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しおりを挟む気がついた時にはもう遅かった。
ロレシオはいそいそと懐から一枚の紙と丸い朱印を取り出すと、私の指先に赤い海綿をちょちょんとつけ、私の指を取り、ぐぐっとそれを厚手の紙に押し付けたのだ。
「嬉しいよ、マリヴェル。明日、これを役所に出してこよう」
彼の手にあるもの、それは婚姻届だった。ロレシオはいつもこれを持参していた。
いつもの私なら血相を変えてひったくってビリビリに破り捨てるところだが、今日の私はいつもの私ではない。
色々あって混乱していたのだ。しかも泥酔一歩手前だった。夢を見ているかのように頭がぼぉっとしていた。
ロレシオは私の指先についた朱印をハンカチーフで優しく拭き取りながら、私の様子のおかしさに気がついたのだろう。
「マリヴェル?」
そっと顔を覗き込んできた。
「うっ、うぅっ」
ロレシオの気遣わしげな顔に、とうとう私の涙腺は決壊してしまった。視界が瞬く間に緩み、目尻に、頰に、熱い液体がぼたぼた流れ落ちる。
「わっ、マリヴェル⁉︎」
「ロレシオ、わ、わたし、わたし……」
「やはり嫌なのか? すまない、騙し打ちのような形で結婚の証を手に入れてしまって……!」
「うっ、ふぅっ、うっ、う」
ロレシオは手をわたわたさせて、嫌なのかとしきりに聞いてくるが、そうじゃない。私は嬉しかったのだ。嬉しかったのに、その選択がロレシオを不幸にするから悲しかったのだ。
侯爵家の嫡男の立場を捨て、わざわざ格下の家の婿になる、そうまでして私を選んでくれようとするロレシオはバカだと思う。
そんなバカで考えなしな彼のことがどうしようもなく好きだった。
「私もロレシオのことが好き……」
「えっ」
「ずっと好きだった。あなたの言うとおりです。ずっとあなたの家のことがネックで、求婚を受けいれられなかった。最低です……、私はどうしても侯爵家の嫁になりたくなかった」
白ワインのボトルまるまる一本分のんでいた私はすっかり出来上がっていた。まるで自白剤を飲んだかのように、包み隠さず正直に、今まで求婚を受けられなかった理由を白状してしまった。
「私は赤ん坊の頃からあなたとの付き合いがあった……あなたの家の事情もよく知っています。だから結婚話を受けられなかったの。私に侯爵夫人は務まらないと思って」
「マリヴェル」
「あなたが侯爵家の、モンシプール家の嫡男でなければどれだけいいだろうって、あなたの生まれを呪っていました。ぐすっ、最低ですぅ……」
「私自身を思ってくれていたのか?」
こくりと頷く。ロレシオの地位や生まれを呪うぐらい、彼自身のことが好きだった。私と食の趣味があうところ、一緒にいて落ち着くところ、ちょっと心根が真っ直ぐすぎて脳筋なんじゃないかと思えるところ、真面目なところ、諦めの悪いところ、しつこいところ、ぜんぶ、ぜんぶ好きだった。
「マリヴェルは変わっているな。皆、侯爵夫人の座を狙って私に近づくのに」
「侯爵夫人の座を狙う女性のほうが都合がいいでしょう? だって、家を切り盛りする気概があるって事ですもの」
「皆、侯爵家の苦労を知らんのだろう」
なんとなく掴まれたままだった手指を、ぐっと力を入れて握られた。
「やはり一緒になろう、マリヴェル」
「ロレシオ……」
「私には君しかいないんだ」
ここから先の記憶は曖昧で、私はただただ泣いていたと思う。私が座っていたソファのところまできた彼は、私をそっと抱きしめて、なだめるように頭を撫でてくれた。
うん、ここまでは良かったのだ。幼馴染らしい、淡いやりとりが出来ていたと思う。問題はこの先である。記憶がろくすっぽないのだ。
私はどこをどうやって帰ってきたのか、そもそもいつ眠ったのか、目が覚めたら家に──住まいにしている工房の一室にいた。
そしてロレシオと二人、衣服を何もつけていない状態で、ベッドの上に転がっていたのである。
◆
「えっ……」
自宅のベッドの上、きりりと痛む頭を押さえ、ふと自分の脇を見てみれば、そこには見覚えのありすぎる男が安らかな寝息を立てていた。
ロレシオだ。寝顔も可愛い、睫毛ながーい!久々にみた~~……じゃなくて。
──どうして隣にロレシオが?
