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44. 理性(※sideクリストファー)
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私室に入ると、そこには聞いていた通り王妃とエヴァナ嬢がいた。それに、王妃の侍女が一人。筆頭侍女を入れても二人だ。やけに少ないな、とは思った。政務官もいない。王妃の差し向かいに座っていたエヴァナ嬢は、俺が現れた途端立ち上がった。
鼻につく甘ったるい香の匂いが、ここが女の部屋だということを否応なしに俺の脳に叩き込んでくる。虫が這い上がってくるような嫌悪感が、背筋を走った。
「ようやくいらしたのね、クリストファー殿下」
濃緑色のドレスをまとい、ソファーにゆったりと腰かけている王妃が、真っ赤な唇を妖艶に歪ませ微笑む。その表情を見るだけで寒気がした。
「……お呼びとのことで伺いましたが、午後からも公務が入っております。事前の約束もなしにお招きいただいては困るのですが。手短にお願いします」
無理に気持ちを奮い立たせる俺の口から、ひどく冷たい言葉が漏れた。王妃はまるで俺の心を見透かすように、ねっとりと笑う。
「あら、午後は大した公務はないでしょう。それくらい確認してあるわ。ふふ」
嘲笑うようにそう言うと、王妃は続けた。
「侍女が伝えたかしら? このエヴァナさんにね、社会的役割を与え、学びの機会を差し上げたいのよ。まだお若いお嬢さんが、ジョゼフと共にあんな片田舎の辺境で生涯を終えるだけではあまりにも不憫でしょう? お話しをしているとね、エヴァナさんにはなかなか利発なところがあるの。私の主導で、恵まれない子どもたちに様々な技術を教える学院を設立しようと計画しているのだけど、彼女にもそこで新たな道を示して差し上げたいの。ね? エヴァナさん」
同意を求められたエヴァナ嬢が「はいっ、王妃陛下」とにこやかに頷く。
(勝手にすればいいだろう)
そう答えて踵を返したくなる。
「……どうぞ、ご自由になさるといいでしょう。なぜわざわざこの話を俺に? 聞く限り、俺の出る幕はなさそうですが」
「あなたにもご意見を伺いたいし、あなたが関わってくだされば、この新事業にも説得力が増すでしょう? ほら、私の息子たちにはもう難しいから。一人は失脚して王都を去ってしまった身だし、もう一人は薬学研究で忙しいようだし。他ならぬ王太子殿下の後押しがあれば、話もスムーズに進みましてよ」
妙に嫌味っぽい言い方で、王妃は俺にそう語る。エヴァナ嬢は目を爛々と輝かせ、両手を胸の前で組み俺に向き直る。
「どうぞよろしくお願いいたします、クリストファー王太子殿下。あたしも新事業についていくつか意見がございますの。聞いていただけますぅ?」
鼻にかかったねちっこい喋り方に腹が立ち、俺は彼女を見定め冷たく言った。
「……あなたのおかげで、俺の妻がひどい目に遭った。先日の庭園での出来事はもうすっかりお忘れか。事業うんぬんより、まずは先に何か一言あってもいいんじゃないのか」
「あ……っ、それは……、ええ。ごめんなさい。あの時も言ったけど、別にわざとじゃ」
怯んだエヴァナ嬢は王妃の方をちらちらと見ながら言い訳めいた謝罪を口にする。が、王妃は救いを求める彼女を完全に無視した。
「あなたたち、外しなさい。これから詰める事業の件は内々で話すわ」
王妃はそう言うと、自分の侍女たちに顎先で指示し、退室を命じた。俺の従者や護衛たちにも、同様の視線を向ける。
こちらの顔を窺う従者に、俺は渋々頷いてみせた。
全員が扉の外に出ると、部屋の中には王妃とエヴァナ嬢、俺の三人だけが残った。
「……で、どこにあるのですか、その事業計画書は」
俺が急かすと、王妃がゆっくりと立ち上がった。
「ええ。お持ちするわね。……大丈夫? クリストファー殿下。何だかさっきから、お顔の色が悪い気がするわ」
「……お構いなく。慣れない部屋の匂いに落ち着かないだけです」
目を背けてそう答えると、王妃が楽しげな口調で言う。
「あらあら、ふふ。相変わらず可愛らしいところがおありになるのね。繊細なんだから。……お香は苦手? 消してしまいましょうね」
王妃は香炉の前に歩み寄ると、優雅な仕草で手を翳し、くゆっていた香を消した。そして引き出しから小さな銀の容器を取り出し、新たな香を香炉にセットする。
さっきまでの甘ったるい香りが薄れ、代わりに薬草じみた、乾いた香気が部屋を包みはじめた。
「待っていてちょうだい。取ってくるわね」
そう言うと、王妃は扉続きの奥の寝室へと消えていった。扉が開いた瞬間、俺はすばやく目を背ける。その奥にあるベッドを、一瞬でも見たくなかった。扉が開いただけで動悸が激しくなる。
それからしばらく時間が経ったが、王妃が奥から戻ってくる気配はない。
「大丈夫ですの? クリストファー殿下ぁ」
「……構うな」
媚びたように話しかけてくるエヴァナ嬢を、思わず鋭い声で拒絶した。……なんだか変な感覚だ。体が妙に重い。この部屋と王妃への強い抵抗感のせいだろうか。
「うふふっ。どうぞリラックスなさって。さ、お座りくださいませ。立ったままではお話しもできませんわぁ。……ね、殿下。殿下って本当に素敵ですわ。実を言うとね、あたし、ジョゼフ様よりクリストファー殿下の方がずっと魅力的だと思っていましたのよ。だって殿下って、すっごく美形なんですものぉ! そのお顔、いつまででも見つめていたくなっちゃう。もちろん、こんなこと他の人の前では決して口には出せませんけどね。ふふ。せっかく二人っきりになっちゃったから、内緒の告白ですわ」
……二人きり。そうだ。王妃が戻ってくるまで、俺はこの下品な令嬢とこの部屋に二人きりなわけだ。そう思うとますます不快感が増す。……一体何をしているんだ王妃は。書類くらいさっさと取ってこい。
(……クソ。何だこの倦怠感は……。さっきまでこんなに怠くはなかったのに……)
急激に体の重みを感じ、脳裏に警鐘が鳴りはじめる。……おかしい。普通の感覚じゃない。
エヴァナ嬢の甲高い声が、耳の奥にぞくりと響く。
「ほらぁ、殿下。こちらですわ。あたしのそばにお座りくださいませ。事業のこと、よく聞いてくださいませね。殿下が見守ってくだされば、あたしも心強いですわ。慣れないことばかりですけど、頑張りますから。ね?」
やはりおかしい。突然視界が大きく揺れはじめ、全身の感覚が鈍くなってきた。
「……誰か、」
俺は護衛を呼ぼうと、廊下に続く扉の方を向いて声を上げる。
だが。
「あんっ! ダメですわ殿下。王妃陛下が仰っていたでしょ? 今からするお話は機密事項ですわ。まだ誰も呼んじゃだーめ」
エヴァナ嬢のその声は、どこか遠くにいる小さな妖精の誘惑のように聞こえた。そんな風に感じる自分が信じられず愕然とする。冗談じゃない。こんな女のどこが妖精だ。
(一旦この部屋から離れねば……)
どう考えても普通じゃない。何か盛られたか……? だが、茶の一口さえ飲んではいない。一体何だ。頭が回らない。
ふいに、誰かの手が突然俺の手首を摑んだ。
「う……っ!」
その瞬間、触れられた部分から背筋までを甘美な感覚が走り抜け、思わず声が漏れる。すぐそばで女の声がした。
「あらあら、殿下ぁ。具合が悪そうですわ。ほら、ね? どうぞここにお座りになって? それとも……もっとゆっくりなさりたいかしら」
信じられない。エヴァナだ。なぜこの女に触れられて、俺の体は悦びのようなものを感じるんだ。そう自覚した途端、甘い痺れ以上のとてつもない嫌悪感が湧き上がり、俺はその手を振り払った。
「さわ……るな……!」
すでに視界は全く定まらず、女の顔さえはっきりとは見えない。周囲が絶え間なくグルグルと回転しているようだ。マズい。すぐにここを離れなければ。
(……リア……)
ふいに愛おしい妻の笑顔が、脳裏に浮かぶ。彼女に会いたい。一刻も早くここを去り、リアの元へ戻りたい。
「ええ、大丈夫ですわ。こちらです」
……こっちか。リアはこっちにいるのか。
「ほら、あと数歩ですわ、殿下。頑張って。あたしがすぐに楽にして差し上げますわぁ」
……なぜ殿下などと。いつものように、俺をクリスと呼んでくれ。
その呼び方を許した女性は、君だけだ。
ふいに、背中に衝撃を感じた。宙に浮くような感覚の直後、俺の全身は柔らかな何かの上に投げ出された。
(……?)
