2 / 11
妖艶な赤い薔薇
しおりを挟む
「あら、エルンストの奥さまじゃありませんこと?」
仕事の帰り道。表通りでとつぜん声をかけられた。振り向いたとたん、むわっと匂いたつような濃厚な花の香りが鼻につく。ボルドーのドレスを着た赤髪の貴婦人は、ぽってりと真っ赤な唇の端だけつりあげて、仮面のような笑みを作っていた。
「イリーナ・ハイゼル……!」
そう。そこに佇んでいたのは、清廉潔白を絵に描いたような夫、エルンストの愛人イリーナだった。
息をのむ。額にじわりと汗が浮く。目の前の圧倒的な美貌と色気に恐れを感じた。
彼女は人気舞台女優イリーナ・ハイゼル。演劇にさほど興味がない私でも知っている、この街の有名人だった。
「あら、私の顔と名前をご存知ですのね。光栄ですわ」
真紅の扇子をばさりと広げて、イリーナは甲高い声でほほほと笑う。耳ざわりだと言いたいところだが、彼女は舞台女優なのでとても良い声をしていた。
圧倒的強者の雌の匂いと独特な雰囲気にのまれそうになりつつも、私は何とか胸をはる。
「知ってるわ。……我が夫の愛人だもの、貴女は」
家令のモーリスから何度も繰り返し説明された、エルンストとイリーナの関係。彼らは長い付き合いがあり、エルンストは何年もこのイリーナのパトロンをしているらしい。
──こういう女がタイプなのね、エルンストは。
普段のエルンストは清潔感の塊と言えるぐらい、女性の気配がない。石鹸とハーブの匂いがほのかに香るような、それはそれは爽やかな好青年だった。真面目だが堅物というわけではなく、いつも柔らかな雰囲気を身にまとっている。
だからこそ、エルンストはイリーナのような淫猥な女を好むのかもしれない。人間は自分にないものを求めるから。夫は真面目な男だ。自分のタガを外してくれる女を好むのだろう。
胃がきりりと痛んだ。口の中に苦いものがこみ上げてくる。一瞬、ほんの一瞬だけ、夫とこのイリーナが睦み合う姿を想像してしまったのだ。
「どうかなさったの? 顔色が悪いわ」
──うぐぅ、余裕そうな顔しやがって。
夫と彼女の仲を黙認する。それが借金を肩代わりしてもらう条件だった。だから私は何も言えない。エルンストの正式な奥さんなのに、愛人に何も言えないのだ。
想像以上に気分が悪かった。エルンストの愛人に遭うことが、これほどまでに精神に負荷がかかることなど──思いもよらなかった。
「夫があなたと会おうとしないから、文句でもつけに来たの?」
胃のあたりをさすりながらキッとイリーナを睨みつける。おおかた、この女は私に文句を言いに来たのだろう。何せエルンストは私と籍を入れてから、一日すら帰ってこない日は無かった。
舞台女優は忙しい。日中は稽古、夜は芝居、エルンストと会うとしたらそれは夜中だ。エルンストが毎日帰ってくる。それすなわちイリーナとは会っていないということだろう。
それに彼から香水や化粧の匂いがしたことは一度もないのだ。
「いいえ。エルンストと会わなくなって楽になりましたわ。夜中もしっかり眠れるもの」
イリーナは肩を竦めると芝居がかった声を出す。あきらかに、嫌味まじりだった。
「あの人もあの人の兄も激しくてね、相手をした翌日は大変だったわ」
「……兄?」
エルンストに年の離れた兄がいたことは知っているが、イリーナは彼の兄とも関係を持っていただなんて。
既婚だけど、まだ生娘だった私はめまいがした。
「マークスは良い男だったわよ、エルンストよりずっとね」
イリーナは扇の向こう側でため息をつく。意味深に瞼をふせている。
──何なんだ、この女。
勝手にエルンストと仲良くやってろよと思う。愛人で、日陰の女なのだから、正妻の目の前に現れないで欲しかった。
「そろそろみそぎの期間が終わるから、夫はまた貴女のところに通うようになると思うわ」
エルンストからは愛人宅に通うことについて何も聞かされていないが、私に事情を説明する家令の様子を見るに、しばらく経てばエルンストは屋敷に帰って来なくなるのだろう。いや、跡継ぎは欲しいだろうから、私の排卵日だけは屋敷にいるようになるのかも。
孕みやすい日にだけ私を抱く夫。想像するだけでおぞましいが、仕方がない。私は金で買われた妻なのだから。
「楽しみにしてますわ、奥さま」
ほほほと笑いながら、夫の愛人は去っていく。嵐のような女だった。
38
あなたにおすすめの小説
【R18】深層のご令嬢は、婚約破棄して愛しのお兄様に花弁を散らされる
奏音 美都
恋愛
バトワール財閥の令嬢であるクリスティーナは血の繋がらない兄、ウィンストンを密かに慕っていた。だが、貴族院議員であり、ノルウェールズ侯爵家の三男であるコンラッドとの婚姻話が持ち上がり、バトワール財閥、ひいては会社の経営に携わる兄のために、お見合いを受ける覚悟をする。
だが、今目の前では兄のウィンストンに迫られていた。
「ノルウェールズ侯爵の御曹司とのお見合いが決まったって聞いたんだが、本当なのか?」」
どう尋ねる兄の真意は……
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
【完結】騎士団長の旦那様は小さくて年下な私がお好みではないようです
大森 樹
恋愛
貧乏令嬢のヴィヴィアンヌと公爵家の嫡男で騎士団長のランドルフは、お互いの親の思惑によって結婚が決まった。
「俺は子どもみたいな女は好きではない」
ヴィヴィアンヌは十八歳で、ランドルフは三十歳。
ヴィヴィアンヌは背が低く、ランドルフは背が高い。
ヴィヴィアンヌは貧乏で、ランドルフは金持ち。
何もかもが違う二人。彼の好みの女性とは真逆のヴィヴィアンヌだったが、お金の恩があるためなんとか彼の妻になろうと奮闘する。そんな中ランドルフはぶっきらぼうで冷たいが、とろこどころに優しさを見せてきて……!?
貧乏令嬢×不器用な騎士の年の差ラブストーリーです。必ずハッピーエンドにします。
結婚式に結婚相手の不貞が発覚した花嫁は、義父になるはずだった公爵当主と結ばれる
狭山雪菜
恋愛
アリス・マーフィーは、社交界デビューの時にベネット公爵家から結婚の打診を受けた。
しかし、結婚相手は女にだらしないと有名な次期当主で………
こちらの作品は、「小説家になろう」にも掲載してます。
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる