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3,四苦八苦
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千葉方面の総武線は信じられないほど混み合っている、なぜみんな同じような時間に出勤して、同じ時間に帰ろうとするのだ。この内の半分でもそんな思考を行動に移してくれたら快適な通勤になるのに、と、自分ができないことを他人の責任にしてもしかたがない。
順平ほ痴漢に間違われないように鞄を網棚に置いて、両手で吊り革を掴んだ。ギュウギュウの車内は酒や化粧品、香水の匂いが入り混じり異臭を漂わせている。
目の前に座りスマートフォンを凝視する若い女のミニスカートから伸びる白い足が艶かしくて下半身が反応しそうになる。当たり前だが妻とは夜の営みなどない、仮に不仲でなくても下っ腹のたるんだ中年の女など抱く気もおきないだろうが。
目の前の女が視線に気が付いたのか、自分を一瞬睨みつけた後にスカートの裾を引っ張った。冗談じゃない、少し見ただけでも痴漢扱いだ。順平は聞こえないように舌打ちした後に目を閉じた。
気がつくと電車は空いていて、空席もチラホラあった、どうやら立ったまま眠ってしまったらしい。目の前に座っていた女もすでに居なくなっていた。あと二駅で目的の津田沼駅だが最寄駅はそこから乗り換えてさらに二十分ほどかかる。
順平はため息を吐いて網棚に手を伸ばした。
「あれっ、ない!」
思わず声を出してしまい、少なくなった乗客の何人かが訝しげな顔をコチラに向けた。もう一度見上げる。しかし網棚に載せておいたはずの鞄が忽然と消えてなくなっていた、変わりにくしゃくしゃのスポーツ新聞がポツンと置かれている。
盗まれた、もしくは間違えて持って帰られた。いずれにせよ鞄が自分の元に戻ってくる可能性は殆どないだろう。幸い厚みのない財布はスーツの内ポケットにあるし、鞄の中身は会社の資料くらいで高価な物など何一つ入っていない。金銭目的で盗んだのであれば、さぞやガッカリしている事だろう。
念のため駅員に遺失物届けを出そうかと考えてやめた、そんな事をしていたら終電を逃してしまう。ここから家までタクシーを使えば五千円はくだらない。順平はスーツ姿に手ブラという異様なスタイルで構内を闊歩すると、自宅のある駅に向かうローカル線に乗り込んだ。
錦糸町から一時間、ようやく最寄駅に到着した。降りる客もまばらなこの駅は改札が一つしかなくこじんまりとしていた。改札の外にもロータリーや商店街はなく、潰れそうなおにぎり屋とチェーンの居酒屋が一件あるだけだ。
暗い駅前を抜けると住宅街が広がっている、似たような作りの建売住宅が並んでいて個性のかけらも感じられない。それでもこの辺りは駅から近いからまだマシだ。順平の家は駅から歩いて二十分はかかる。つまり会社までは片道およそ二時間、往復四時間。一ヶ月に二十五日出社すると考えると一ヶ月で百時間、一年間で千二百時間を無駄に過ごしていると考えると恐ろしくなった。
とは言え都会に一軒家など建てたら軽く五倍はするだろう、と言うか住宅ローンの審査が通るはずがない。いくら時間を無駄に使おうと一生このルートを往復するしか道はないのだ。
重くなった足を引きずりながらやっと我が家の近くまで帰ってきた、最後の十字路を右折した時だった。目の前に閃光が走り思わず目を閉じる、遅れてクラクションの音がけたたましく鳴り響いた。
「あぶねえだろオラァ!」
黒いワンボックスから派手な頭をした偏差値の低そうな若い男が怒鳴り散らしている。
「すみません……」
頭を下げて謝罪すると「チッ」と舌打ちを鳴らして去っていった。走り去る車のテールランプを見ながらなぜ自分が謝らなくてはならないのか後になって怒りが込み上げてきた。
片道一車線の狭い道にはガードレールもない、その割に県道に抜けるのに便利な横道は利用者が多くて交通量が多い。昼間など渋滞することもあるこの道沿いに我が家は建っていた。
そんな事は建設会社の人間は一言も言わなかった、駅から遠い事の唯一のメリットは閑静であることだ。それがこの交通量のせいでうるさいのは勿論、排気ガスで洗濯物は汚れるし何より子供たちの安全にも関わる。その件でも散々、妻に詰められた。どうして確認しなかったのか、こんなのは詐欺だ、あなたがトロイから、この甲斐性なし。
最後の方はただの悪口だったが、この場所に建売が販売されてそのパンフレットを目を輝かせて順平に見せてきたのは妻だ。駅から遠くないか? 田舎すぎないか? と心配する順平に田舎でのびのびと子供を育てたいだの、駅まで歩くのも健康に良いだのと、あれやこれやと説得してきた事など彼女は忘れているに違いない。
そう言えば、あちらの国は自分たちの意見ばかり通そうとして理屈が通らない事を堂々と言ってのける恥知らずな国際政治をしていたので、結局は国民性なのだろう。
いっそう憂鬱な気分になった所で重大な事に気がついた。
鍵がない――。
家の鍵と軽自動車の鍵が収まっているキーケースは鞄の中だ、つまり無くした。家に入るすべがない。インターホンは昼寝する三女が起きないようにボリュームが一番下に設定されているので、リビングにいれば気がつくが寝室までは届かない。
時間は十二時を回っていて、外から見える一階のリビング、二階の寝室、共に明かりは消えていた。順平はその場に立ちつくして泣きそうになった。ぼんやりと夜空を見上げると都会よりも広い空に星がいくつも輝いている。
「きれいだなあ……」
的外れな感想を声に出して呟いたところで事態が好転するわけでもなく、順平はスーツの上着を脱いでワイシャツを腕まくりした。こんな所で一晩明かすなんて冗談じゃない。春先なので凍死することはないだろうが、往復四時間の通勤と過酷な労働のあとに野宿するなんてあんまりだ。
屋根から下まで伸びている雨どいを見つめる、これを二階部分までよじ登っていけば自分の部屋の窓に手が掛かる、記憶が正しければ窓の鍵は閉めていない。
小学生のころ実家の雨どいをよじ登っては親に怒られていた事を思い出す。あの頃より体重はかなりあるが果たして耐久性は大丈夫だろうか、二階に到着したあたりで雨どいが壁から外れて転落、死ぬ事はないだろうが骨の二、三本は折るかもしれない。
右足を雨どいと壁を繋いでいる部分に無理やりねじ込む、左足を浮かせて全体重をかけたが思いのほか頑丈に作られているようだ、びくともしない。左足を次の繋ぎ部分にのせて体を持ち上げる。大丈夫、いけそうだ。交互に足を持ち上げながら二階を目指すとすぐに目的の場所まで到着した。
「ふー」
一息ついて何気なく下を見た、見上げた時は大した高さに感じなかったが見下ろすとすごい高さだ、これは落下したら骨折じゃ済まないかもしれない。ゴクリ、と生唾を飲み込んで左手にある自室の窓に手を掛けた。
「あ、開かねえ!」
なぜだ、窓の鍵を閉めたことなんてないはずだ。右手で体を支えながら左手で窓を開こうと試みるがびくともしない。
「くっ」
窓を開ける力に全力を使ってしまったのと、上まで登れば何とかなると思っていた順平の体力は限界に達していた。小さな足場においた両足もプルプルと震えている。
「ここまでかっ!」
なんて儚い人生、自分の家に入れないで転落死なんてワイドショーのネタにもならない。
「何してんのよ?」
不意に声をかけられて右を向くと、寝室の窓から妻が害虫を見るような目で睨みつけていた。
「おい、窓を開けてくれ、俺の部屋の窓」
妻はため息を吐くとカラカラと窓を閉めて引っ込んでしまった、まさか、このまま放っておく気なのか。鬼、悪魔、朝鮮人。と、心の中で悪態をついていると自室の部屋の電気がついた、黒いシルエットが近づいてくると窓が開けられる。妻はすぐに踵を返して部屋を出て行った。
