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43. 彼女となら(※sideクリストファー)
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「いってらっしゃいませ」
気遣わしげにそう送り出してくれたフローリアの瞳は少し不安そうで、その優しさに心が軽くなる気がした。
全く気が進まなかったが、王妃直々の呼び出しともなると、よほどのことがない限り無下にはできない。自分の護衛や従者たちを引き連れ、王妃付きの侍女の後ろを歩きながら、俺はひそかにため息をついた。
(せっかくのリアとの憩いのひとときだったのに。よりにもよって一番嫌な邪魔が入ったな)
歩きながら、最近ようやく夫婦らしい触れ合いができるようになってきた愛しい妻の顔を思い浮かべ、気を紛らわせる。まさかこの俺が、一人の女性に対してこんなにも熱い想いを抱く日が来るとは。十三歳のあの時以来、心を支配する恐怖と嫌悪感に振り回され、女性が視界に入ることさえ嫌な時期もあった。社交場に出るたびに、若い令嬢たちから夫人らに至るまで、大勢の女がこの俺を下卑た目で見てくる。うっとりと蕩けたようなおぞましい視線。何かを俺に期待するような、欲望を隠しきれない眼差し。媚びた甘言の数々。
全てがあの時の王妃を思い起こさせ、疎ましくてならなかった。
あの日、ジョゼフの生誕祭の夜。ファーストダンスを踊るために、フロアの中央で婚約者に手を差し出す奴のことを、俺は冷めた目で見ていた。幼い頃から俺を軽んじ、隙あらば意地の悪い言葉を投げつけ暴力を振るってきたジョゼフ。そのくせ自分は大した努力もしないまま成長し、知識も判断力も乏しい、頭の鈍い王太子になった。俺は奴を軽蔑していたし、大嫌いだったのだ。
けれど音楽が流れ出しても、ジョゼフの婚約者である公爵令嬢は一向に奴の手を取る気配がない。不審に思い令嬢の顔を見ると、彼女は強張った表情でジョゼフの手を凝視していた。
その様子をしばらく観察した俺は、直感した。俺が女性に対して抱くのと同じ類いの嫌悪感を、彼女も奴に対して持っているのではないかと。元々、彼女──フローリア・バークリーは、ジョゼフに対して一線を引いているように感じていた。心を許してはいないし、おそらくあまり好意を持ってはいない。奴と並んでいるこれまでの姿や、共に踊っている時の表情などにも、そう悟らせる気配があった。俺だから感じ取ったのかもしれない。
だがバークリー公爵令嬢が極めて優秀な人物であることは間違いない。腹を立てたあの馬鹿がその場で婚約破棄を言い渡した時、俺はすかさず口を出した。ではそちらの令嬢は、俺が貰い受けると。そして我々は、秘密の契約を交わした。
(今にして思えば、あの判断は正解だった。ジョゼフの失脚は想定内だったが、まさかルミロまであんなことになってしまうとは、あの時は思っていなかったが。突然王太子に任命された時、隣にいてくれたのがリアで本当に良かった。あの時俺がまだ独り身だったら、問答無用ですぐさま婚約者を充てがわれただろう。他の女との間に子を成す義務などできてしまったら、俺は耐えられなかった)
彼女とだから、同じ速度で歩いてこられた。
俺の事情を知らない頃から、リアは俺を急かすことなく黙って見守ってくれていた。
もちろん、彼女自身にトラウマがあり前に進めなかったことも理由の一つだろうが、それを差し引いても俺の方がはるかに臆病だった。
日々の公務や勉強に対するリアのひたむきさ、辛い記憶を抱えていてもなお前を向いて歩いていこうとする、あの明るさ。
俺はもう、リアの全てに心を奪われている。
彼女とならきっと大丈夫だ。
ようやくそう思えるところまで来た。
それに、愛する女性とベッドを共にしていて体の火照りを感じないほど、俺自身に欲がないわけじゃない。男としての本能はある。
リアに触れたい欲求と、触れることに対する抵抗。その均衡が大きく傾きかけ、毎夜俺は心の中で悶えていた。
リアのことを考えているうちに、いつの間にか王妃の私室の近くまで来ていた。そのことに気付き、鳥肌が立つ。ここはこの王宮の中で、俺が最も足を踏み入れたくない場所だ。嫌でもあの頃を思い出す。俺はここで、この部屋の中で、男としての尊厳を奪われた。
「……なぜ妃陛下の私室なのだ。新事業計画や資金に関する話なら、別に執務室でも謁見室でもよかっただろう」
前を歩く王妃の筆頭侍女の背中に、そう投げかける。王妃がここに呼んでいるのだから、今さら部屋を変更しろと言ったところでどうにもならない。分かってはいても足が重くなり、俺は駄々をこねる子どものように抵抗した。
「私は王妃陛下のご指示に従い、殿下をお連れしたまでですので。後はどうぞ、王妃陛下とお話しくださいませ」
