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第33話 虚無との初対峙
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朝靄が、不気味なほど黒かった。
いつもなら第二の太陽の光で金色に輝くはずの霧が、今朝は墨を溶かしたような色をしている。テントから這い出た俺は、思わず身震いした。露に濡れた草の冷たさが、靴底から伝わってくる。
「みんな、準備はいいか?」
俺の声に、十四人の仲間たちが頷いた。昨夜の不穏な現象を目撃した者も、そうでない者も、皆一様に緊張した表情をしている。焚き火の残り火がパチパチと音を立て、誰かが息を呑む音が聞こえた。
「今日、俺たちは消えた村に入る」
エリーゼが俺の隣に寄り添った。彼女の温もりが、凍えそうな心を溶かしてくれる。新婚旅行にしては過酷すぎる道のりだが、彼女は一度も不満を口にしない。むしろ、俺を支えることに喜びを感じているようだった。
「チーム編成を最終確認するぞ」俺は地図を広げた。羊皮紙の表面がざらりと指先に触れる。「Aチームは俺とエリーゼ、それにリク。前衛として戦闘を担当する」
リクが剣の柄を握りしめた。金属が擦れる音が、静寂を破る。
「Bチームはミーナ、カール、ローラ、マルコ。支援と防御を頼む」
ミーナが杖を地面に突き立てた。土が跳ねる音と共に、微かな魔力の波動が広がる。
「Cチームはソフィア、レオ、そして残りの五名。偵察と情報収集だ」
レオが不安そうに俺を見上げた。まだ十五歳の少年の瞳に、恐怖と決意が混在している。俺は彼の肩に手を置いた。
「大丈夫だ。みんなで支え合えば、必ず乗り越えられる」
◆
北へ向かうにつれて、世界が死んでいくのを感じた。
最初に気づいたのは鳥の声だった。いや、正確には鳥の声が聞こえなくなったことに気づいたのだ。森は静まり返り、風さえも息を潜めているようだった。葉擦れの音も、虫の羽音も、何もない。ただ俺たちの足音だけが、不気味に響いている。
「動物の死骸だ」
ソフィアが指差した先に、黒く変色した鹿が横たわっていた。腐敗とは違う。まるで存在そのものが否定されたかのように、輪郭がぼやけている。近づくと、かすかに硫黄のような臭いが鼻を突いた。
「触るな」俺は制止した。「これは普通の死じゃない」
さらに進むと、気温が急激に下がり始めた。息が白く濁る。真夏のはずなのに、まるで真冬のような寒さだ。肌を刺すような冷気が、防具の隙間から侵入してくる。
「あれを見て」
エリーゼが震える声で前方を指した。
地平線に、黒い壁が立ちはだかっていた。いや、壁というより霧だ。しかし普通の霧とは違う。光を飲み込み、音を殺し、全てを無に還そうとする、生きた闇のような何か。
「あれが...黒い霧」
ミーナの声が震えている。魔力探知に長けた彼女だからこそ、その異常性が分かるのだろう。
レオが突然、俺の袖を掴んだ。小さな手が震えている。
「翔太隊長...僕、怖いです...」
レオの目が涙で潤んでいた。でも、必死に涙をこらえて、小さくガッツポーズをとろうとしている。
純粋な恐怖。飾らない、素直な感情。それが却って、この状況の深刻さを物語っていた。
「俺も怖いよ」俺は正直に答えた。「でも、だからこそ俺たちが行かなきゃいけない」
カールがレオの頭を優しく撫でた。鎧の籠手が髪を撫でる音が、妙に優しく響く。
「勇気とは恐怖がないことじゃない。恐怖と共に前に進むことだ」
その言葉に、レオの表情が少し和らいだ。
エリーゼが俺の手を取った。柔らかく、温かい手。この手があるから、俺は前に進める。
「一緒に行きましょう」
彼女の微笑みが、勇気をくれる。
◆
消えた村は、そこにあった。
正確に言えば、村の形をした虚無がそこにあった。
建物の輪郭だけが、黒い霧の中に浮かび上がっている。家の形、教会の形、井戸の形。しかし中身がない。まるで影絵のように、実体を持たない輪郭だけが存在している。
