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第4章 マニリア帝国編
第34話 夜の散歩と新たな出会い
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とりあえず風呂の後でデレンダはオレの部屋に来て一緒に話をしていた。
「あの……さっきの風呂場の出来事は一体何だったんですか?」
考えてみると『自分の部屋に母親以外の女性を迎え入れた』のは、オレの人生で初めての体験だ。
しかも相手は湯上がりで火照った悩ましい身体をしている、かわいい女の子である。
まさか一方の自分自身が女の身になってしまっているとは夢にも思わなかったけどな。
「この後宮では宮女のグループが出来ているんでしょう。そしておのおののグループが勝手に『自分たちのリーダーが皇后になる』と言い張って争っている……そう考えるべきかな」
オレはベッドに仰向けになって天井を眺めつつ、デレンダの質問に応じると、またも彼女は驚きに目を見開く。
「あんなに自信満々に言っていたのに、ウソなんですか?」
「たぶん『皇帝陛下のお声がかり』なんていうのも口からの出任せ。あの二つだけでなく、他にもそうやって争っているグループはたくさんありそう」
自称『次期皇后』グループが二つだけで、それがたまたま風呂場で出くわしたとは考えにくい。
推測だけど三百人の宮女の中で出来ているグループの数は、片手の指どころの騒ぎではないのだろう。
しかし『次期皇后』だの『皇帝陛下のお声がかり』だのがウソだとしたら、なぜこの後宮内ではそんなウソがまかり通っているのだろうか。
皇帝の言葉を偽るなど、重罪ではないのか。
その理由を推測すると皇帝がここに来ないということは、言い換えると『皇帝の言葉』を確かめる事も出来ないということでもある。
有力貴族の娘が後宮に入る前に皇帝に目通りしたとして、その対談の内容など後宮の職員達の預かり知らぬ事だ。
本人が『皇帝陛下のお言葉をいただいた』と言い張ったら、職員達はそれを無碍に否定は出来ないのだろう。
九分九厘ウソだと思っていても、それを否定したところで万が一にも事実だったら大変だ。
相手が本当に皇后にでもなろうものなら、後でどんな報復をされるか分ったものではない。
また後宮の職員の殆どは皇帝に目通りなど出来るはずのない地位だが、宮女は直接、皇帝と身体を重ねる立場だ。
そのとき皇帝の耳に何を吹き込まれるか分らない以上、仮に宮女の方に非があっても、それを大っぴらに指摘するのは躊躇せざるを得ない。
そんなわけで職員達が事なかれを決め込んで、ウソがまかり通るのを黙認しているのではないだろうか。
恐らくきっかけは誰かがちょっとした見栄をはってついた些細な嘘だったのだろう。
しかしそれが咎められなかったことで、どんどんエスカレートしていったに違いない。
ふう。こんなところにも『傾いている国』の姿が現れているんだな。
「そうなんですか……本当にイヤな人たちですね」
「ああ……まったくその通り……本当に……」
事情はともかく先ほどの風呂場での乱闘騒ぎは、またしてもオレの心に多大な衝撃を与えていた。
女同士がグループを作り、時には新入りをいびり、時にはハレンチな罵声を浴びせつつ相争い、時には男の寵愛を巡って嘘偽りを公言する。
これがオレの夢に見ていたハーレムの本当の姿なのか――男の夢と現実の深刻過ぎるギャップにこっちの胸は張り裂けそうだよ!
ハーレムというのは、かわいい上にそれぞれ一芸に秀でた女の子ばかりで構成され、彼女達は時には焼き餅をやいたり競争意識を出したりはするけど、最終的には愛する男を中心にして、お互いの長所を生かし結束して事にあたるもんじゃないのか?!
いや。分っているんだ。オレだって。そんなの男にとって一方的に都合のよい幻想でしかないことぐらい。
だけどオレが男に戻りたい理由の一つがそのハーレム願望なのに、それを捨ててしまったら、元に戻る道が遠ざかってしまう気がする。
何しろこのたった一日でオレは『初めての女装』『女子の裸を見ても反応しない身体』『ハーレムの本当の姿』と立て続けに男の尊厳に重大なダメージを受けてしまったのだ。
ちくしょう。やっぱりこんなところ来るんじゃなかった。
マルキウスと約束した通り怪異の調査を片付けて、一日でも早く出て行ってやる!