昨夜あったことを何とか思い出そうとこめかみに指をあて、唸る。確か昨日もいつも通り彼からのプロポーズを断って、一緒に食事して、そして……。
「嘘でしょ……」
一緒にヴァリジーニを食べたところまでははっきり覚えている。問題はそこからだ。
たぶん、たぶんだが、私は自分ん家の家督問題を彼にぶちまけた。そして、彼が我が家を継ぐと言い出した。
記憶をたぐり寄せるために、ロレシオの秀麗すぎる顔を覗きみる。あいも変わらず彼はきれいな顔をしていた。頰に影をつくる長い金糸の睫毛とスッと高い鼻梁、嫌味なほど整った口元。日焼けしてるはずなのに、なんてきめ細やかな肌……だめだ、見ていたって胸がときめくだけだった。
あれから一体どうしたっけ⁉︎
「痛っ……!」
水でも飲もうかと動けば、下腹部に違和感を覚える。お腹の奥も腰も重だるいような痛みがある。
私は下着すら着けておらず、よくみれば、太ももや胸元には点々と赤い痕があった。
──これは黒だわ。
きっとやっちまったのだろう。きっとどころかがっつりとやっちまった可能性の方が高い。私は正直情事をした記憶が何もない……こともないが、これだけ証拠が残っていて、何も無かったとはさすがに考えづらい。
とりあえず、戸棚から丸薬を取り出して飲んでおいた。避妊薬がわりのホルモン剤だ。
「マリヴェル……? 起きたのか?」
酒焼けたような掠れたロレシオの声。私は背をびくりとさせると、彼のほうを恐る恐る振り向いた。
「ロレシオ……」
「昨夜の記憶はあるか?」
「だ、断片的にですが」
ロレシオはやや不機嫌そうに眉間にしわを寄せる。頭を押さえて、上体を起こす。傷一つない逞しい半身が現れて、私は思わず頰を染めてしまった。昨夜散々抱きあったろうに、今更意識するのはおかしいと思いつつ。
恥ずかしがる私とは裏腹に、ロレシオは頭をがしがしかきながら、言いづらそうにつぶやいた。
「……最後までは出来てないから」
「えっ」
「安心しろ、と言っても無理だよな」
ロレシオ曰く、私の身体を丹念に慣らしているうちに、私は熟睡してしまったらしい。どうもあそこに指は入れられたみたいだが、ロレシオのロレシオは入れられていないらしい。
「えっ、そうなんですか?」
それは悪いことをしてしまった。今からでも続きをしてくれていいとは思ったが、なんとなく自分から言うのは気恥ずかしい。
私がもじもじしていると、ロレシオはぷいっと顔を背けた。
「……頼むから身体を隠してくれ」
そう言われてはっとする。私は情事の痕を色濃く残した身体のまま、何も身に纏っていなかったからだ。
急いで壁にかけてあったストールで身を隠した。
なんというか、ロレシオはこんな時でも紳士だった。おそらく昨夜はとても盛り上がったのだろう。
何せ両思いになったのだ。長年の両片思いにやっと決着がついたのだ。私は彼に気持ちをぶちまけた。そこのところは断片的に覚えている。勢いあまってお酒の力で一線越えていても何らおかしくはない。
「ありがとう、ございます」
寝ている私に無理やりしても、私は彼を責めなかったと思う。でも、彼はそうしなかったのだ。
こんなところも相変わらずだなと思って、笑ってしまった。
「何がおかしいっ」
「ごめんなさい、嬉しくて」
「ああっ、もう! 何もかもが中途半端だ」
ロレシオはかばりとベッドにうつ伏せる。天窓から覗く朝日を受ける金糸には寝癖がついていた。
私はぷりぷり怒っている彼を置いて、浴室に入る。金の蛇口をひねり、お湯を出すと上気した身体からはさらに赤い花弁が浮いてみえた。
縦長の楕円の鏡に映る自分をみて驚愕した。──なんだろうか、この激しい執着の痕は。
今までロレシオから自分へ向けられている愛情は至ってノーマルなものだと信じていたが、意外にも彼は執着心が強かったらしい。自分の身体にさらに浮かび上がった夥しい数のキスマークに、目眩がしそうなほど動揺した。
「うわわぁ……」
そして残念なことに、こうされて嬉しいと思う自分もいた。これだけ痕をつけられればしばらくは消えないだろう。仕事の関係上、ロレシオと会えるのは月に2~3回程度だ。
またしばらく彼に逢えなくても、これなら寂しくないかもと、ふわふわと浮かれた頭で考えてしまった。
べたべたしていた身体を洗い流し、部屋に戻ると、ロレシオの姿は消えていた。ベッドの脇にある小テーブルには小さな紙と万年筆があった。それには『城へ戻る。また話し合おう』と走り書きされていた。
彼は王城勤めの騎士だ。王家の護衛を担う近衛騎士。もう七年も勤めていて、昨年からは近衛の団長補佐になったと言っていた。
近衛は多忙だ。貴族の嫡男で勤めているのはロレシオぐらいかもしれない。
「私も仕事に行かなくちゃ」
私もドレス商としての仕事があった。今日会う顧客は、モンシプール家、ロレシオの母親だ。
ロレシオとあんなことがあったばかりで、どんな顔をして会えばいいのか分からない。
両手で顔を覆い、ため息をつく。顔はとても熱かった。
まだ夢のなかにいるような気がした。私は昨夜、彼にどんな風に愛されたのだろうか。ベッドの中で何を言い、何を言われたのか、思い出そうとしても、どうにもこうにもはっきりしない。
首筋や胸元に手をやると、なんとなくだが吸われた感触を思い出せるような気がした。二十年来の幼馴染とこんなことになるとは、昨夜までは想像もしていなかった。
でも嫌じゃない。……嬉しかった。
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