地面には、人の形をした黒い染みが点在していた。大人、子供、老人。様々な大きさの染みが、最後の瞬間の姿勢を保ったまま、地面に焼き付いている。
「これは...」リクが言葉を失った。
空気が重い。いや、重いというより、存在しないのかもしれない。息をしても、肺に何も入ってこない感覚。それでいて苦しくはない。ただ、虚しい。
村の中心に、それはあった。
巨大な黒い結晶。
最初に目に飛び込んできたのは、その圧倒的な大きさだった。高さ十メートルはあろうかという漆黒の柱が、地面から天に向かって突き刺さっている。近づくにつれ、その巨大さが俺たちを圧倒した。まるで山のようにそびえ立ち、周囲のすべてを矮小に見せる。
表面は滑らかで、鏡のように周囲を映している。いや、映しているのではない。俺はその真実に気づいた。周囲の存在を吸い込んでいるのだ。結晶の表面に映った景色は、徰々に歪み、引き伸ばされ、そして結晶の中に消えていく。
音があった。
いや、音ではない。音の不在があった。結晶の周囲では、あらゆる音が吸収されていた。風の音、足音、呼吸の音、心臓の鼓動。すべてが結晶に吸い込まれ、無音の闇に消えていく。耳がキーンと痛み、鼓膜が圧迫されるような感覚があった。
匂いも、あった。
それは死の匂いでも、腐敗の匂いでもなかった。もっと根源的な、「無」の匂いだった。鉄を焼いたような、電気を帯びたような、それでいて何もないような。鼻腔が乾き、喘いでも欲しくなるような、空虚な匂い。
触覚も、狂っていた。
結晶に近づくほど、肌がヒリヒリと痺み出した。それは冷たさでも熱さでもない。存在そのものが否定されていく感覚。指先から徰々に消えていくような、輪郭がぼやけていくような、不快で恐ろしい感覚。服の繊維さえも重く感じられ、まるで鉄の鎖を纏っているかのようだった。
そして、味。
口の中に広がる金属質の味。血の味に似ているが、もっと無機質だ。まるで砂を噬んでいるかのような、ザラザラとした不快な感覚が口内に広がる。唠液さえも出なくなり、喉がカラカラに乾いていく。
結晶からは、「無」のオーラが放たれていた。
それは闇でも、冷気でも、瘴気でもない。ただ純粋な「無」。存在の否定。生命の否定。希望の否定。全ての否定。
目を凝らすと、結晶の内部に何かが脈打っているのが見えた。黒い心臓のように、ドクドクと脈打ち、虚無を世界に送り出している。そのリズムは不規則で、生命とは真逆の何かを感じさせた。
聖剣エクスカリバーが激しく震えた。警告なのか、恐怖なのか。金属が振動する高い音が、静寂を切り裂く。柄を握る手に、剣の恐怖が伝わってくる。伝説の聖剣でさえ、この結晶を恐れているのだ。
「ソフィア、分析できるか?」
ソフィアが魔力探知の術式を展開した。青白い光の紋様が空中に浮かび上がる。しかし次の瞬間、紋様が黒く染まり、砕け散った。
「だめです...これは...」彼女の顔が青ざめる。「物質の存在情報そのものが消失しています。原子も、分子も、魔力も、全てが『無かったこと』にされている」
マルコが震え声で言った。
「こんなの、どうやって戦えばいいんだ」
その時、村の端から微かな声が聞こえた。
「たす...けて...」
◆
声の主は、村の端の小屋で見つかった。
夫婦だった。互いの手をしっかりと握り合ったまま、床に倒れている。まだ息があるが、体の半分が透けていた。文字通り、存在が薄れている。
俺とエリーゼは急いで駆け寄り、調和浄化を試みた。二人の手を重ね、温かい光を注ぎ込む。愛の力を、希望の力を、存在を肯定する力を。
光が夫婦を包み込む。ゆっくりと、透けていた部分が実体を取り戻し始めた。
夫が目を開けた。焦点の定まらない瞳が、俺たちを見つめる。
「あなたたちは...」
「大丈夫です。俺たちは浄化士です」
妻も意識を取り戻した。彼女は涙を流しながら、震える声で語り始めた。
「三日前...空から降ってきたんです...あの黒い結晶が...」
夫が続ける。声は掠れ、今にも消えそうだ。
「最初に...子供たちが消えました...」
その言葉に、妻が嗚咽を漏らした。胸が締め付けられるような、深い悲しみが伝わってくる。
「朝起きたら...ベッドに黒い染みだけが...私たちの宝物が...」
俺は言葉を失った。エリーゼが妻の手を優しく握る。
「毎晩、誰かが消えていきました」夫が続けた。「でも不思議なことに...」
彼は妻を見つめた。その瞳に、深い愛情が宿っている。
「愛だけが『無』に抵抗できたんです。私たちが生き残れたのは、互いを想い続けたから。手を離さなかったから」
ソフィアが驚きの声を上げた。
「愛が...存在を繋ぎ止める錨になっている?」
「でも、もう限界でした」妻が弱々しく言った。「あと少しで、私たちも...」
俺は夫婦の顔を真っ直ぐ見つめた。
「グレンという商人を知っていますか?彼があなたたちのことを心配していました」
夫婦の表情が少し明るくなった。
「グレンが...あいつ、無事だったのか」
「ええ。そして言っていました。『愛の力はまだ死んでいない』と」
妻が再び涙を流した。今度は、希望の涙だった。
「村の人たちは...もう戻らないんですね」
俺は頷いた。嘘はつけない。
「でも、これ以上犠牲を出さないために、俺たちは戦います」
◆
黒い結晶への接近は、慎重に行われた。
三チーム連携での陣形を組む。Aチームが前衛、Bチームが中衛、Cチームが後衛。全員が一定の間隔を保ちながら、ゆっくりと進む。
結晶に近づくほど、虚無感が強まった。
それは絶望とも違う。諦めとも違う。ただ、何もかもがどうでもよくなる感覚。生きることも、死ぬことも、愛することも、憎むことも、全てが無意味に思えてくる。
「しっかりしろ!」リクが叫んだ。「これは精神攻撃だ!」
しかし、その影響を最も強く受けたのは、意外な人物だった。
「うっ...」
レオが突然苦しみ始めた。膝をつき、頭を抱える。純粋な心を持つが故に、虚無の影響を受けやすいのだろう。
「レオ!」
ローラが駆け寄り、回復魔法をかける。しかし効果は薄い。
「だめです...これは心の問題です」
俺とエリーゼは顔を見合わせ、頷いた。
「調和浄化で結晶に挑戦しよう」
二人で手を繋ぎ、黒い結晶に向かって歩み寄る。一歩、また一歩。足元から這い上がってくる虚無感と戦いながら。
結晶まであと五メートル。
聖剣エクスカリバーが、まるで悲鳴のような音を立てた。
「聖愛浄化・調和!」
俺たちの愛の力が、光となって結晶に向かって放たれた。温かく、優しく、全てを包み込む光。
光が結晶に触れた瞬間、世界が震えた。
結晶の表面に亀裂が走る。内部から微かな光が漏れ出す。成功か、と思った次の瞬間。
『世界は過ちだ』
声が、直接頭の中に響いた。男とも女ともつかない、老人とも子供ともつかない、あらゆる声が混ざり合った不協和音。
『存在することが罪』
『無に還るべき』
『全ては間違い』
結晶の亀裂から、どす黒い霧が噴出した。それは俺たちの浄化の光を押し返し、逆に侵食してくる。
「だめだ、撤退!」
俺は叫んだ。これ以上は危険だ。部分的な浄化には成功したが、核心部分は手付かずのままだ。
◆
夫婦を連れて、俺たちは一時撤退した。
村から十分に離れた場所に野営地を設営する。夜が更けても、誰も眠れなかった。焚き火を囲んで、作戦会議が続く。
「あの声は何だったんだろう」ミーナが考え込む。
「世界を否定する意思...」ソフィアが分析する。「もしかしたら、これは自然現象じゃない。誰かの、あるいは何かの意図的な攻撃かもしれません」
救出した夫婦は、ローラの手当てを受けて少しずつ回復していた。しかし、失った家族の悲しみは癒えない。
「『無』の正体について、仮説があります」ソフィアが口を開いた。「これは存在の否定、つまり世界の根源的なルールへの反逆です。もし愛が唯一の対抗手段なら...」
「愛こそが、存在を肯定する最も強い力ということか」カールが理解を示す。
俺は拳を握りしめた。
「もう一度挑戦する。今度は、もっと強い愛の力で」
エリーゼが俺の手を取った。
「二人なら、きっと」
その時、北の空を見上げたレオが震え声で言った。
「あ、あれ...何ですか、あれ!」
北の空に、黒い雲が広がっていた。いや、雲じゃない。それは虚無の霧だった。ゆっくりと、しかし確実に、世界を飲み込もうとしている。
結晶は、まだ成長している。
村を飲み込み、森を飲み込み、やがては国を、世界を飲み込むまで。
「明日、決着をつける」
俺は決意を新たにした。聖剣エクスカリバーが、微かに光を放つ。それは恐怖ではなく、決意の光だった。
仲間たちが頷く。恐怖はある。不安もある。
でも、それ以上に。
守りたいものがある。
愛する人が、仲間が、世界が。
「さあ、掃除の時間だ」
俺の言葉に、皆が力強く頷いた。
明日、俺たちは虚無と対峙する。
そして必ず、希望を取り戻してみせる。
いつもなら第二の太陽の光で金色に輝くはずの霧が、今朝は墨を溶かしたような色をしている。テントから這い出た俺は、思わず身震いした。露に濡れた草の冷たさが、靴底から伝わってくる。
「みんな、準備はいいか?」
俺の声に、十四人の仲間たちが頷いた。昨夜の不穏な現象を目撃した者も、そうでない者も、皆一様に緊張した表情をしている。焚き火の残り火がパチパチと音を立て、誰かが息を呑む音が聞こえた。
「今日、俺たちは消えた村に入る」
エリーゼが俺の隣に寄り添った。彼女の温もりが、凍えそうな心を溶かしてくれる。新婚旅行にしては過酷すぎる道のりだが、彼女は一度も不満を口にしない。むしろ、俺を支えることに喜びを感じているようだった。
「チーム編成を最終確認するぞ」俺は地図を広げた。羊皮紙の表面がざらりと指先に触れる。「Aチームは俺とエリーゼ、それにリク。前衛として戦闘を担当する」
リクが剣の柄を握りしめた。金属が擦れる音が、静寂を破る。
「Bチームはミーナ、カール、ローラ、マルコ。支援と防御を頼む」
ミーナが杖を地面に突き立てた。土が跳ねる音と共に、微かな魔力の波動が広がる。
「Cチームはソフィア、レオ、そして残りの五名。偵察と情報収集だ」
レオが不安そうに俺を見上げた。まだ十五歳の少年の瞳に、恐怖と決意が混在している。俺は彼の肩に手を置いた。
「大丈夫だ。みんなで支え合えば、必ず乗り越えられる」
◆
北へ向かうにつれて、世界が死んでいくのを感じた。
最初に気づいたのは鳥の声だった。いや、正確には鳥の声が聞こえなくなったことに気づいたのだ。森は静まり返り、風さえも息を潜めているようだった。葉擦れの音も、虫の羽音も、何もない。ただ俺たちの足音だけが、不気味に響いている。
「動物の死骸だ」
ソフィアが指差した先に、黒く変色した鹿が横たわっていた。腐敗とは違う。まるで存在そのものが否定されたかのように、輪郭がぼやけている。近づくと、かすかに硫黄のような臭いが鼻を突いた。
「触るな」俺は制止した。「これは普通の死じゃない」
さらに進むと、気温が急激に下がり始めた。息が白く濁る。真夏のはずなのに、まるで真冬のような寒さだ。肌を刺すような冷気が、防具の隙間から侵入してくる。
「あれを見て」
エリーゼが震える声で前方を指した。
地平線に、黒い壁が立ちはだかっていた。いや、壁というより霧だ。しかし普通の霧とは違う。光を飲み込み、音を殺し、全てを無に還そうとする、生きた闇のような何か。
「あれが...黒い霧」
ミーナの声が震えている。魔力探知に長けた彼女だからこそ、その異常性が分かるのだろう。
レオが突然、俺の袖を掴んだ。小さな手が震えている。
「翔太隊長...僕、怖いです...」
レオの目が涙で潤んでいた。でも、必死に涙をこらえて、小さくガッツポーズをとろうとしている。
純粋な恐怖。飾らない、素直な感情。それが却って、この状況の深刻さを物語っていた。
「俺も怖いよ」俺は正直に答えた。「でも、だからこそ俺たちが行かなきゃいけない」
カールがレオの頭を優しく撫でた。鎧の籠手が髪を撫でる音が、妙に優しく響く。
「勇気とは恐怖がないことじゃない。恐怖と共に前に進むことだ」
その言葉に、レオの表情が少し和らいだ。
エリーゼが俺の手を取った。柔らかく、温かい手。この手があるから、俺は前に進める。
「一緒に行きましょう」
彼女の微笑みが、勇気をくれる。
◆
消えた村は、そこにあった。
正確に言えば、村の形をした虚無がそこにあった。
建物の輪郭だけが、黒い霧の中に浮かび上がっている。家の形、教会の形、井戸の形。しかし中身がない。まるで影絵のように、実体を持たない輪郭だけが存在している。
地面には、人の形をした黒い染みが点在していた。大人、子供、老人。様々な大きさの染みが、最後の瞬間の姿勢を保ったまま、地面に焼き付いている。
「これは...」リクが言葉を失った。
空気が重い。いや、重いというより、存在しないのかもしれない。息をしても、肺に何も入ってこない感覚。それでいて苦しくはない。ただ、虚しい。
村の中心に、それはあった。
巨大な黒い結晶。
最初に目に飛び込んできたのは、その圧倒的な大きさだった。高さ十メートルはあろうかという漆黒の柱が、地面から天に向かって突き刺さっている。近づくにつれ、その巨大さが俺たちを圧倒した。まるで山のようにそびえ立ち、周囲のすべてを矮小に見せる。
表面は滑らかで、鏡のように周囲を映している。いや、映しているのではない。俺はその真実に気づいた。周囲の存在を吸い込んでいるのだ。結晶の表面に映った景色は、徰々に歪み、引き伸ばされ、そして結晶の中に消えていく。
音があった。
いや、音ではない。音の不在があった。結晶の周囲では、あらゆる音が吸収されていた。風の音、足音、呼吸の音、心臓の鼓動。すべてが結晶に吸い込まれ、無音の闇に消えていく。耳がキーンと痛み、鼓膜が圧迫されるような感覚があった。
匂いも、あった。
それは死の匂いでも、腐敗の匂いでもなかった。もっと根源的な、「無」の匂いだった。鉄を焼いたような、電気を帯びたような、それでいて何もないような。鼻腔が乾き、喘いでも欲しくなるような、空虚な匂い。
触覚も、狂っていた。
結晶に近づくほど、肌がヒリヒリと痺み出した。それは冷たさでも熱さでもない。存在そのものが否定されていく感覚。指先から徰々に消えていくような、輪郭がぼやけていくような、不快で恐ろしい感覚。服の繊維さえも重く感じられ、まるで鉄の鎖を纏っているかのようだった。
そして、味。
口の中に広がる金属質の味。血の味に似ているが、もっと無機質だ。まるで砂を噬んでいるかのような、ザラザラとした不快な感覚が口内に広がる。唠液さえも出なくなり、喉がカラカラに乾いていく。
結晶からは、「無」のオーラが放たれていた。
それは闇でも、冷気でも、瘴気でもない。ただ純粋な「無」。存在の否定。生命の否定。希望の否定。全ての否定。
目を凝らすと、結晶の内部に何かが脈打っているのが見えた。黒い心臓のように、ドクドクと脈打ち、虚無を世界に送り出している。そのリズムは不規則で、生命とは真逆の何かを感じさせた。
聖剣エクスカリバーが激しく震えた。警告なのか、恐怖なのか。金属が振動する高い音が、静寂を切り裂く。柄を握る手に、剣の恐怖が伝わってくる。伝説の聖剣でさえ、この結晶を恐れているのだ。
「ソフィア、分析できるか?」
ソフィアが魔力探知の術式を展開した。青白い光の紋様が空中に浮かび上がる。しかし次の瞬間、紋様が黒く染まり、砕け散った。
「だめです...これは...」彼女の顔が青ざめる。「物質の存在情報そのものが消失しています。原子も、分子も、魔力も、全てが『無かったこと』にされている」
マルコが震え声で言った。
「こんなの、どうやって戦えばいいんだ」