案の定、侍女は突き放すようにそう言う。立っていた護衛たちが、王妃の部屋の扉を開けた。
気遣わしげにそう送り出してくれたフローリアの瞳は少し不安そうで、その優しさに心が軽くなる気がした。
全く気が進まなかったが、王妃直々の呼び出しともなると、よほどのことがない限り無下にはできない。自分の護衛や従者たちを引き連れ、王妃付きの侍女の後ろを歩きながら、俺はひそかにため息をついた。
(せっかくのリアとの憩いのひとときだったのに。よりにもよって一番嫌な邪魔が入ったな)
歩きながら、最近ようやく夫婦らしい触れ合いができるようになってきた愛しい妻の顔を思い浮かべ、気を紛らわせる。まさかこの俺が、一人の女性に対してこんなにも熱い想いを抱く日が来るとは。十三歳のあの時以来、心を支配する恐怖と嫌悪感に振り回され、女性が視界に入ることさえ嫌な時期もあった。社交場に出るたびに、若い令嬢たちから夫人らに至るまで、大勢の女がこの俺を下卑た目で見てくる。うっとりと蕩けたようなおぞましい視線。何かを俺に期待するような、欲望を隠しきれない眼差し。媚びた甘言の数々。
全てがあの時の王妃を思い起こさせ、疎ましくてならなかった。
あの日、ジョゼフの生誕祭の夜。ファーストダンスを踊るために、フロアの中央で婚約者に手を差し出す奴のことを、俺は冷めた目で見ていた。幼い頃から俺を軽んじ、隙あらば意地の悪い言葉を投げつけ暴力を振るってきたジョゼフ。そのくせ自分は大した努力もしないまま成長し、知識も判断力も乏しい、頭の鈍い王太子になった。俺は奴を軽蔑していたし、大嫌いだったのだ。
けれど音楽が流れ出しても、ジョゼフの婚約者である公爵令嬢は一向に奴の手を取る気配がない。不審に思い令嬢の顔を見ると、彼女は強張った表情でジョゼフの手を凝視していた。
その様子をしばらく観察した俺は、直感した。俺が女性に対して抱くのと同じ類いの嫌悪感を、彼女も奴に対して持っているのではないかと。元々、彼女──フローリア・バークリーは、ジョゼフに対して一線を引いているように感じていた。心を許してはいないし、おそらくあまり好意を持ってはいない。奴と並んでいるこれまでの姿や、共に踊っている時の表情などにも、そう悟らせる気配があった。俺だから感じ取ったのかもしれない。
だがバークリー公爵令嬢が極めて優秀な人物であることは間違いない。腹を立てたあの馬鹿がその場で婚約破棄を言い渡した時、俺はすかさず口を出した。ではそちらの令嬢は、俺が貰い受けると。そして我々は、秘密の契約を交わした。
(今にして思えば、あの判断は正解だった。ジョゼフの失脚は想定内だったが、まさかルミロまであんなことになってしまうとは、あの時は思っていなかったが。突然王太子に任命された時、隣にいてくれたのがリアで本当に良かった。あの時俺がまだ独り身だったら、問答無用ですぐさま婚約者を充てがわれただろう。他の女との間に子を成す義務などできてしまったら、俺は耐えられなかった)
彼女とだから、同じ速度で歩いてこられた。
俺の事情を知らない頃から、リアは俺を急かすことなく黙って見守ってくれていた。
もちろん、彼女自身にトラウマがあり前に進めなかったことも理由の一つだろうが、それを差し引いても俺の方がはるかに臆病だった。
日々の公務や勉強に対するリアのひたむきさ、辛い記憶を抱えていてもなお前を向いて歩いていこうとする、あの明るさ。
俺はもう、リアの全てに心を奪われている。
彼女とならきっと大丈夫だ。
ようやくそう思えるところまで来た。
それに、愛する女性とベッドを共にしていて体の火照りを感じないほど、俺自身に欲がないわけじゃない。男としての本能はある。
リアに触れたい欲求と、触れることに対する抵抗。その均衡が大きく傾きかけ、毎夜俺は心の中で悶えていた。
リアのことを考えているうちに、いつの間にか王妃の私室の近くまで来ていた。そのことに気付き、鳥肌が立つ。ここはこの王宮の中で、俺が最も足を踏み入れたくない場所だ。嫌でもあの頃を思い出す。俺はここで、この部屋の中で、男としての尊厳を奪われた。
「……なぜ妃陛下の私室なのだ。新事業計画や資金に関する話なら、別に執務室でも謁見室でもよかっただろう」
前を歩く王妃の筆頭侍女の背中に、そう投げかける。王妃がここに呼んでいるのだから、今さら部屋を変更しろと言ったところでどうにもならない。分かってはいても足が重くなり、俺は駄々をこねる子どものように抵抗した。
「私は王妃陛下のご指示に従い、殿下をお連れしたまでですので。後はどうぞ、王妃陛下とお話しくださいませ」
案の定、侍女は突き放すようにそう言う。立っていた護衛たちが、王妃の部屋の扉を開けた。
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