オレが決意を固めていると、デレンダはベッドに仰向けになっているオレの顔をのぞき込んでくる。
「だけどアルタシャさんがあたしをかばって下さったのは本当に嬉しかったです……」
「別に気にしないで。大した事じゃないから」
「いいえ。本当に感謝しています。ところで――」
ここでデレンダは部屋の片隅にある、オレが布をかけた鏡に視線を移す。
「これはいったいどうしたんですか? せっかくの鏡なのになぜ布などかけているんです?」
決まっている。オレが自分の姿を見たくないからだよ!
「ちょっとした気まぐれよ」
「そうですか……ひょっとしたらアルタシャさんの郷里では、鏡を忌むような風習でもあるのかと思ったんですけど違いましたか」
そういえばファンタジーでは鏡に映った自分の姿が不気味に笑うとか、吸血鬼は鏡に映らないとか、いろいろ鏡にからむ話があるなあ。
もっとも鏡は厄除けに使われる事もあるし、要するにどっちにでも考えられるということだ。
「ご自身の美貌をより磨くためにも、鏡をもっと使いましょうよ。ほらこんな風に」
そういってデレンダは布を外した鏡の前で、いろいろとポーズを取る。
ああ。オレと同じ部屋で湯上がりのかわいい女の子が、薄布一枚まとっただけで身体をくねらせているなんて、前の世界では妄想の中にしか存在しない光景だったよ。
しかし今のオレはそんな女の子を見ても、ほとんど反応しない身体にさせられてしまっているんだ。
ひとしきりデレンダは鏡に映った自分自身と対面した後、ベッドに転んだままのオレに対して一礼する。
「それではそろそろあたしは部屋に戻ります。明日もまたよろしくお願いします」
「ええ。それではおやすみなさい」
デレンダは頭を下げて部屋から出て行ったが、そこでオレはベッドから起き上がる。
なぜなら今晩のオレの行動はこれからなのだ。
既に日はとっぷりと暮れている時間帯になったところで、オレは昼間に魔術でツタを生長させて用意した逃走経路が実際に使えるかどうか確認することにした。
もし皇帝に迫られ、いざという段階になって、このルートはダメでしたではシャレにならないからな。
そんなわけでオレは魔法で夜目を強化し、さらに『蜘蛛のぼり』を自分にかけて城壁へと乗り出す。
これがもし昼間だったら薄衣一枚の娘が、市街地に面した城壁を動き回っているわけで、さぞかし大騒ぎになるだろう。
とりあえず壁をつたって空堀の底まで降りるが特に問題は無いようだ。
うん。これなら大丈夫。いつでも逃げられるぞ。
ひと安心したところで、オレの視覚に引っかかるものがあった。
城壁に面した後宮の窓には開いているものが幾つかあるのだが、その一つ、もっとも隅に位置する部屋から夜闇に飛び立つ小さな影があったのだ。
あれはいったいなんだ?
普通の人間ではまず分らないだろう。魔法で視覚を強化しているオレだから何とか補足できたのだが、感覚を集中させるとその姿が浮かび上がってくる。
ひょっとするとあれは夜鷹?
それがどうして後宮の窓から飛び立つんだ?
しかもあの隅っこの部屋は――オレの記憶では女官に『病気の宮女がいるので近づいてはならない』と警告されていたところだ。
まさか怪異と何か関係でもあるのか?!
オレは緊張で身を固めつつ、城壁をつたって開いている窓へと近づいていった。
夜中に女の部屋の開いている窓を目指して、壁を這い回るとは客観的に見ると今のオレは完全に変態だな。
いや。いっそ変態であっても、男らしい行動だとも言える。
そうだとも。これはオレに残った『男』の部分をたきつけるためのものなのだ。
病気で引きこもっている女の子の部屋を窓からのぞき込むのは、犯罪行為かもしれないが、ギャルゲーでもしばしばある展開じゃないか!
そうだよ。それに取り組むなんてまだまだオレには男らしい部分が残っているんだ。
今はそう考えるとしよう。
しかしあの窓から飛び立った夜鷹はいったいなんだろう。
いくら何でも後宮であんなものをペットとして飼っているとは思えない。
もっとも可能性が高いのはオレが魔術でネズミを味方にしているように、何らかの魔術で夜鷹を操っているのではないだろうか。
つまりあの部屋にいるのは魔術師なのか?