助かった――。
「ありがとう」
妻の背中に礼を言うと、足を窓枠に掛けて体を部屋に滑り込ませた。なんとか急死に一生を得た、とは言い過ぎかもしれないが、とにかく助かった事に安堵した。
とりあえず靴を脱いで玄関に向かう、すると一階リビングの電気が付いていて妻がカウンターの中で何かしている。
「悪いな、助かったよ、鍵失くしちゃってさ」
「いや、いいけど」
久しぶりに会話した気がする、とりあえず脱いだ靴を玄関に置くとリビングにもう一度顔を出した。
「飲んできたんでしょ、お茶漬けでも食べる?」
一瞬、自分にかけられた言葉かどうか理解できなかった、しかし、辺りを見渡しても誰もいない。
「あ、ああ、貰おうかな」
ダイニングテーブルに腰掛けて待っていると、冷たいお茶とあつあつのお茶漬けが運ばれてきた、お新香まで添えられている。
「はい、どうぞ、お仕事お疲れ様です」
「あ、ああ」
なんだ、どうした。なにか変なものでも口にしたのだろうか、訝しむ順平の前に妻が座った。
「いただきます」
そんなに腹は減っていなかったが、飲んだ後のお茶漬けはサラサラと口当たりよく、あっという間に胃に収まった。
「ごちそうさま」
食器を持って立ちあがろうとすると「あ、あたしやるから」と言ってキッチンに向かった。
これはもしや――。
順平は顎に手を当てて考察する。もしかしたら妻はやっと改心したのかもしれない、毎日毎日、家族のために身を粉にして働いている夫に対して、あまりにも感謝が、配慮が足りなかったと。これからはもっと大切にしなければならない、と。
「順平くん、ちょっとお願いがあってさ」
カウンターキッチンの中から妻に声をかけられる、妻が改心したのであれば自分ももう少し歩み寄らなければならないだろう、今までは少し大人気なかったかもしれない。考えてみれば子供三人の面倒を見るのは大変だろう、お互いに協力していかなければ。そう、夫婦とは本来そういうものじゃないか。
「なに? いつも苦労かけてるんだから何でも言ってよ」
そう声をかけると妻は破顔して白い歯を見せた。
「ほんとに? ありがとう、どうしてもママ友のランチが断われなくてさ、親同士が仲良くしてないと子供にまで影響するでしょ」
ランチ代のおねだりか、なんて可愛いお願いだろう。いや、自分の少ない稼ぎのせいで妻はママ友とランチをする事すら気を使っていたのか。情けない、これからはもっと働かなければ。
「そんなの絶対に行ったほうがいいよ、行っておいで」
ランチなんて千円程度だろう、そのくらいなら問題ない。
「ありがとー。月に二回だけなんだけどね、一回五千円だから月に一万円、しかたないよね。でも家計はこれ以上節約のしようがないからさ、順平くんのお小遣いから引くしかなくて、はい来月分のお小遣い、じゃあおやすみ」
妻は投げキッスをすると機嫌良さそうにリビングを出ていった、一人きりになった空間はシーンと静まり返り、ダイニングテーブルの上には眠そうな目をした福沢諭吉が一人ぽつんと置かれていた。
「え、一万円引く? 五千円のランチ?」
状況が把握できずに声が出てしまった。得意でもない暗算があっという間に脳内で行われる。現在、月に二万円の小遣いはランチで一日、五百円が二十五日で一万二千五百円、タバコは吸わないが酒が発泡酒を二日に一回で二千円五百円、携帯代がWi-Fi込で五千円できっちり二万円だ。
携帯電話を持たない訳にはいかないので五千円は確定、発泡酒をやめたとしても残りの五千円で二十五日分の食費を平均すると。
「一日、二百円――」
二百円、だと。そんな昼飯が存在するのか、カップラーメンくらいしか思いつかない。そもそも五千円のランチってなんだ、俺が二百円のランチで妻は五千円。
