政略結婚した夫の恋を応援するはずが、なぜか毎日仲良く暮らしています。

野地マルテ@2月27日『帝国後宮録』発売

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妖艶な赤い薔薇

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「あら、エルンストの奥さまじゃありませんこと?」

 仕事家庭教師の帰り道。表通りでとつぜん声をかけられた。振り向いたとたん、むわっと匂いたつような濃厚な花の香りが鼻につく。ボルドーのドレスを着た赤髪の貴婦人は、ぽってりと真っ赤な唇の端だけつりあげて、仮面のような笑みを作っていた。

「イリーナ・ハイゼル……!」

 そう。そこに佇んでいたのは、清廉潔白を絵に描いたような夫、エルンストの愛人イリーナだった。
 息をのむ。額にじわりと汗が浮く。目の前の圧倒的な美貌と色気に恐れを感じた。
 彼女は人気舞台女優イリーナ・ハイゼル。演劇にさほど興味がない私でも知っている、この街の有名人だった。

「あら、私の顔と名前をご存知ですのね。光栄ですわ」

 真紅の扇子をばさりと広げて、イリーナは甲高い声でほほほと笑う。耳ざわりだと言いたいところだが、彼女は舞台女優なのでとても良い声をしていた。
 圧倒的強者の雌の匂いと独特な雰囲気にのまれそうになりつつも、私は何とか胸をはる。

「知ってるわ。……我が夫の愛人だもの、貴女は」

 家令のモーリスから何度も繰り返し説明された、エルンストとイリーナの関係。彼らは長い付き合いがあり、エルンストは何年もこのイリーナのパトロンをしているらしい。

 ──こういう女がタイプなのね、エルンストは。

 普段のエルンストは清潔感の塊と言えるぐらい、女性の気配がない。石鹸とハーブの匂いがほのかに香るような、それはそれは爽やかな好青年だった。真面目だが堅物というわけではなく、いつも柔らかな雰囲気を身にまとっている。
 だからこそ、エルンストはイリーナのような淫猥な女を好むのかもしれない。人間は自分にないものを求めるから。夫は真面目な男だ。自分のタガを外してくれる女を好むのだろう。

 胃がきりりと痛んだ。口の中に苦いものがこみ上げてくる。一瞬、ほんの一瞬だけ、夫とこのイリーナが睦み合う姿を想像してしまったのだ。

「どうかなさったの? 顔色が悪いわ」

 ──うぐぅ、余裕そうな顔しやがって。

 夫と彼女の仲を黙認する。それが借金を肩代わりしてもらう条件だった。だから私は何も言えない。エルンストの正式な奥さんなのに、愛人に何も言えないのだ。

 想像以上に気分が悪かった。エルンストの愛人に遭うことが、これほどまでに精神に負荷がかかることなど──思いもよらなかった。

「夫があなたと会おうとしないから、文句でもつけに来たの?」

 胃のあたりをさすりながらキッとイリーナを睨みつける。おおかた、この女は私に文句を言いに来たのだろう。何せエルンストは私と籍を入れてから、一日すら帰ってこない日は無かった。

 舞台女優は忙しい。日中は稽古、夜は芝居、エルンストと会うとしたらそれは夜中だ。エルンストが毎日帰ってくる。それすなわちイリーナとは会っていないということだろう。
 それに彼から香水や化粧の匂いがしたことは一度もないのだ。

「いいえ。エルンストと会わなくなって楽になりましたわ。夜中もしっかり眠れるもの」

 イリーナは肩を竦めると芝居がかった声を出す。あきらかに、嫌味まじりだった。

「あの人もあの人の兄も激しくてね、相手をした翌日は大変だったわ」
「……兄?」

 エルンストに年の離れた兄がいたことは知っているが、イリーナは彼の兄とも関係を持っていただなんて。
 既婚だけど、まだ生娘だった私はめまいがした。

「マークスは良い男だったわよ、エルンストよりずっとね」

 イリーナは扇の向こう側でため息をつく。意味深に瞼をふせている。

 ──何なんだ、この女。

 勝手にエルンストと仲良くやってろよと思う。愛人で、日陰の女なのだから、正妻わたしの目の前に現れないで欲しかった。

「そろそろみそぎの期間が終わるから、夫はまた貴女のところに通うようになると思うわ」

 エルンストからは愛人宅に通うことについて何も聞かされていないが、私に事情を説明する家令の様子を見るに、しばらく経てばエルンストは屋敷に帰って来なくなるのだろう。いや、跡継ぎは欲しいだろうから、私の排卵日だけは屋敷にいるようになるのかも。

 孕みやすい日にだけ私を抱く夫。想像するだけでおぞましいが、仕方がない。私は金で買われた妻なのだから。

「楽しみにしてますわ、奥さま」

 ほほほと笑いながら、夫の愛人は去っていく。嵐のような女だった。
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