あなたのお気に召すままに

舞々

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第一章 僕たちの始まり

僕たちの始まり⑤

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「おい、水瀬葵。久しぶりだな。元気そうじゃん?」
「え?」
「ってかお前さ、なんで辞めるなんて言ってんだよ。せっかく苦労して医者になったんだろう? それとも、お前根性ねぇの?」 
「っ……成、宮先生……」


 ふと顔を上げると、スクラブを着た成宮先生が立っていた。こんな遅くまで緊急手術でもしていたのだろうか。少しだけ疲れた顔をしていた。


 ずっと会いたかった人が目の前いる。


 俺は、この人を追いかけて医者になったんだ。成宮先生は、俺の夢そのもの。「立派になったな」そう言ってもらえるまで、会いに行くのは止めよう……そう心に決めていたのに。こんな時に再会してしまうなんて。


「……先生……」


 退院してから初めて成宮先生に会えた俺の胸は、高校一年生だった頃の記憶が走馬灯のように駆け巡り、心が熱く震える。「ずっとお会いしたかったです」と言いたいのに、言葉にすることができない。
 だって、今の俺にはそんなことを言う資格なんてないって思えてしまったから。


 成宮先生と再会できたら、お礼だって言いたかったし、話したいことだってたくさんあった。そんな日を夢見て、今日まで頑張ってこられたんだ。それなのに、なんて情けないんだろう。


 心配そうに俺を見つめる成宮先生の視線が痛くて、俺は口を結んで俯いてしまう。成宮先生に泣いてすがりつきたい衝動をグッと堪えた。


「何で辞めたいって思ったんだよ?」
「何でって……」


 黙って俯いてしまった俺に、成宮先生が腰をかがめて俺の顔を覗き込みながら、もう一度問いかけてくる。その言葉に、俺のボロボロの心から色々な思いが溢れ出した。


「いいから話してみろよ? 聞いてやるから」
「俺、俺……出来が悪いから藤堂先生に怒られてばかりで。ついさっきも、頑張って書き上げたレポートを全部書き直せって言われてしまって。自信を無くしてしまいました」
「はぁ? 藤堂に全部書き直せって言われたのか? そんなん、ありえねぇだろう? ちょっと見せてみろ」
「え? あ、あの……」


 成宮先生は俺からレポートを取り上げて、壁にもたれ掛かりながら目を通し始める。藤堂先生のように雑に目を通すのではなく、丁寧に読んでくれているのがわかった。


「このレポートの患者、りんちゃんだろ? 俺もよく知ってる。産婦人科と小児科は、隣り合わせの科だからな……凛ちゃんは俺も何度も診察してるし」
 そう呟きながら、成宮先生はレポートを読み続けている。きっと手術後で疲れているだろうに、こんなイチ初期臨床研修医の為に時間を割いてくれることが、すごく嬉しかった。


「いや、ひよこ組にしてはよく書けてるんじゃねぇの? 頑張ったな」
 成宮先生は、俺の頭を優しく撫でてくれた。あの時と変わらない大きくて温かな手に、頬を静かに涙が伝う。その涙を慌てて手の甲で拭った。


「たださ、もっとよくなるだろうから教えてやるよ」
「え? でも成宮先生、手術で疲れてるんじゃ……」
「んー、疲れてるから、あそこの自販機でコーヒー奢れ」
 成宮先生は大きく伸びをしてから、近くにある自販機を指さした。


「お前さ、俺と一緒に働きたくて医者になったんだろう?」
「……え……?」


 成宮先生のその言葉に、俺は思わず叫び出したくなるほど歓喜してしまう。
 思わず身を乗り出して、成宮先生との距離を詰めてしまった。


「な、成宮先生……お、俺のこと、覚えてくれてたんですか?」
「まぁ、たまたま? でも、まさかあの時の子供ガキが、本当に医者になるとは思わなかったけど。なぁ、コーヒー取らねぇの?」
「あ、は、はい。すみません」
「お前、案外とろいんだな」
「す、すみません」


 たまたまだって構わない。成宮先生が覚えていてくれたことが、本当に嬉しかった。


 慌ててしゃがみ込んで自動販売機からコーヒーを取り出していると、成宮先生が腕を引っ張って立ち上がらせてくれる。振り返ってコーヒーを渡そうとすると、想像以上の至近距離に成宮先生の顔があって、急に顔が熱くなっていくのを感じた。


 思わず後ずさると自動販売機が背中に当たる。同時に心臓が、トクントクンと高鳴った。


 ……なんだ、これ……。


 恥ずかしさのあまり、成宮先生から視線を逸らしたいのに、それができない。心臓が張り裂けそうなほどに拍動を打った。


「そのコーヒー、俺にくれるんだろう?」
「あ、はい。あのレポート、よろしくお願いします」
「了解。ほら、モタモタしてんじゃねぇよ。小児科の医局に来い。レポート書き直すぞ。大丈夫だ。俺がちゃんと指導してやるよ」
「あ、はい」
 慌てて後について走り出す俺を見て、成宮先生が悪戯っ子のように笑い出す。


 あれ、成宮先生ってこんな感じだったっけ……。
 そんな疑問が頭を過ったけれど。これまでに何度も安心させてくれた優しい笑顔に、また俺は救われたのだった。


「凄い……。成宮先生って技術スキルだけじゃなくて、頭もいいんですね」
「当り前だろう? 今までどんだけレポートを書いてきたと思ってんだよ」
「そうですよね。野暮なことを言ってすみません」
「別にいいよ。ほら、腹も減ってるだろう?」
「あ、ありがとうございます」


 俺が褒めたことが照れくさかったのか成宮先生が唇を尖らせる。照れ隠しだろうか、医局のテーブルの上に置いてあったスナック菓子を乱暴に口の中に放り込んでくれた。


 俺が駄目出しをくらったレポートは、成宮先生のアドバイスで見間違えるほどよくなったのを感じる。
 成宮先生は嫌な顔なんてせずに、丁寧にレポートの指導をしてくれた。その対応は、内容にさえ目を通すことなくレポートを突き返してきた藤堂先生の対応とは全く違って、俺はまた目頭が熱くなるの感じてしまう。


「この菓子うまいだろう?」
「はい、すごく美味しいです」
「よし、もっと食え。そもそもさ、そのレポートは研修医にしたらまあまあ書けてると思うぜ? だから、ただ単にお前に嫌がらせがしたかっただけだろう」
「そんな……」
「大丈夫だ。明日は俺が藤堂のところに一緒に行ってやるから」
「本当ですか? でも、成宮先生お忙しいのに……」
「仕方ねぇだろう? お前、とろそうだからさ。それに、俺ももともと藤堂が大嫌いだ」
「……あ、ありがとうございます」
「よく頑張ったよ」
「はい」


 もう一度成宮先生が口に放り込んでくれたスナック菓子を噛み締めれば、ジワリと口の中に香ばしい味が広がっていく。


 また、成宮先生に助けられちゃったな……。


 俺は再び溢れそうになった涙を慌てて手の甲で拭った。

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