【完結】恋人代行サービス

山田森湖

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第4話「境界線の揺らぎ」

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第4話「境界線の揺らぎ」

契約開始から一週間が過ぎた。健一との時間は、もはや仕事という感覚ではなくなっていた。

平日の夜、健一の会社近くのレストランで待ち合わせることになった。仕事が終わってから会うのは初めてだった。

「お疲れさま」

スーツ姿の健一が、少し疲れた表情で現れた。

「お疲れさま、健一。遅い時間にごめんなさい」

「いや、君に会いたくて」

その素直な言葉に、胸がキュンとした。

レストランで向かい合って座りながら、健一が仕事の話をしてくれた。新しいプロジェクトの準備で忙しいこと、部下の指導に悩んでいること。

「美月に話すと、気持ちが整理される」健一は微笑んだ。「こんなこと、これまで誰にも話したことがなかったのに」

「私でよければ、いつでも聞きます」

それは、恋人代行としての定型句だった。でも今は、心からそう思っていた。

「ところで」健一がワインを一口飲んでから言った。「来週の土曜日、僕の会社の懇親会があるんだ。パートナー同伴で」

「分かりました。どんな服装がいいですか?」

「フォーマルな感じで。でも美月なら、何を着ても素敵だと思う」

その言葉に顔が熱くなる。こんな風に褒められると、仕事だということを忘れてしまいそうになる。

「あの、健一」

「何?」

「私のこと、本当はどう思ってますか?」

思わず口から出てしまった質問だった。

健一は少し驚いたような表情を見せた。

「どうって?」

「恋人代行として雇っているのか、それとも...」

言葉が続かなかった。何を聞きたいのか、自分でも分からなかった。

「美月」健一は身を乗り出した。「正直に言うと、最初は恋人代行として雇った。でも今は違う」

「違うって?」

「君を一人の女性として見ている。美月として」

心臓が激しく鼓動した。

「でも契約は...」

「契約のことは忘れよう」健一は私の手を取った。「今この瞬間、僕たちは契約なんて関係なく、ここにいる」

その夜、健一がマンションまで送ってくれた時、彼は車から降りて私の前に立った。

「美月、今夜は僕の部屋に来ない?」

その言葉に、全身が熱くなった。これまでも何度か、依頼者と一夜を過ごしたことはあった。でも今回は全く違う。仕事としてではなく、女性として求められている。

「でも...」

「嫌なら無理はしない。ただ、君ともっと時間を過ごしたくて」

健一の真剣な眼差しを見つめながら、私は迷っていた。この一線を越えてしまったら、もう後戻りはできない。

「行きます」

自分でも驚くほど、はっきりと答えていた。

健一のマンションは、高層階にある広々とした部屋だった。大きな窓からは夜景が一望でき、洗練されたインテリアが配置されている。

「飲み物、何がいい?」

「コーヒーでお願いします」

健一がキッチンでコーヒーを淹れている間、私はリビングで彼の本棚を眺めていた。ビジネス書の間に、文学作品がいくつか並んでいる。

「村上春樹、お好きなんですね」

「うん、昔からよく読んでる」健一がコーヒーカップを持ってきた。「美月は?」

「私も好きです。特に『ノルウェイの森』が」

「僕も一番好きな作品だ」

また一つ、共通点を見つけた喜びがあった。

ソファに並んで座りながら、私たちは本の話、映画の話、そして将来の話をした。時間が経つのを忘れるほど、自然な会話だった。

「美月」

「はい?」

「君といると、本当の自分でいられる」

健一は私の肩に手を置いた。

「私も同じです」

それは、本心だった。

健一の顔が近づいてきた。今度のキスは、前回よりも深く、情熱的だった。私も彼の背中に腕を回し、応えた。

「美月」

健一が私の名前を呼ぶ声が、耳元で震えていた。

「いいの?」

「はい」

私たちはベッドルームに向かった。そこで過ごした時間は、これまでの仕事とは全く違うものだった。愛情に満ちた、優しい時間だった。

翌朝、健一の腕の中で目を覚ました時、私は複雑な気持ちだった。幸せだった。でも同時に、不安も感じていた。

「おはよう」

健一が優しく微笑みかけた。

「おはようございます」

「コーヒー淹れるよ。君はどっちが好み?濃いめ?薄め?」

「薄めでお願いします」

こんな何気ない朝の会話が、とても自然で、とても幸せだった。

キッチンでコーヒーを飲みながら、健一が言った。

「美月、昨夜のことだけど」

「はい」

「後悔してない?」

私は少し考えてから答えた。

「後悔はしてません。でも...」

「でも?」

「これでいいのか分からなくて」

健一は私の前に座った。

「僕たちの関係が複雑になってることは分かってる。でも昨夜、君と過ごした時間は本物だった」

「本物?」

「演技じゃない、本当の気持ちだった」

私の目に涙がにじんだ。

「私も同じです。でも健一、私は恋人代行として雇われた身で...」

「その肩書きは忘れよう」健一は私の手を握った。「僕にとって君は、もう恋人代行じゃない。一人の大切な女性だ」

その言葉が、私の心の奥深くに響いた。

しかし同時に、現実も見えていた。この契約には期限がある。六十日後、私たちはどうなるのだろう。

「健一、契約のことですが...」

「今はそのことは考えないでくれ」健一は私の頬に手を当てた。「今この瞬間を大切にしよう」

その後、健一が私をマンションまで送ってくれた。別れ際、彼は私にキスをした。

「また連絡するよ」

「はい」

部屋に戻ってシャワーを浴びながら、私は昨夜のことを思い返していた。健一の優しい手、温かい体温、愛しさに満ちた時間。

でも同時に、恋人代行としての職業意識も残っていた。これでいいのだろうか。私は仕事と恋愛の境界線を越えてしまったのではないか。

午後、親友の由香から電話がかかってきた。

「美月、最近どう?元気?」

「元気よ」

「なんか声が明るい。何かいいことあった?」

由香は私の親友で、数少ない恋人代行の仕事を知っている人だった。

「実は...」

私は健一のことを話した。もちろん、詳細は伏せて。

「えー!それってもしかして、本気になっちゃった?」

由香の声が心配そうだった。

「分からない。でも今まで感じたことのない気持ち」

「美月、大丈夫?恋人代行で本気になるのは危険よ」

分かっている。頭では分かっている。でも心は、もう健一を求めていた。

「由香、私どうしたらいい?」

「まず冷静になること。相手にとって君は、お金を払って雇った恋人よ?本当の恋愛とは違うって、忘れちゃダメ」

電話を切った後、私は長い時間考えていた。

由香の言葉は正しい。私は恋人代行として雇われた身だ。健一がどんなに優しい言葉をかけてくれても、それは契約の範囲内かもしれない。

でも昨夜の健一の表情、声、すべてが本物に感じられた。

スマートフォンにメッセージが届いた。健一からだった。

『昨夜は素敵な時間をありがとう。君のことが頭から離れない。今度の懇親会、楽しみにしてる』

そのメッセージを読んで、また心が揺れた。

私は健一に恋をしている。それは間違いない。

でも彼の気持ちは、本物なのだろうか。

六十日間の契約が終わった後も、私たちの関係は続くのだろうか。

不安と期待が入り混じった気持ちで、私は返信を打った。

『私も素敵な時間でした。懇親会、頑張りますね』

送信ボタンを押してから、私は思った。

もう後戻りはできない。この恋の行方がどうなろうと、今は健一との時間を大切にしよう。

そう決意した時、不思議と心が軽くなった。

恋人代行として始まった関係が、本物の恋に変わりつつある。

これが運命なら、受け入れよう。

第4話 完
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