心のすきまに【社会人恋愛短編集】

山田森湖

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喫煙所の5分間

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喫煙所の5分間


朝の空気は冷たく、オフィス街にまだ人は少ない。
私はいつものように、誰もいない喫煙所へ向かう。
ここでの5分間だけが、私にとっての小さな逃避時間だった。

煙草をくゆらせながら、私は彼の姿を探す。
別部署の年上男性――彼もまた、毎朝ここに現れる。
まだ言葉は少ない。会話は簡単な挨拶程度。
でも、何気ないその瞬間が、私には心地よかった。

「おはようございます」
彼の声は低く、少し擦れた響きがあって、朝の静けさに溶けていく。
私は小さく微笑み返す。

「おはようございます」

それからの5分間は、沈黙の時間。
煙草の煙がゆっくり空に溶けていくように、互いの視線が少しずつ重なる。
何を話すでもなく、ただ存在を感じ合うだけ。
それで、胸の奥が満たされる。

——誰にも言えない関係。
社内では他部署で、昼休みや会議で顔を合わせることもほとんどない。
でも、この喫煙所だけは、私たちだけの秘密の場所だった。

ある日、私は決意を固めた。
禁煙する、と。

煙草を置き、ライターをしまう瞬間。
彼の目がじっと私を見つめていた。
少し驚いたような、でもどこか温かい視線。

「今日で、最後ですか?」
その声に、胸がぎゅっと締め付けられる。

「……はい」
言葉を絞り出す。
煙草と共に、私の日常の一部も消えるような気がして、少し寂しい。

彼はふっと笑みを浮かべ、近づいてくる。
「そうか。……なら、最後にひとつだけ」
手が私の肩に触れる。
その距離に、心臓が早鐘のように打つ。

「……なにを?」

「本音、聞かせてほしい」
彼の視線は、真剣で、そして少し熱を帯びていた。

——心の奥の、誰にも見せていない部分。
私は息を止め、目を閉じる。
そして、そっと呟いた。

「……あなたのこと、ずっと意識していました」

その瞬間、彼の顔が一瞬、驚きに揺れる。
でもすぐに、優しい微笑みに変わる。
手が私の髪をかすかに撫で、背中に回された手の温もりが体を包む。

「俺もだよ」
低く、そして力強い声。
その一言で、抑えていた想いが、一気に溢れ出す。

胸が熱くなり、指先が震える。
言葉にできなかった日々が、5分間の沈黙の中で一気に溶けていく。
煙草の匂いはもうないのに、彼の温もりと香りが残り、私の体を熱くする。

そのまま、壁にもたれて唇を重ねる。
人目を避けるように、でも強く。
軽く触れるだけのつもりが、手は自然と体に回り、指先が肌に触れる。
こんなことは、誰にも言えない。
でも、今は彼だけに全てを預けたい。

「……ここで……いいのか?」
彼が囁く。
声の低さに、体が震える。

「……はい」
答えた瞬間、熱が全身に広がる。
沈黙の5分間が、私たちをこんなにも近づけていたなんて――。

終わりのベルは、まだ鳴らない。
でも、私たちはわかっている。
この秘密の時間は、日常のほんの一瞬でしかない。
それでも、この5分間で、心は何倍も満たされる。

朝の光が少しずつ街に差し込む中、彼の手を握り、私は静かに息を整える。
喫煙所の扉を開ける前に、彼は小さく笑い、額に軽く口づけをした。

「明日も、ここで」
私は微笑み返し、頷く。
禁煙しても、この場所は、私たちの小さな秘密のままだ。

——毎朝5分間の恋は、今日もまた、静かに、確かに始まるのだ。
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