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42. 王妃の呼び出し
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(うーん……。なかなか進まないこの距離……もどかしいわ……。いやでも、私とクリス様にしてはすごいことじゃない? 互いにあれほど接触を嫌悪していた夫婦が、今やベッドの上で、あ、あんなことしながら、一緒に眠って……。うん。やっぱりすごい。大丈夫。今さら焦ることはないわ。もう時間の問題よ)
初めての口づけを交わしてから数日後。私たち夫婦は久しぶりにルミロ第二王子と昼食を共にし、その後第三王子専用の居館にある夫婦の私室へと戻っていた。王宮の廊下を歩きながら、私は隣のクリス様をちらりと見上げる。
恐ろしく整ったその美しい横顔は、今は淡々としていて感情が読めない。あの日以来、私たちは毎夜同じように唇を触れ合わせ、愛を囁きながら、眠りについている。けれど、やっぱりどうしてもそれ以上先には進むことがなくて……。
私自身は、きっともう大丈夫だ。正直、クリス様の温もりを感じているその瞬間も、幸福感の隙間を縫って瞼の裏に父やジョゼフ様の姿がよぎる瞬間は、ある。けれど目を開ければ、そこには大好きな夫の顔があるのだ。耐えられないほどの苦痛じゃない。
だけどクリス様は、まだ踏み切るための最後の覚悟ができずにいるのだろう。
彼の抱えている苦しみを知った今だからこそ、とても急かす気になどなれない。
そんなことをぐるぐる考えていると、私の視線に気付いたのか、ふいにクリス様がこちらを見た。
「……疲れただろう。午前中いっぱい謁見をこなした後での、ルミロとの昼食会だったからな」
「いえ、とんでもございません。久しぶりにルミロ殿下とお話しできて楽しかったですわ。王立薬学研究所での日々は、充実していらっしゃるようでしたね」
「ああ。例の流行病に対する新薬の実験も随分進んでいるようだったな。目を輝かせて熱弁していた」
「本当ですね。ルミロ殿下は相変わらず勤勉でいらっしゃいます」
「そうだな。元気そうで安心した。最近ではギルフォード伯爵ともよく会っているようだったな。新薬の利用法などについて協議したり、伯爵の意見を聞いたりしているとか……」
そんなことを話しながら部屋に戻ると、ラーラたちがいそいそとお茶を淹れてくれた。今日はもう互いに諸雑務が若干残っている程度だから、少しくらいはゆっくりしてもいいだろう。
私とクリス様は温かい紅茶を飲みながら、二人きりのお喋りを楽しんでいた。
けれど、その束の間の憩いの時間は長くは続かなかった。
ユーディア王妃陛下の筆頭侍女が、応対を求めてきたのだ。王妃陛下の侍女は本当に突然やって来る。
ラーラに通すよう指示すると、私たちの前に現れた無愛想な侍女がクリス様に言った。
「王太子殿下、エヴァナ様のことで、王妃陛下がお呼びでございます」
「……俺を? エヴァナ嬢のこととは一体何だ。用件が分からなければ困るのだが」
穏やかな表情を消し去ったクリス様の眉間には、深い皺が刻まれた。王妃陛下の侍女はためらう様子もなく告げる。
「エヴァナ様に社会的活動の場を与える教育の一環として、新事業を始める計画があるようです。その資金に関わることで、王太子殿下に書類を確認していただきたいと。詳細は王妃陛下から直接お聞きくださいませ。妃陛下の元にはただ今、エヴァナ様もいらっしゃいます。政務官も呼びに行っているところです」
「……なぜ俺の確認が必要なんだ」
「私には分かりかねます。事業に対するご支援のお願いかもしれませんが。ともかく、あとは王妃陛下と直接お話しくださいませ」
……相変わらず無愛想を極めている。クリス様に対する不敬に近いその態度に、内心苛立ちが募った。
しばらくの間唇を引き結び思案していたクリス様は、やがて深いため息をついた。
「……すぐに戻ってくる」
そう言って渋々席を立つクリス様を見て、私も反射的に立ち上がっていた。
「私もご同行いたします、クリス様」
「畏れながら妃殿下、王妃陛下はあなた様のことはお呼びではございません。ご気分を害するやもしれませんので、一度王妃陛下のご確認を取らせていただきたく存じます」
王妃陛下の侍女が、間髪入れずに口を挟む。私は思わず彼女にきつい視線を向けてしまった。
「大丈夫だ、リア。次の予定まで、まだ時間があるだろう。待っていてくれ。用件だけ確認したらすぐに戻る」
私を安心させるように優しい笑みを向けてくださったクリス様を、それ以上引き留めることはできなかった。