その時、村の端から微かな声が聞こえた。
「たす...けて...」
◆
声の主は、村の端の小屋で見つかった。
夫婦だった。互いの手をしっかりと握り合ったまま、床に倒れている。まだ息があるが、体の半分が透けていた。文字通り、存在が薄れている。
俺とエリーゼは急いで駆け寄り、調和浄化を試みた。二人の手を重ね、温かい光を注ぎ込む。愛の力を、希望の力を、存在を肯定する力を。
光が夫婦を包み込む。ゆっくりと、透けていた部分が実体を取り戻し始めた。
夫が目を開けた。焦点の定まらない瞳が、俺たちを見つめる。
「あなたたちは...」
「大丈夫です。俺たちは浄化士です」
妻も意識を取り戻した。彼女は涙を流しながら、震える声で語り始めた。
「三日前...空から降ってきたんです...あの黒い結晶が...」
夫が続ける。声は掠れ、今にも消えそうだ。
「最初に...子供たちが消えました...」
その言葉に、妻が嗚咽を漏らした。胸が締め付けられるような、深い悲しみが伝わってくる。
「朝起きたら...ベッドに黒い染みだけが...私たちの宝物が...」
俺は言葉を失った。エリーゼが妻の手を優しく握る。
「毎晩、誰かが消えていきました」夫が続けた。「でも不思議なことに...」
彼は妻を見つめた。その瞳に、深い愛情が宿っている。
「愛だけが『無』に抵抗できたんです。私たちが生き残れたのは、互いを想い続けたから。手を離さなかったから」
ソフィアが驚きの声を上げた。
「愛が...存在を繋ぎ止める錨になっている?」
「でも、もう限界でした」妻が弱々しく言った。「あと少しで、私たちも...」
俺は夫婦の顔を真っ直ぐ見つめた。
「グレンという商人を知っていますか?彼があなたたちのことを心配していました」
夫婦の表情が少し明るくなった。
「グレンが...あいつ、無事だったのか」
「ええ。そして言っていました。『愛の力はまだ死んでいない』と」
妻が再び涙を流した。今度は、希望の涙だった。
「村の人たちは...もう戻らないんですね」
俺は頷いた。嘘はつけない。
「でも、これ以上犠牲を出さないために、俺たちは戦います」
◆
黒い結晶への接近は、慎重に行われた。
三チーム連携での陣形を組む。Aチームが前衛、Bチームが中衛、Cチームが後衛。全員が一定の間隔を保ちながら、ゆっくりと進む。
結晶に近づくほど、虚無感が強まった。
それは絶望とも違う。諦めとも違う。ただ、何もかもがどうでもよくなる感覚。生きることも、死ぬことも、愛することも、憎むことも、全てが無意味に思えてくる。
「しっかりしろ!」リクが叫んだ。「これは精神攻撃だ!」
しかし、その影響を最も強く受けたのは、意外な人物だった。
「うっ...」
レオが突然苦しみ始めた。膝をつき、頭を抱える。純粋な心を持つが故に、虚無の影響を受けやすいのだろう。
「レオ!」
ローラが駆け寄り、回復魔法をかける。しかし効果は薄い。
「だめです...これは心の問題です」
俺とエリーゼは顔を見合わせ、頷いた。
「調和浄化で結晶に挑戦しよう」
二人で手を繋ぎ、黒い結晶に向かって歩み寄る。一歩、また一歩。足元から這い上がってくる虚無感と戦いながら。
結晶まであと五メートル。
聖剣エクスカリバーが、まるで悲鳴のような音を立てた。
「聖愛浄化・調和!」
俺たちの愛の力が、光となって結晶に向かって放たれた。温かく、優しく、全てを包み込む光。
光が結晶に触れた瞬間、世界が震えた。
結晶の表面に亀裂が走る。内部から微かな光が漏れ出す。成功か、と思った次の瞬間。
『世界は過ちだ』
声が、直接頭の中に響いた。男とも女ともつかない、老人とも子供ともつかない、あらゆる声が混ざり合った不協和音。
『存在することが罪』
『無に還るべき』
『全ては間違い』
結晶の亀裂から、どす黒い霧が噴出した。それは俺たちの浄化の光を押し返し、逆に侵食してくる。
「だめだ、撤退!」
