上に置くフリをした。

「あら、そこには今、誰もいないのよ。ミクリルは置かないでくださいね」
「あ、そうなんですか? ついさっきまで人が使っているかのような雰囲気があったもので、つい……。もしかして、失踪されているという社長さんの席ですか?」

 途端、悲し気に表情を曇らせ、がっくりと項垂れた専務が溜息を吐いた。
 手にしたミクリルをバッグに戻した俺は、彼女の雰囲気に沿う形で、神妙な面持ちで両手を体の前で合わせた。

「ええ……。残念だけど、そうなのよ。あの人、突然いなくなっちゃってね。私、どうしたらいいのか全然わからなくて……」

 急に泣き出したのには、少し慌てた。
 今にも泣き崩れそうになる彼女の体を、肩を抱いて支える。

「す、すみません、奥さん。これは、無神経なことを――」
「い、いえ、いいのです。でも、私は主人が必ず帰ってきてくれると信じています。信じているから、この机も触れることができないのです……」
「そうですか、早く無事に戻られるといいですね……。ところで、ご主人がいなくなる前、なにか兆候とかはなかったのですか? 置手紙とか、女の影とか」
「え? あ、ええ。そんなもの、ありませんでしたけど」

 無神経を謝りながらも質問をする俺に、吉田専務は「なんでそんな質問を?」とばかり、きょとんとした表情を向けた。
 少しばかり、目がキツイ。

「ああ、そうでしたか。すみません、また変なこと訊いちゃいましたね」

 俺は、彼女にいくつかの励ましの言葉を述べると、すべての社員にミクリルを配り終わった花子君とともに、事務所から退却した。

「花子君、君は合格だ。もう、立派なミクリル・レディだよ」

 階段を降りた途端、俺が彼女に試験通過のお知らせをする。
 だが花子君はそれに対して特にうれしがる素振りを見せず、俺の顔を見てこう云った。

「ありがとうございます。でも……どうしたんですぅ? ダンディ先輩、何だか目がにやけてますよー」
「いや、まあな。君の”成長の証”も見届けられたし――それに」
「それに?」
「やっとこの言葉が云えそうだからさ……。“これで乳酸菌が腸に届いたぜ!”」
「は? 先輩、一体それは……?」
「まあ、なんというか分かりづらいかもしれんが、俺の考えがまとまった時の決めゼリフさ。最近、ずっとこればかり考えていたからな」
「決めゼリフですか、へえ……。“これですべて謎は解けた!” みたいな?」
「ああ、そのとおりだ。花子君」

 俺は路上でカートを停め、左手は腰に、右手はサムアップして、叫んだ。

「これで乳酸菌が腸に届いたぜ!」

 一瞬、目をゆるめた花子君だったが、そのまま中途半端な笑みで俺を見つめた後、またとことこと歩き出してしまった。
 もしかして、俺があれだけ考えたセリフがウケていないとか?

 ――負けない。

 俺は、決めゼリフを彼女に受け入れてもらうという新たな野望を胸に秘め、固く冷たいアスファルトの上を再び歩き始めた。
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