講義するより前にどうやったら生活できるか考えてしまう自分が滑稽だった。結局あの女は自分が良ければ夫がどうなろうと知った事ではないのだ。
やっと思考に怒りが追いついてきた所で立ち上がった、二階の自室に籠ると、パソコンを開き妻の殺害方法を朝までかけて調べつくした。
順平ほ痴漢に間違われないように鞄を網棚に置いて、両手で吊り革を掴んだ。ギュウギュウの車内は酒や化粧品、香水の匂いが入り混じり異臭を漂わせている。
目の前に座りスマートフォンを凝視する若い女のミニスカートから伸びる白い足が艶かしくて下半身が反応しそうになる。当たり前だが妻とは夜の営みなどない、仮に不仲でなくても下っ腹のたるんだ中年の女など抱く気もおきないだろうが。
目の前の女が視線に気が付いたのか、自分を一瞬睨みつけた後にスカートの裾を引っ張った。冗談じゃない、少し見ただけでも痴漢扱いだ。順平は聞こえないように舌打ちした後に目を閉じた。
気がつくと電車は空いていて、空席もチラホラあった、どうやら立ったまま眠ってしまったらしい。目の前に座っていた女もすでに居なくなっていた。あと二駅で目的の津田沼駅だが最寄駅はそこから乗り換えてさらに二十分ほどかかる。
順平はため息を吐いて網棚に手を伸ばした。
「あれっ、ない!」
思わず声を出してしまい、少なくなった乗客の何人かが訝しげな顔をコチラに向けた。もう一度見上げる。しかし網棚に載せておいたはずの鞄が忽然と消えてなくなっていた、変わりにくしゃくしゃのスポーツ新聞がポツンと置かれている。
盗まれた、もしくは間違えて持って帰られた。いずれにせよ鞄が自分の元に戻ってくる可能性は殆どないだろう。幸い厚みのない財布はスーツの内ポケットにあるし、鞄の中身は会社の資料くらいで高価な物など何一つ入っていない。金銭目的で盗んだのであれば、さぞやガッカリしている事だろう。
念のため駅員に遺失物届けを出そうかと考えてやめた、そんな事をしていたら終電を逃してしまう。ここから家までタクシーを使えば五千円はくだらない。順平はスーツ姿に手ブラという異様なスタイルで構内を闊歩すると、自宅のある駅に向かうローカル線に乗り込んだ。
錦糸町から一時間、ようやく最寄駅に到着した。降りる客もまばらなこの駅は改札が一つしかなくこじんまりとしていた。改札の外にもロータリーや商店街はなく、潰れそうなおにぎり屋とチェーンの居酒屋が一件あるだけだ。
暗い駅前を抜けると住宅街が広がっている、似たような作りの建売住宅が並んでいて個性のかけらも感じられない。それでもこの辺りは駅から近いからまだマシだ。順平の家は駅から歩いて二十分はかかる。つまり会社までは片道およそ二時間、往復四時間。一ヶ月に二十五日出社すると考えると一ヶ月で百時間、一年間で千二百時間を無駄に過ごしていると考えると恐ろしくなった。
とは言え都会に一軒家など建てたら軽く五倍はするだろう、と言うか住宅ローンの審査が通るはずがない。いくら時間を無駄に使おうと一生このルートを往復するしか道はないのだ。
重くなった足を引きずりながらやっと我が家の近くまで帰ってきた、最後の十字路を右折した時だった。目の前に閃光が走り思わず目を閉じる、遅れてクラクションの音がけたたましく鳴り響いた。
「あぶねえだろオラァ!」
黒いワンボックスから派手な頭をした偏差値の低そうな若い男が怒鳴り散らしている。
「すみません……」
頭を下げて謝罪すると「チッ」と舌打ちを鳴らして去っていった。走り去る車のテールランプを見ながらなぜ自分が謝らなくてはならないのか後になって怒りが込み上げてきた。
片道一車線の狭い道にはガードレールもない、その割に県道に抜けるのに便利な横道は利用者が多くて交通量が多い。昼間など渋滞することもあるこの道沿いに我が家は建っていた。