全身の力が抜け朦朧とする中、俺の体は強引に仰向けにされた。うっすらと目を開けると、俺の上に誰かがいる。……リア……?
しばらくぼんやりと見つめていたが、その女を認識した途端、俺の心臓が強く脈打った。
自分が横たわっていること、そして自分の上に乗り、下卑た笑みを浮かべているのがエヴァナであることに気付き、全身からどっと冷や汗が出る。
「……どけ! この、無礼者が……!」
「あらあら。まだそんな元気がおありなの? さすがに鍛えられてきた王子だけのことはあるわね。でも……ふふ。いつまで持つかしら。あなたは今、彼女を激しく求めているのではなくて? 正直におなりなさいな」
「────っ!」
いつの間にか寝かされたベッドの上で、最も聞きたくない声。またも揺れはじめた視界の中で必死に意識を繋ぎ止めながら、俺は視線を巡らせた。
ベッドの奥に、濃緑色の塊が見える。……王妃だ。視界が定まった瞬間、真っ赤な唇の端を吊り上げこちらを見ている王妃の姿をとらえた。
「ふふ……。お若いわね、クリストファー殿下ったら。まさか新事業の計画について話し合うために呼び出した私の私室で、私が席を外した隙にエヴァナさんに手を出すだなんて。フローリア妃殿下が知ったら、さぞ驚かれることでしょうね」
「……何を……! 止めろ……!」
駄目だ。もう体に全く力が入らない。
抵抗したいのに、全身がどんどん重くなる。もう口を開くのさえ辛い。それなのに、何だこのおぞましい感覚は。神経だけが過敏になっていく。俺の上にいるエヴァナが少し動くたびに揺れる空気さえ、指先で肌をふわりとなぞられているようだ。シーツやドレスが擦れる音が、耳の奥から全身に伝わり、意志に反して腰が跳ねる。首筋にじわりと汗が滲んだ。息が上がる。
「うふふ。可愛いわ、殿下。……大丈夫。王妃陛下が上手く取り計らってくださるから。三人だけの秘密ね。ジョゼフ様には、王妃陛下が後で上手く言って穏便に離縁させてくださるわ。心配しないで。あたし側妃でいいのよ。……可愛がってね、妃殿下よりも」
「……く……っ!」
耳元でベラベラと喋る女の吐息に、頭がおかしくなりそうだ。リアの顔を思い浮かべ必死で理性を繋ごうとする俺の耳に、王妃の満足げな声が響く。
「堪能なさったらいいわ、クリストファー。私の目を楽しませてね」
鼻につく甘ったるい香の匂いが、ここが女の部屋だということを否応なしに俺の脳に叩き込んでくる。虫が這い上がってくるような嫌悪感が、背筋を走った。
「ようやくいらしたのね、クリストファー殿下」
濃緑色のドレスをまとい、ソファーにゆったりと腰かけている王妃が、真っ赤な唇を妖艶に歪ませ微笑む。その表情を見るだけで寒気がした。
「……お呼びとのことで伺いましたが、午後からも公務が入っております。事前の約束もなしにお招きいただいては困るのですが。手短にお願いします」
無理に気持ちを奮い立たせる俺の口から、ひどく冷たい言葉が漏れた。王妃はまるで俺の心を見透かすように、ねっとりと笑う。
「あら、午後は大した公務はないでしょう。それくらい確認してあるわ。ふふ」
嘲笑うようにそう言うと、王妃は続けた。
「侍女が伝えたかしら? このエヴァナさんにね、社会的役割を与え、学びの機会を差し上げたいのよ。まだお若いお嬢さんが、ジョゼフと共にあんな片田舎の辺境で生涯を終えるだけではあまりにも不憫でしょう? お話しをしているとね、エヴァナさんにはなかなか利発なところがあるの。私の主導で、恵まれない子どもたちに様々な技術を教える学院を設立しようと計画しているのだけど、彼女にもそこで新たな道を示して差し上げたいの。ね? エヴァナさん」
同意を求められたエヴァナ嬢が「はいっ、王妃陛下」とにこやかに頷く。
(勝手にすればいいだろう)
そう答えて踵を返したくなる。
「……どうぞ、ご自由になさるといいでしょう。なぜわざわざこの話を俺に? 聞く限り、俺の出る幕はなさそうですが」
「あなたにもご意見を伺いたいし、あなたが関わってくだされば、この新事業にも説得力が増すでしょう? ほら、私の息子たちにはもう難しいから。一人は失脚して王都を去ってしまった身だし、もう一人は薬学研究で忙しいようだし。他ならぬ王太子殿下の後押しがあれば、話もスムーズに進みましてよ」