これは警戒が必要だな。
何しろ壁に張り付いているこっちは、攻撃魔術を撃ち込まれたらひとたまりもないのだ。
いったん引き揚げて明日、マルキウスに報告する事も考えたが、それだとオレが城壁を上り下りしている事も気づかれかねない。
マルキウスは本音ではオレを『皇帝の寵姫』にしたいのだから、それを伝えるのは危険だ。
やはりオレが一人でどうにかせねばならないだろうな。
もし今晩のうちにカタがつけば、オレもこの後宮を大手を振って出て行ける。
デレンダには少々申し訳ない気もするが、その場合はマルキウスに彼女の事を頼んでおこう。
だがオレが慎重に窓に近づいて中の様子をうかがおうとすると、そこで思いもかけぬ出来事が起きた。
「そこにいるのは誰?」
窓の中から誰何の声が響いてきたのだ。
え?! まさか! 気づかれている?!
いや。待て。落ち着け。ひょっとしたら扉の方にでも呼びかけただけで、窓の外にいるオレには気づいていない偶然の出来事なのかもしれないぞ。
「聞こえなかったの? 仕方ないね」
かなり声の大きな『独り言』が響くと、そこでくだんの窓から誰かが上半身を乗り出しあたりを見回し、そこでオレの青紫の瞳と、相手の緑の瞳がぶつかり合った。
「こんばんわ。そんなところからやってくるお客様とは珍しいですね」
「ははは。よく言われますよ」
オレは城壁に張り付いた状態で、こちらと同じ宮女の服装をした相手に対し乾いた笑いを見せる事しか出来なかった。
「とりあえずそこで話も何ですから、中に入ってきてくれますか? イヤだったらこのままでもいいですけど」
なんだ?
どう考えても『夜中に城壁を這い回って自分の部屋の窓に寄ってきた相手』に対する態度じゃないぞ。
しかしあっちに敵対の意図があるなら、壁にしがみついているだけのオレを攻撃するのは造作も無いはず。
部屋に迎え入れるという事は、少なくとも現時点では戦う意志はないと考えるべきだな。
実際、両手を自由に出来ず、まともに魔術も使えない今の体勢のままでは、オレが圧倒的に不利だ。
ここは相手に従うべきだろう。
即座に結論を出すと、オレは窓から部屋に入ることにした。
「お邪魔します……」
「ほう。これは――」
明かりに照らされたオレの顔を見て、相手は少々驚いた様子だ。
いや。もう顔を見られて驚かれる事にはなれていますよ。
不本意だけどね。
部屋にいたのは、オレよりやや年上、十八歳ぐらいの少女であった。
亜麻色の髪を結い上げ、先ほど見た緑の瞳を有する、女子としてはかなり背の高い相手である。
容姿もなかなかのものだが、その身から漂う雰囲気は他の宮女や女官とはどこか違うものが感じ取れた。
「私の名前はユリフィラス。あなたは?」
「アルタシャ……と呼んで下さい」
オレは使う事をまったく躊躇しなくなってしまった偽名を名乗り、少々不可思議な少女に対面した。
「あの……さっきの風呂場の出来事は一体何だったんですか?」
考えてみると『自分の部屋に母親以外の女性を迎え入れた』のは、オレの人生で初めての体験だ。
しかも相手は湯上がりで火照った悩ましい身体をしている、かわいい女の子である。
まさか一方の自分自身が女の身になってしまっているとは夢にも思わなかったけどな。
「この後宮では宮女のグループが出来ているんでしょう。そしておのおののグループが勝手に『自分たちのリーダーが皇后になる』と言い張って争っている……そう考えるべきかな」
オレはベッドに仰向けになって天井を眺めつつ、デレンダの質問に応じると、またも彼女は驚きに目を見開く。
「あんなに自信満々に言っていたのに、ウソなんですか?」
「たぶん『皇帝陛下のお声がかり』なんていうのも口からの出任せ。あの二つだけでなく、他にもそうやって争っているグループはたくさんありそう」
自称『次期皇后』グループが二つだけで、それがたまたま風呂場で出くわしたとは考えにくい。
推測だけど三百人の宮女の中で出来ているグループの数は、片手の指どころの騒ぎではないのだろう。
しかし『次期皇后』だの『皇帝陛下のお声がかり』だのがウソだとしたら、なぜこの後宮内ではそんなウソがまかり通っているのだろうか。
皇帝の言葉を偽るなど、重罪ではないのか。