そんな事は建設会社の人間は一言も言わなかった、駅から遠い事の唯一のメリットは閑静であることだ。それがこの交通量のせいでうるさいのは勿論、排気ガスで洗濯物は汚れるし何より子供たちの安全にも関わる。その件でも散々、妻に詰められた。どうして確認しなかったのか、こんなのは詐欺だ、あなたがトロイから、この甲斐性なし。
最後の方はただの悪口だったが、この場所に建売が販売されてそのパンフレットを目を輝かせて順平に見せてきたのは妻だ。駅から遠くないか? 田舎すぎないか? と心配する順平に田舎でのびのびと子供を育てたいだの、駅まで歩くのも健康に良いだのと、あれやこれやと説得してきた事など彼女は忘れているに違いない。
そう言えば、あちらの国は自分たちの意見ばかり通そうとして理屈が通らない事を堂々と言ってのける恥知らずな国際政治をしていたので、結局は国民性なのだろう。
いっそう憂鬱な気分になった所で重大な事に気がついた。
鍵がない――。
家の鍵と軽自動車の鍵が収まっているキーケースは鞄の中だ、つまり無くした。家に入るすべがない。インターホンは昼寝する三女が起きないようにボリュームが一番下に設定されているので、リビングにいれば気がつくが寝室までは届かない。
時間は十二時を回っていて、外から見える一階のリビング、二階の寝室、共に明かりは消えていた。順平はその場に立ちつくして泣きそうになった。ぼんやりと夜空を見上げると都会よりも広い空に星がいくつも輝いている。
「きれいだなあ……」
的外れな感想を声に出して呟いたところで事態が好転するわけでもなく、順平はスーツの上着を脱いでワイシャツを腕まくりした。こんな所で一晩明かすなんて冗談じゃない。春先なので凍死することはないだろうが、往復四時間の通勤と過酷な労働のあとに野宿するなんてあんまりだ。
屋根から下まで伸びている雨どいを見つめる、これを二階部分までよじ登っていけば自分の部屋の窓に手が掛かる、記憶が正しければ窓の鍵は閉めていない。
小学生のころ実家の雨どいをよじ登っては親に怒られていた事を思い出す。あの頃より体重はかなりあるが果たして耐久性は大丈夫だろうか、二階に到着したあたりで雨どいが壁から外れて転落、死ぬ事はないだろうが骨の二、三本は折るかもしれない。
右足を雨どいと壁を繋いでいる部分に無理やりねじ込む、左足を浮かせて全体重をかけたが思いのほか頑丈に作られているようだ、びくともしない。左足を次の繋ぎ部分にのせて体を持ち上げる。大丈夫、いけそうだ。交互に足を持ち上げながら二階を目指すとすぐに目的の場所まで到着した。
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一息ついて何気なく下を見た、見上げた時は大した高さに感じなかったが見下ろすとすごい高さだ、これは落下したら骨折じゃ済まないかもしれない。ゴクリ、と生唾を飲み込んで左手にある自室の窓に手を掛けた。
「あ、開かねえ!」
なぜだ、窓の鍵を閉めたことなんてないはずだ。右手で体を支えながら左手で窓を開こうと試みるがびくともしない。
「くっ」
窓を開ける力に全力を使ってしまったのと、上まで登れば何とかなると思っていた順平の体力は限界に達していた。小さな足場においた両足もプルプルと震えている。
「ここまでかっ!」
なんて儚い人生、自分の家に入れないで転落死なんてワイドショーのネタにもならない。
「何してんのよ?」
不意に声をかけられて右を向くと、寝室の窓から妻が害虫を見るような目で睨みつけていた。
「おい、窓を開けてくれ、俺の部屋の窓」
妻はため息を吐くとカラカラと窓を閉めて引っ込んでしまった、まさか、このまま放っておく気なのか。鬼、悪魔、朝鮮人。と、心の中で悪態をついていると自室の部屋の電気がついた、黒いシルエットが近づいてくると窓が開けられる。妻はすぐに踵を返して部屋を出て行った。
助かった――。
「ありがとう」
妻の背中に礼を言うと、足を窓枠に掛けて体を部屋に滑り込ませた。なんとか急死に一生を得た、とは言い過ぎかもしれないが、とにかく助かった事に安堵した。