妙に嫌味っぽい言い方で、王妃は俺にそう語る。エヴァナ嬢は目を爛々と輝かせ、両手を胸の前で組み俺に向き直る。
「どうぞよろしくお願いいたします、クリストファー王太子殿下。あたしも新事業についていくつか意見がございますの。聞いていただけますぅ?」
鼻にかかったねちっこい喋り方に腹が立ち、俺は彼女を見定め冷たく言った。
「……あなたのおかげで、俺の妻がひどい目に遭った。先日の庭園での出来事はもうすっかりお忘れか。事業うんぬんより、まずは先に何か一言あってもいいんじゃないのか」
「あ……っ、それは……、ええ。ごめんなさい。あの時も言ったけど、別にわざとじゃ」
怯んだエヴァナ嬢は王妃の方をちらちらと見ながら言い訳めいた謝罪を口にする。が、王妃は救いを求める彼女を完全に無視した。
「あなたたち、外しなさい。これから詰める事業の件は内々で話すわ」
王妃はそう言うと、自分の侍女たちに顎先で指示し、退室を命じた。俺の従者や護衛たちにも、同様の視線を向ける。
こちらの顔を窺う従者に、俺は渋々頷いてみせた。
全員が扉の外に出ると、部屋の中には王妃とエヴァナ嬢、俺の三人だけが残った。
「……で、どこにあるのですか、その事業計画書は」
俺が急かすと、王妃がゆっくりと立ち上がった。
「ええ。お持ちするわね。……大丈夫? クリストファー殿下。何だかさっきから、お顔の色が悪い気がするわ」
「……お構いなく。慣れない部屋の匂いに落ち着かないだけです」
目を背けてそう答えると、王妃が楽しげな口調で言う。
「あらあら、ふふ。相変わらず可愛らしいところがおありになるのね。繊細なんだから。……お香は苦手? 消してしまいましょうね」
王妃は香炉の前に歩み寄ると、優雅な仕草で手を翳し、くゆっていた香を消した。そして引き出しから小さな銀の容器を取り出し、新たな香を香炉にセットする。
さっきまでの甘ったるい香りが薄れ、代わりに薬草じみた、乾いた香気が部屋を包みはじめた。
「待っていてちょうだい。取ってくるわね」
そう言うと、王妃は扉続きの奥の寝室へと消えていった。扉が開いた瞬間、俺はすばやく目を背ける。その奥にあるベッドを、一瞬でも見たくなかった。扉が開いただけで動悸が激しくなる。
それからしばらく時間が経ったが、王妃が奥から戻ってくる気配はない。
「大丈夫ですの? クリストファー殿下ぁ」
「……構うな」
媚びたように話しかけてくるエヴァナ嬢を、思わず鋭い声で拒絶した。……なんだか変な感覚だ。体が妙に重い。この部屋と王妃への強い抵抗感のせいだろうか。
「うふふっ。どうぞリラックスなさって。さ、お座りくださいませ。立ったままではお話しもできませんわぁ。……ね、殿下。殿下って本当に素敵ですわ。実を言うとね、あたし、ジョゼフ様よりクリストファー殿下の方がずっと魅力的だと思っていましたのよ。だって殿下って、すっごく美形なんですものぉ! そのお顔、いつまででも見つめていたくなっちゃう。もちろん、こんなこと他の人の前では決して口には出せませんけどね。ふふ。せっかく二人っきりになっちゃったから、内緒の告白ですわ」
……二人きり。そうだ。王妃が戻ってくるまで、俺はこの下品な令嬢とこの部屋に二人きりなわけだ。そう思うとますます不快感が増す。……一体何をしているんだ王妃は。書類くらいさっさと取ってこい。
(……クソ。何だこの倦怠感は……。さっきまでこんなに怠くはなかったのに……)
急激に体の重みを感じ、脳裏に警鐘が鳴りはじめる。……おかしい。普通の感覚じゃない。
エヴァナ嬢の甲高い声が、耳の奥にぞくりと響く。
「ほらぁ、殿下。こちらですわ。あたしのそばにお座りくださいませ。事業のこと、よく聞いてくださいませね。殿下が見守ってくだされば、あたしも心強いですわ。慣れないことばかりですけど、頑張りますから。ね?」
やはりおかしい。突然視界が大きく揺れはじめ、全身の感覚が鈍くなってきた。
「……誰か、」
俺は護衛を呼ぼうと、廊下に続く扉の方を向いて声を上げる。
だが。
