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第3話「本当の自分」
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第3話「本当の自分」
翌日の夕方、健一は約束通り迎えに来てくれた。今日の目的地は、都内の美術館だった。
「美術館なんて、久しぶりです」
「僕も実は。でも君と一緒なら、きっと楽しいと思って」
健一の運転する車の中で、私たちは他愛のない話をした。好きな音楽、映画、食べ物のこと。恋人代行では、相手の好みに合わせて答えることが多いのだが、今日は自分の本当の好みを答えていた。
「クラシック音楽が好きなんだ」
「私も好きです。特にショパンが」
「本当?僕もショパンが一番好き」
こんな偶然の一致が、なぜか嬉しかった。
美術館では、現代アートの企画展が開催されていた。色鮮やかな抽象画から、不思議な造形の彫刻まで、様々な作品が展示されている。
「これ、何を表現してるんだろう」
一枚の絵画の前で、健一が首をかしげていた。赤と青の激しい色彩が渦を巻くような作品だった。
「情熱、かな」私は直感で答えた。「赤が愛で、青が孤独。その二つがぶつかり合ってる」
健一は私を見つめた。
「面白い解釈だね。美月は芸術に詳しいの?」
「詳しくはないです。ただ、感じたままを」
これも、いつもの私なら相手に合わせた当たり障りのない答えを返すところだった。しかし健一の前では、素直に感じたことを口にしてしまう。
次の展示室に向かう途中、健一が突然立ち止まった。
「美月」
「はい?」
「君の本当の夢って、何?」
また、予想外の質問だった。
「夢、ですか?」
「恋人代行の仕事を始める前は、何をしていたの?何になりたかったの?」
私は少し迷った。これまでの依頼者には、当たり障りのない架空の経歴を話していた。でも健一には、本当のことを話したくなった。
「実は、翻訳家になりたかったんです」
「翻訳家?」
「大学で文学を専攻していて、海外の小説を日本語に訳す仕事に憧れてて。でも就職活動がうまくいかなくて」
健一は真剣に聞いてくれていた。
「今でも、その夢は諦めてないの?」
「分からないです」私は正直に答えた。「でも最近は、考える余裕もなくて」
「どうして?」
「恋人代行の仕事に忙しくて。それに、もう二十六歳だし、現実的じゃないかも」
健一は私の手を取った。さっきとは違う、もっと強い握り方だった。
「二十六歳なんて、まだまだ若いよ。夢を諦めるには早すぎる」
彼の真剣な表情に、胸が熱くなった。
「健一は、今の仕事が好きなんですか?」
「好きだよ。大変だけど、やりがいがある」健一は微笑んだ。「でも最近、仕事だけの人生でいいのかって思うようになった」
「それで、恋人代行を?」
「最初はそうだった。でも君に出会って、考えが変わった」
美術館を出て、近くのカフェでお茶をすることになった。夕日が窓から差し込む静かなカフェで、私たちはさらに深い話をした。
「恋人代行の仕事、他の人には話せないでしょう?」健一が聞いた。
「家族には言ってないです。友達にも」
「孤独じゃない?」
その言葉が、心の深いところに響いた。
「孤独、かもしれません」
私は初めて、そのことを認めた。いつも誰かの理想の恋人を演じていて、本当の自分を出せる人がいない。友達との関係も、どこか表面的になってしまった。
「僕も孤独だった」健一が言った。「仕事に追われて、本当に大切なものを見失ってた。でも君といると、忘れていた感情を思い出す」
「どんな感情ですか?」
「誰かを大切にしたいという気持ち。誰かに大切にされたいという気持ち」
健一は私の目を見つめた。
「美月、変なことを聞くけど」
「はい」
「僕たちの関係って、本当に仕事だけなの?」
その質問に、私は答えられなかった。心臓が激しく鼓動している。
「分からない、です」
正直な気持ちだった。