とりあえず靴を脱いで玄関に向かう、すると一階リビングの電気が付いていて妻がカウンターの中で何かしている。
「悪いな、助かったよ、鍵失くしちゃってさ」
「いや、いいけど」
久しぶりに会話した気がする、とりあえず脱いだ靴を玄関に置くとリビングにもう一度顔を出した。
「飲んできたんでしょ、お茶漬けでも食べる?」
一瞬、自分にかけられた言葉かどうか理解できなかった、しかし、辺りを見渡しても誰もいない。
「あ、ああ、貰おうかな」
ダイニングテーブルに腰掛けて待っていると、冷たいお茶とあつあつのお茶漬けが運ばれてきた、お新香まで添えられている。
「はい、どうぞ、お仕事お疲れ様です」
「あ、ああ」
なんだ、どうした。なにか変なものでも口にしたのだろうか、訝しむ順平の前に妻が座った。
「いただきます」
そんなに腹は減っていなかったが、飲んだ後のお茶漬けはサラサラと口当たりよく、あっという間に胃に収まった。
「ごちそうさま」
食器を持って立ちあがろうとすると「あ、あたしやるから」と言ってキッチンに向かった。
これはもしや――。
順平は顎に手を当てて考察する。もしかしたら妻はやっと改心したのかもしれない、毎日毎日、家族のために身を粉にして働いている夫に対して、あまりにも感謝が、配慮が足りなかったと。これからはもっと大切にしなければならない、と。
「順平くん、ちょっとお願いがあってさ」
カウンターキッチンの中から妻に声をかけられる、妻が改心したのであれば自分ももう少し歩み寄らなければならないだろう、今までは少し大人気なかったかもしれない。考えてみれば子供三人の面倒を見るのは大変だろう、お互いに協力していかなければ。そう、夫婦とは本来そういうものじゃないか。
「なに? いつも苦労かけてるんだから何でも言ってよ」
そう声をかけると妻は破顔して白い歯を見せた。
「ほんとに? ありがとう、どうしてもママ友のランチが断われなくてさ、親同士が仲良くしてないと子供にまで影響するでしょ」
ランチ代のおねだりか、なんて可愛いお願いだろう。いや、自分の少ない稼ぎのせいで妻はママ友とランチをする事すら気を使っていたのか。情けない、これからはもっと働かなければ。
「そんなの絶対に行ったほうがいいよ、行っておいで」
ランチなんて千円程度だろう、そのくらいなら問題ない。
「ありがとー。月に二回だけなんだけどね、一回五千円だから月に一万円、しかたないよね。でも家計はこれ以上節約のしようがないからさ、順平くんのお小遣いから引くしかなくて、はい来月分のお小遣い、じゃあおやすみ」
妻は投げキッスをすると機嫌良さそうにリビングを出ていった、一人きりになった空間はシーンと静まり返り、ダイニングテーブルの上には眠そうな目をした福沢諭吉が一人ぽつんと置かれていた。
「え、一万円引く? 五千円のランチ?」
状況が把握できずに声が出てしまった。得意でもない暗算があっという間に脳内で行われる。現在、月に二万円の小遣いはランチで一日、五百円が二十五日で一万二千五百円、タバコは吸わないが酒が発泡酒を二日に一回で二千円五百円、携帯代がWi-Fi込で五千円できっちり二万円だ。
携帯電話を持たない訳にはいかないので五千円は確定、発泡酒をやめたとしても残りの五千円で二十五日分の食費を平均すると。
「一日、二百円――」
二百円、だと。そんな昼飯が存在するのか、カップラーメンくらいしか思いつかない。そもそも五千円のランチってなんだ、俺が二百円のランチで妻は五千円。
講義するより前にどうやったら生活できるか考えてしまう自分が滑稽だった。結局あの女は自分が良ければ夫がどうなろうと知った事ではないのだ。
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