「あんっ! ダメですわ殿下。王妃陛下が仰っていたでしょ? 今からするお話は機密事項ですわ。まだ誰も呼んじゃだーめ」
エヴァナ嬢のその声は、どこか遠くにいる小さな妖精の誘惑のように聞こえた。そんな風に感じる自分が信じられず愕然とする。冗談じゃない。こんな女のどこが妖精だ。
(一旦この部屋から離れねば……)
どう考えても普通じゃない。何か盛られたか……? だが、茶の一口さえ飲んではいない。一体何だ。頭が回らない。
ふいに、誰かの手が突然俺の手首を摑んだ。
「う……っ!」
その瞬間、触れられた部分から背筋までを甘美な感覚が走り抜け、思わず声が漏れる。すぐそばで女の声がした。
「あらあら、殿下ぁ。具合が悪そうですわ。ほら、ね? どうぞここにお座りになって? それとも……もっとゆっくりなさりたいかしら」
信じられない。エヴァナだ。なぜこの女に触れられて、俺の体は悦びのようなものを感じるんだ。そう自覚した途端、甘い痺れ以上のとてつもない嫌悪感が湧き上がり、俺はその手を振り払った。
「さわ……るな……!」
すでに視界は全く定まらず、女の顔さえはっきりとは見えない。周囲が絶え間なくグルグルと回転しているようだ。マズい。すぐにここを離れなければ。
(……リア……)
ふいに愛おしい妻の笑顔が、脳裏に浮かぶ。彼女に会いたい。一刻も早くここを去り、リアの元へ戻りたい。
「ええ、大丈夫ですわ。こちらです」
……こっちか。リアはこっちにいるのか。
「ほら、あと数歩ですわ、殿下。頑張って。あたしがすぐに楽にして差し上げますわぁ」
……なぜ殿下などと。いつものように、俺をクリスと呼んでくれ。
その呼び方を許した女性は、君だけだ。
ふいに、背中に衝撃を感じた。宙に浮くような感覚の直後、俺の全身は柔らかな何かの上に投げ出された。
(……?)
全身の力が抜け朦朧とする中、俺の体は強引に仰向けにされた。うっすらと目を開けると、俺の上に誰かがいる。……リア……?
しばらくぼんやりと見つめていたが、その女を認識した途端、俺の心臓が強く脈打った。
自分が横たわっていること、そして自分の上に乗り、下卑た笑みを浮かべているのがエヴァナであることに気付き、全身からどっと冷や汗が出る。
「……どけ! この、無礼者が……!」
「あらあら。まだそんな元気がおありなの? さすがに鍛えられてきた王子だけのことはあるわね。でも……ふふ。いつまで持つかしら。あなたは今、彼女を激しく求めているのではなくて? 正直におなりなさいな」
「────っ!」
いつの間にか寝かされたベッドの上で、最も聞きたくない声。またも揺れはじめた視界の中で必死に意識を繋ぎ止めながら、俺は視線を巡らせた。
ベッドの奥に、濃緑色の塊が見える。……王妃だ。視界が定まった瞬間、真っ赤な唇の端を吊り上げこちらを見ている王妃の姿をとらえた。
「ふふ……。お若いわね、クリストファー殿下ったら。まさか新事業の計画について話し合うために呼び出した私の私室で、私が席を外した隙にエヴァナさんに手を出すだなんて。フローリア妃殿下が知ったら、さぞ驚かれることでしょうね」
「……何を……! 止めろ……!」
駄目だ。もう体に全く力が入らない。
抵抗したいのに、全身がどんどん重くなる。もう口を開くのさえ辛い。それなのに、何だこのおぞましい感覚は。神経だけが過敏になっていく。俺の上にいるエヴァナが少し動くたびに揺れる空気さえ、指先で肌をふわりとなぞられているようだ。シーツやドレスが擦れる音が、耳の奥から全身に伝わり、意志に反して腰が跳ねる。首筋にじわりと汗が滲んだ。息が上がる。
「うふふ。可愛いわ、殿下。……大丈夫。王妃陛下が上手く取り計らってくださるから。三人だけの秘密ね。ジョゼフ様には、王妃陛下が後で上手く言って穏便に離縁させてくださるわ。心配しないで。あたし側妃でいいのよ。……可愛がってね、妃殿下よりも」
「……く……っ!」
耳元でベラベラと喋る女の吐息に、頭がおかしくなりそうだ。リアの顔を思い浮かべ必死で理性を繋ごうとする俺の耳に、王妃の満足げな声が響く。
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