「……お待ちしておりますね、クリス様。いってらっしゃいませ」
どうぞお気を付けて、とか、頑張ってくださいね! などと声をかけるわけにもいかない。王妃陛下の侍女が見ている。
部屋を出ていくクリス様の背中を、私は祈る思いで見送ったのだった。
初めての口づけを交わしてから数日後。私たち夫婦は久しぶりにルミロ第二王子と昼食を共にし、その後第三王子専用の居館にある夫婦の私室へと戻っていた。王宮の廊下を歩きながら、私は隣のクリス様をちらりと見上げる。
恐ろしく整ったその美しい横顔は、今は淡々としていて感情が読めない。あの日以来、私たちは毎夜同じように唇を触れ合わせ、愛を囁きながら、眠りについている。けれど、やっぱりどうしてもそれ以上先には進むことがなくて……。
私自身は、きっともう大丈夫だ。正直、クリス様の温もりを感じているその瞬間も、幸福感の隙間を縫って瞼の裏に父やジョゼフ様の姿がよぎる瞬間は、ある。けれど目を開ければ、そこには大好きな夫の顔があるのだ。耐えられないほどの苦痛じゃない。
だけどクリス様は、まだ踏み切るための最後の覚悟ができずにいるのだろう。
彼の抱えている苦しみを知った今だからこそ、とても急かす気になどなれない。
そんなことをぐるぐる考えていると、私の視線に気付いたのか、ふいにクリス様がこちらを見た。
「……疲れただろう。午前中いっぱい謁見をこなした後での、ルミロとの昼食会だったからな」
「いえ、とんでもございません。久しぶりにルミロ殿下とお話しできて楽しかったですわ。王立薬学研究所での日々は、充実していらっしゃるようでしたね」
「ああ。例の流行病に対する新薬の実験も随分進んでいるようだったな。目を輝かせて熱弁していた」
「本当ですね。ルミロ殿下は相変わらず勤勉でいらっしゃいます」
「そうだな。元気そうで安心した。最近ではギルフォード伯爵ともよく会っているようだったな。新薬の利用法などについて協議したり、伯爵の意見を聞いたりしているとか……」
そんなことを話しながら部屋に戻ると、ラーラたちがいそいそとお茶を淹れてくれた。今日はもう互いに諸雑務が若干残っている程度だから、少しくらいはゆっくりしてもいいだろう。
私とクリス様は温かい紅茶を飲みながら、二人きりのお喋りを楽しんでいた。
けれど、その束の間の憩いの時間は長くは続かなかった。
ユーディア王妃陛下の筆頭侍女が、応対を求めてきたのだ。王妃陛下の侍女は本当に突然やって来る。
ラーラに通すよう指示すると、私たちの前に現れた無愛想な侍女がクリス様に言った。
「王太子殿下、エヴァナ様のことで、王妃陛下がお呼びでございます」
「……俺を? エヴァナ嬢のこととは一体何だ。用件が分からなければ困るのだが」
穏やかな表情を消し去ったクリス様の眉間には、深い皺が刻まれた。王妃陛下の侍女はためらう様子もなく告げる。
「エヴァナ様に社会的活動の場を与える教育の一環として、新事業を始める計画があるようです。その資金に関わることで、王太子殿下に書類を確認していただきたいと。詳細は王妃陛下から直接お聞きくださいませ。妃陛下の元にはただ今、エヴァナ様もいらっしゃいます。政務官も呼びに行っているところです」
「……なぜ俺の確認が必要なんだ」
「私には分かりかねます。事業に対するご支援のお願いかもしれませんが。ともかく、あとは王妃陛下と直接お話しくださいませ」
……相変わらず無愛想を極めている。クリス様に対する不敬に近いその態度に、内心苛立ちが募った。
しばらくの間唇を引き結び思案していたクリス様は、やがて深いため息をついた。
「……すぐに戻ってくる」
そう言って渋々席を立つクリス様を見て、私も反射的に立ち上がっていた。
「私もご同行いたします、クリス様」
「畏れながら妃殿下、王妃陛下はあなた様のことはお呼びではございません。ご気分を害するやもしれませんので、一度王妃陛下のご確認を取らせていただきたく存じます」
王妃陛下の侍女が、間髪入れずに口を挟む。私は思わず彼女にきつい視線を向けてしまった。
「大丈夫だ、リア。次の予定まで、まだ時間があるだろう。待っていてくれ。用件だけ確認したらすぐに戻る」
私を安心させるように優しい笑みを向けてくださったクリス様を、それ以上引き留めることはできなかった。
「……お待ちしておりますね、クリス様。いってらっしゃいませ」
どうぞお気を付けて、とか、頑張ってくださいね! などと声をかけるわけにもいかない。王妃陛下の侍女が見ている。
部屋を出ていくクリス様の背中を、私は祈る思いで見送ったのだった。
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