その理由を推測すると皇帝がここに来ないということは、言い換えると『皇帝の言葉』を確かめる事も出来ないということでもある。
有力貴族の娘が後宮に入る前に皇帝に目通りしたとして、その対談の内容など後宮の職員達の預かり知らぬ事だ。
本人が『皇帝陛下のお言葉をいただいた』と言い張ったら、職員達はそれを無碍に否定は出来ないのだろう。
九分九厘ウソだと思っていても、それを否定したところで万が一にも事実だったら大変だ。
相手が本当に皇后にでもなろうものなら、後でどんな報復をされるか分ったものではない。
また後宮の職員の殆どは皇帝に目通りなど出来るはずのない地位だが、宮女は直接、皇帝と身体を重ねる立場だ。
そのとき皇帝の耳に何を吹き込まれるか分らない以上、仮に宮女の方に非があっても、それを大っぴらに指摘するのは躊躇せざるを得ない。
そんなわけで職員達が事なかれを決め込んで、ウソがまかり通るのを黙認しているのではないだろうか。
恐らくきっかけは誰かがちょっとした見栄をはってついた些細な嘘だったのだろう。
しかしそれが咎められなかったことで、どんどんエスカレートしていったに違いない。
ふう。こんなところにも『傾いている国』の姿が現れているんだな。
「そうなんですか……本当にイヤな人たちですね」
「ああ……まったくその通り……本当に……」
事情はともかく先ほどの風呂場での乱闘騒ぎは、またしてもオレの心に多大な衝撃を与えていた。
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「だけどアルタシャさんがあたしをかばって下さったのは本当に嬉しかったです……」
「別に気にしないで。大した事じゃないから」
「いいえ。本当に感謝しています。ところで――」
ここでデレンダは部屋の片隅にある、オレが布をかけた鏡に視線を移す。
「これはいったいどうしたんですか? せっかくの鏡なのになぜ布などかけているんです?」
決まっている。オレが自分の姿を見たくないからだよ!
「ちょっとした気まぐれよ」
「そうですか……ひょっとしたらアルタシャさんの郷里では、鏡を忌むような風習でもあるのかと思ったんですけど違いましたか」
そういえばファンタジーでは鏡に映った自分の姿が不気味に笑うとか、吸血鬼は鏡に映らないとか、いろいろ鏡にからむ話があるなあ。
もっとも鏡は厄除けに使われる事もあるし、要するにどっちにでも考えられるということだ。
「ご自身の美貌をより磨くためにも、鏡をもっと使いましょうよ。ほらこんな風に」
そういってデレンダは布を外した鏡の前で、いろいろとポーズを取る。
ああ。オレと同じ部屋で湯上がりのかわいい女の子が、薄布一枚まとっただけで身体をくねらせているなんて、前の世界では妄想の中にしか存在しない光景だったよ。
しかし今のオレはそんな女の子を見ても、ほとんど反応しない身体にさせられてしまっているんだ。
ひとしきりデレンダは鏡に映った自分自身と対面した後、ベッドに転んだままのオレに対して一礼する。
「それではそろそろあたしは部屋に戻ります。明日もまたよろしくお願いします」
「ええ。それではおやすみなさい」
デレンダは頭を下げて部屋から出て行ったが、そこでオレはベッドから起き上がる。
なぜなら今晩のオレの行動はこれからなのだ。
既に日はとっぷりと暮れている時間帯になったところで、オレは昼間に魔術でツタを生長させて用意した逃走経路が実際に使えるかどうか確認することにした。
もし皇帝に迫られ、いざという段階になって、このルートはダメでしたではシャレにならないからな。
そんなわけでオレは魔法で夜目を強化し、さらに『蜘蛛のぼり』を自分にかけて城壁へと乗り出す。
これがもし昼間だったら薄衣一枚の娘が、市街地に面した城壁を動き回っているわけで、さぞかし大騒ぎになるだろう。
とりあえず壁をつたって空堀の底まで降りるが特に問題は無いようだ。
うん。これなら大丈夫。いつでも逃げられるぞ。
ひと安心したところで、オレの視覚に引っかかるものがあった。
城壁に面した後宮の窓には開いているものが幾つかあるのだが、その一つ、もっとも隅に位置する部屋から夜闇に飛び立つ小さな影があったのだ。
あれはいったいなんだ?