「僕も分からない」健一は苦笑いを浮かべた。「最初は演技だと思ってた。でも君といると、演技じゃない自分がいる」
カフェを出て、健一の車で家まで送ってもらう途中、私たちは手を繋いでいた。ただし今度は、恋人らしく見せるためではなく、繋いでいたかったから。
マンションの前で車が止まった。
「今日も楽しかった」私は健一を見つめた。
「僕も。美月の本当の姿を見ることができて、嬉しい」
健一は車から降りて、私の側まで回ってきた。
「美月」
「はい?」
「翻訳家の夢、諦めないで」
「どうしてですか?」
「君の本当の輝きを見てみたいから」
そう言って、健一は私の頬に優しく触れた。
「キス、してもいい?」
仕事なら、当然のことだった。でも今は、仕事だからではなく、したいからだった。
「はい」
健一の唇が、私の唇に重なった。これまで何度もキスをしてきたはずなのに、今回は全く違っていた。優しくて、温かくて、愛おしくて。
キスが終わっても、私たちはしばらく見つめ合っていた。
「また明日」健一が囁いた。
「また明日」
部屋に戻って、鏡の中の自分を見つめた。頬が赤く染まっている。恋をしている女の顔だった。
これは、まずい。
恋人代行の仕事では、決して本気になってはいけない。それが鉄則だった。でも今の私は、明らかにその一線を越えてしまっている。
スマートフォンに、健一からメッセージが届いた。
『今日は本当にありがとう。君の本当の姿を知ることができて、もっと好きになった』
好きになった。
その言葉を読んで、涙がこぼれそうになった。
これは仕事だ、と自分に言い聞かせようとした。でも心は、もう健一を求めている。
六十日間の契約。あと五十六日。
この気持ちを、どうやって整理すればいいのだろう。
そして契約が終わった時、私たちはどうなるのだろう。
ベッドに横になりながら、私は考え続けていた。翻訳家の夢のこと、健一のこと、そして自分の本当の気持ちのこと。
恋人代行として生きてきた三年間で、初めて本当の恋をしているかもしれない。
でもそれは、許されることなのだろうか。
第3話 完
翌日の夕方、健一は約束通り迎えに来てくれた。今日の目的地は、都内の美術館だった。
「美術館なんて、久しぶりです」
「僕も実は。でも君と一緒なら、きっと楽しいと思って」
健一の運転する車の中で、私たちは他愛のない話をした。好きな音楽、映画、食べ物のこと。恋人代行では、相手の好みに合わせて答えることが多いのだが、今日は自分の本当の好みを答えていた。
「クラシック音楽が好きなんだ」
「私も好きです。特にショパンが」
「本当?僕もショパンが一番好き」
こんな偶然の一致が、なぜか嬉しかった。
美術館では、現代アートの企画展が開催されていた。色鮮やかな抽象画から、不思議な造形の彫刻まで、様々な作品が展示されている。
「これ、何を表現してるんだろう」
一枚の絵画の前で、健一が首をかしげていた。赤と青の激しい色彩が渦を巻くような作品だった。
「情熱、かな」私は直感で答えた。「赤が愛で、青が孤独。その二つがぶつかり合ってる」
健一は私を見つめた。
「面白い解釈だね。美月は芸術に詳しいの?」
「詳しくはないです。ただ、感じたままを」
これも、いつもの私なら相手に合わせた当たり障りのない答えを返すところだった。しかし健一の前では、素直に感じたことを口にしてしまう。
次の展示室に向かう途中、健一が突然立ち止まった。
「美月」
「はい?」
「君の本当の夢って、何?」
また、予想外の質問だった。
「夢、ですか?」
「恋人代行の仕事を始める前は、何をしていたの?何になりたかったの?」
私は少し迷った。これまでの依頼者には、当たり障りのない架空の経歴を話していた。でも健一には、本当のことを話したくなった。
「実は、翻訳家になりたかったんです」
「翻訳家?」
「大学で文学を専攻していて、海外の小説を日本語に訳す仕事に憧れてて。でも就職活動がうまくいかなくて」
健一は真剣に聞いてくれていた。