俺は叫んだ。これ以上は危険だ。部分的な浄化には成功したが、核心部分は手付かずのままだ。
◆
夫婦を連れて、俺たちは一時撤退した。
村から十分に離れた場所に野営地を設営する。夜が更けても、誰も眠れなかった。焚き火を囲んで、作戦会議が続く。
「あの声は何だったんだろう」ミーナが考え込む。
「世界を否定する意思...」ソフィアが分析する。「もしかしたら、これは自然現象じゃない。誰かの、あるいは何かの意図的な攻撃かもしれません」
救出した夫婦は、ローラの手当てを受けて少しずつ回復していた。しかし、失った家族の悲しみは癒えない。
「『無』の正体について、仮説があります」ソフィアが口を開いた。「これは存在の否定、つまり世界の根源的なルールへの反逆です。もし愛が唯一の対抗手段なら...」
「愛こそが、存在を肯定する最も強い力ということか」カールが理解を示す。
俺は拳を握りしめた。
「もう一度挑戦する。今度は、もっと強い愛の力で」
エリーゼが俺の手を取った。
「二人なら、きっと」
その時、北の空を見上げたレオが震え声で言った。
「あ、あれ...何ですか、あれ!」
北の空に、黒い雲が広がっていた。いや、雲じゃない。それは虚無の霧だった。ゆっくりと、しかし確実に、世界を飲み込もうとしている。
結晶は、まだ成長している。
村を飲み込み、森を飲み込み、やがては国を、世界を飲み込むまで。
「明日、決着をつける」
俺は決意を新たにした。聖剣エクスカリバーが、微かに光を放つ。それは恐怖ではなく、決意の光だった。
仲間たちが頷く。恐怖はある。不安もある。
でも、それ以上に。
守りたいものがある。
愛する人が、仲間が、世界が。
「さあ、掃除の時間だ」
俺の言葉に、皆が力強く頷いた。
明日、俺たちは虚無と対峙する。
そして必ず、希望を取り戻してみせる。
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新しい世界では『魔宝殿』と呼ばれるダンジョンがあり、前世の世界ではいなかった魔獣、魔族、亜人などが存在し、ただの日雇い店員だった前世とは違い、ダンジョンへ仲間たちと挑んでいきます。
この物語は、記憶を引き継ぎ幼少期にタイムリープした主人公アレンが、自分の人生を都合のいい方へ改変しながら、最低最悪な未来を避け、全く新しい人生を手に入れていきます。
主人公最強系の魔法やスキルはありません。あくまでも前世の記憶と経験を頼りにアレンにとって都合のいい人生を手に入れる物語です。
※ ネタバレのため、2部が完結したらまた少し書きます。タイトルも2部の始まりに合わせて変えました。
バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します
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バーンズ伯爵家の長男マイルズは、完璧な容姿と神童と噂される知性を持っていた。だが彼には、誰にも言えない秘密があった。――前世が日本の「医師」だったという記憶だ。
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公衆衛生の確立を皮切りに、マイルズは領地に潜む様々な「病巣」――非効率な農業、停滞する経済、旧態依然としたインフラ――に気づいていく。
前世の知識を総動員し、10歳の少年が領地を豊かに変えていく。
これは、一人の転生貴族が挑む、本格・異世界領地改革(内政)ファンタジー。
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本作は、「小説家になろう」、「カクヨム」、にも投稿しております。
異世界転生おじさんは最強とハーレムを極める
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