普通の人間ではまず分らないだろう。魔法で視覚を強化しているオレだから何とか補足できたのだが、感覚を集中させるとその姿が浮かび上がってくる。
ひょっとするとあれは夜鷹?
それがどうして後宮の窓から飛び立つんだ?
しかもあの隅っこの部屋は――オレの記憶では女官に『病気の宮女がいるので近づいてはならない』と警告されていたところだ。
まさか怪異と何か関係でもあるのか?!
オレは緊張で身を固めつつ、城壁をつたって開いている窓へと近づいていった。
夜中に女の部屋の開いている窓を目指して、壁を這い回るとは客観的に見ると今のオレは完全に変態だな。
いや。いっそ変態であっても、男らしい行動だとも言える。
そうだとも。これはオレに残った『男』の部分をたきつけるためのものなのだ。
病気で引きこもっている女の子の部屋を窓からのぞき込むのは、犯罪行為かもしれないが、ギャルゲーでもしばしばある展開じゃないか!
そうだよ。それに取り組むなんてまだまだオレには男らしい部分が残っているんだ。
今はそう考えるとしよう。
しかしあの窓から飛び立った夜鷹はいったいなんだろう。
いくら何でも後宮であんなものをペットとして飼っているとは思えない。
もっとも可能性が高いのはオレが魔術でネズミを味方にしているように、何らかの魔術で夜鷹を操っているのではないだろうか。
つまりあの部屋にいるのは魔術師なのか?
これは警戒が必要だな。
何しろ壁に張り付いているこっちは、攻撃魔術を撃ち込まれたらひとたまりもないのだ。
いったん引き揚げて明日、マルキウスに報告する事も考えたが、それだとオレが城壁を上り下りしている事も気づかれかねない。
マルキウスは本音ではオレを『皇帝の寵姫』にしたいのだから、それを伝えるのは危険だ。
やはりオレが一人でどうにかせねばならないだろうな。
もし今晩のうちにカタがつけば、オレもこの後宮を大手を振って出て行ける。
デレンダには少々申し訳ない気もするが、その場合はマルキウスに彼女の事を頼んでおこう。
だがオレが慎重に窓に近づいて中の様子をうかがおうとすると、そこで思いもかけぬ出来事が起きた。
「そこにいるのは誰?」
窓の中から誰何の声が響いてきたのだ。
え?! まさか! 気づかれている?!
いや。待て。落ち着け。ひょっとしたら扉の方にでも呼びかけただけで、窓の外にいるオレには気づいていない偶然の出来事なのかもしれないぞ。
「聞こえなかったの? 仕方ないね」
かなり声の大きな『独り言』が響くと、そこでくだんの窓から誰かが上半身を乗り出しあたりを見回し、そこでオレの青紫の瞳と、相手の緑の瞳がぶつかり合った。
「こんばんわ。そんなところからやってくるお客様とは珍しいですね」
「ははは。よく言われますよ」
オレは城壁に張り付いた状態で、こちらと同じ宮女の服装をした相手に対し乾いた笑いを見せる事しか出来なかった。
「とりあえずそこで話も何ですから、中に入ってきてくれますか? イヤだったらこのままでもいいですけど」
なんだ?
どう考えても『夜中に城壁を這い回って自分の部屋の窓に寄ってきた相手』に対する態度じゃないぞ。
しかしあっちに敵対の意図があるなら、壁にしがみついているだけのオレを攻撃するのは造作も無いはず。
部屋に迎え入れるという事は、少なくとも現時点では戦う意志はないと考えるべきだな。
実際、両手を自由に出来ず、まともに魔術も使えない今の体勢のままでは、オレが圧倒的に不利だ。
ここは相手に従うべきだろう。
即座に結論を出すと、オレは窓から部屋に入ることにした。
「お邪魔します……」
「ほう。これは――」
明かりに照らされたオレの顔を見て、相手は少々驚いた様子だ。
いや。もう顔を見られて驚かれる事にはなれていますよ。
不本意だけどね。
部屋にいたのは、オレよりやや年上、十八歳ぐらいの少女であった。
亜麻色の髪を結い上げ、先ほど見た緑の瞳を有する、女子としてはかなり背の高い相手である。
容姿もなかなかのものだが、その身から漂う雰囲気は他の宮女や女官とはどこか違うものが感じ取れた。
「私の名前はユリフィラス。あなたは?」
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