「今でも、その夢は諦めてないの?」
「分からないです」私は正直に答えた。「でも最近は、考える余裕もなくて」
「どうして?」
「恋人代行の仕事に忙しくて。それに、もう二十六歳だし、現実的じゃないかも」
健一は私の手を取った。さっきとは違う、もっと強い握り方だった。
「二十六歳なんて、まだまだ若いよ。夢を諦めるには早すぎる」
彼の真剣な表情に、胸が熱くなった。
「健一は、今の仕事が好きなんですか?」
「好きだよ。大変だけど、やりがいがある」健一は微笑んだ。「でも最近、仕事だけの人生でいいのかって思うようになった」
「それで、恋人代行を?」
「最初はそうだった。でも君に出会って、考えが変わった」
美術館を出て、近くのカフェでお茶をすることになった。夕日が窓から差し込む静かなカフェで、私たちはさらに深い話をした。
「恋人代行の仕事、他の人には話せないでしょう?」健一が聞いた。
「家族には言ってないです。友達にも」
「孤独じゃない?」
その言葉が、心の深いところに響いた。
「孤独、かもしれません」
私は初めて、そのことを認めた。いつも誰かの理想の恋人を演じていて、本当の自分を出せる人がいない。友達との関係も、どこか表面的になってしまった。
「僕も孤独だった」健一が言った。「仕事に追われて、本当に大切なものを見失ってた。でも君といると、忘れていた感情を思い出す」
「どんな感情ですか?」
「誰かを大切にしたいという気持ち。誰かに大切にされたいという気持ち」
健一は私の目を見つめた。
「美月、変なことを聞くけど」
「はい」
「僕たちの関係って、本当に仕事だけなの?」
その質問に、私は答えられなかった。心臓が激しく鼓動している。
「分からない、です」
正直な気持ちだった。
「僕も分からない」健一は苦笑いを浮かべた。「最初は演技だと思ってた。でも君といると、演技じゃない自分がいる」
カフェを出て、健一の車で家まで送ってもらう途中、私たちは手を繋いでいた。ただし今度は、恋人らしく見せるためではなく、繋いでいたかったから。
マンションの前で車が止まった。
「今日も楽しかった」私は健一を見つめた。
「僕も。美月の本当の姿を見ることができて、嬉しい」
健一は車から降りて、私の側まで回ってきた。
「美月」
「はい?」
「翻訳家の夢、諦めないで」
「どうしてですか?」
「君の本当の輝きを見てみたいから」
そう言って、健一は私の頬に優しく触れた。
「キス、してもいい?」
仕事なら、当然のことだった。でも今は、仕事だからではなく、したいからだった。
「はい」
健一の唇が、私の唇に重なった。これまで何度もキスをしてきたはずなのに、今回は全く違っていた。優しくて、温かくて、愛おしくて。
キスが終わっても、私たちはしばらく見つめ合っていた。
「また明日」健一が囁いた。
「また明日」
部屋に戻って、鏡の中の自分を見つめた。頬が赤く染まっている。恋をしている女の顔だった。
これは、まずい。
恋人代行の仕事では、決して本気になってはいけない。それが鉄則だった。でも今の私は、明らかにその一線を越えてしまっている。
スマートフォンに、健一からメッセージが届いた。
『今日は本当にありがとう。君の本当の姿を知ることができて、もっと好きになった』
好きになった。
その言葉を読んで、涙がこぼれそうになった。
これは仕事だ、と自分に言い聞かせようとした。でも心は、もう健一を求めている。
六十日間の契約。あと五十六日。
この気持ちを、どうやって整理すればいいのだろう。
そして契約が終わった時、私たちはどうなるのだろう。
ベッドに横になりながら、私は考え続けていた。翻訳家の夢のこと、健一のこと、そして自分の本当の気持ちのこと。
恋人代行として生きてきた三年間で、初めて本当の恋をしているかもしれない。
でもそれは、許されることなのだろうか。
第3話 完
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